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人魚姫と水棲竜1


 礼拝堂内に重々しい鐘の音が響き渡る。

 ステンドガラスに描かれた女神イーリスの微笑みは、竜導師の死を嘆いてか、どこか悲しげな眼差しをしているように見えた。


 イーリス教会の最高指導者である竜導師が死去し、世界各国の君主や枢機卿が葬儀に参列している。彼らが一堂に会する光景は、まさに壮観だった。


 インヴィディア王国のリアン王とテオドール・スティパトール枢機卿が険しい顔をして、これから行われる竜導師の投票について話し合っている。

 警護の合間にふと周囲に目をやると、庭のあちこちに見覚えのあるハーブが生えているのが見えた。

 マジョラムというハーブだ。修道士たちが育てているのだろう。死者の冥福を祈って墓地に植えられることも多い。

 この植物に囲まれていると、この大きな礼拝堂そのものが竜導師の墓のように思えた。


「竜導師は本当に老衰か?」

「ヘリアス様」


 ラインの咎めるような声が上がる。


「誰も聞いてはいないだろう。誰もが自分の権力のことばかり考えている」

「まあ、そうですけど……。真相はわかりませんが、荒れそうですね」


 私たちの視線の先には、保守派の枢機卿たちが集まっていた。

 「再び女神の力を示し、女神の力で統治されるべき」と主張する保守派は、近頃教会の権威が低下していることに危機感を覚えているらしい。


(竜の生死権を始めとした、竜の権利に関する利権を手放したくない。それが本音だろう)


 パルテノス教会にいたシモス・チリアット司教も保守派である。

 彼らは、竜の権利に関する制度改革を望む改革派や私のことを目の敵にしているようだ。

 これから次の竜導師の投票が始まるが、穏便に済むとは思えない。


「ヘリアス様、来ましたよ」


 ラインの声に、意識が現実へ引き戻される。

 私たちの目の前に、ひとりの男が姿を現した。彼は他の枢機卿たちから「猊下」と呼ばれていた。


(竜師長のお出ましか)


 私の視線の先には、三十代くらいの黒髪の男が立っている。

 主席枢機卿ルイス・コーラル。彼が現れた瞬間、殺伐とした雰囲気が一気に和らいだ。

 彼は穏やかな笑顔を浮かべ、他の枢機卿たちの肩に触れては、優しく声をかけている。

 噂では保守派のトップであり、次の竜導師と言われる存在だった。

 

(一度、声をかけてみるか)


 そう思った瞬間、「ヘリアス卿」と背後から聞き覚えのある声に呼ばれて、嫌な気分になりながら振り返る。

 そこには、プラチナブロンドの髪をオールバックにした、二十代くらいの男が立っていた。

 常に人を見下すような目をしているこの男は、ラベゼリン・カダーヴェル。

 アウデンティア公国に隣接する都市を拠点にするカダーヴェル伯爵家の嫡男で、父親は内務卿を務めている。

 隣接していることもあってか、昔からアルトリーゼ家をライバル視してくる家だ。


「……何か用か?」

「用がなければ話しかけてはいけないのですか? あなたに忘れられていないか心配でね。魔物を斬りすぎて、知能まで魔物のように低下してしまったのでは困りますから」

「安心しろ。こんなにきつい香水をつけているのはお前くらいだ。同じ場所にいれば嫌でも思い出す」


 鼻がおかしくなりそうだ。そうつぶやくと、ラベゼリンの頬がぴくっと動いた。それでも笑みは崩さない。

 ラベゼリンは「ああ、そういえば」と今思い出したというように、わざとらしく言った。


「そろそろ到着した頃合いですかね」

「何の話だ」

「竜聖医であるあなたの奥方が、『天青の神殿』に到着した頃合いかと」


 私はラベゼリンの胸ぐらをつかみ、壁に叩きつけた。

 やつの口から「ぐあっ!?」と潰れたような声が漏れるが、知ったことではない。

 ラインの制止の声が聞こえた気がするが、怒りが私の耳を塞いでいた。


「どういうつもりだ。なぜ天青の神殿にフィルナが!」


 ラベゼリンは苦しげな顔をしながら、にやっと笑った。

 天青の神殿とは、第三王子マルセル様が建てた屋敷の名前であり、今はそこに奥方が住んでいるはずだ。


「な、なぜって、竜を治療するために決まっているでしょう?」

「貴様の策略か」

「まさか! 王太子殿下のご依頼ですよ」

「貴様が嬉々として報告する時点で認めたようなものだ」


 服から手を離すと、ラベゼリンは忌々しそうに私をにらみながら乱れた襟元を直した。


「野蛮人め……さすがは苛烈な王の剣。忠義の皮を被った簒奪者と噂になるのも納得だ」

「ほう、ずいぶん難しい言葉を知っているな。本でも読んだか?」


 ラベゼリンは苛立ったように私をにらんだ。


「相変わらず腹の立つ男だ!」

「こちらのセリフだ。わざわざ第三王子の奥方が住む屋敷にフィルナを向かわせるなど……」

「私の指示ではないと言っているでしょう。ベルンハルト様がそう依頼したのです。私が、わざわざ、そんなことをする必要がありますか?」

「実力では私に勝てないからだ」

「貴様っ!」


 ラベゼリンの声が激しい怒りに震えているが、怒りを感じているのは私の方だ。

 五年前の第三王子マルセル様の反乱。その戦乱の傷が完全に癒えていないのに、その奥方のもとへアルトリーゼ家の人間を向かわせるなど、悪意以外の何ものでもない。

 私たちはしばらくにらみ合っていたが、ラベゼリンは陛下をちらと見やると、突然興味を失ったように私から視線をそらした。


「マルセル様の奥方が所有する水棲竜が不調を訴えているそうです」

「専属竜医師はどうした」

「専属竜医師どころか、どんな竜医師でもお手上げだそうです。とはいえ、このままにはしておけないでしょう?」


 ラベゼリンはそう言って、口元に薄い笑みを浮かべた。


「王子の依頼ですから、断ることもできないでしょうね。しかし、依頼が達成できなければ、竜聖医の称号ははく奪されるでしょう。規模と影響力が大きいアウデンティア竜護院の管理者も辞退することになる。そうなれば、アルトリーゼ家の名に再び傷がつくことになりますね。お可哀想に……奥方はきっと自分を責めるでしょう」


 言葉とは裏腹に、その声は心底楽しそうだ。


「しかも彼女は、キントバージェ家の娘なんですよね? ウタヒメを騙った大罪人の姉であり、犯罪者ウィルの元妻……。よくもまあ、あのような女性を、今も妻としてそばに置いていられますね。高貴な血筋の生まれである私には、とても真似できない」

「だろうな。貴様のような血筋に寄生するしか能のない器の小さな男には、到底真似できないだろう」

「何だと!?」

「それに、彼女はすでにエクプローヴァ家の娘だ。我が国を救った研究者の家だが、家柄に文句でも?」


 ラベゼリンは頬を震わせ、何か言い返そうと口を開いたが、陛下が近くにいることを思い出して、その怒りを飲みこんだ。


「……血は変えられない。彼女を傷物と噂する者も多くいる」

「根も葉もない噂を盾にしなければ私に立ち向かえないとは。この様子では、内務卿も後継者選びに苦労することだろう」


 ラベゼリンは血走った目で私をにらんだ。ぎりっと歯ぎしりの音が漏れる。


「そう言っていられるのも今の内だ!」

「その言葉、そのまま貴様に返そう」


 私が一歩近づけば、ラベゼリンは威嚇するように私をにらみながら後退りする。


「貴様はあまりにもフィルナを知らない。私の妻は、あなたの思い通りに動くほど従順ではない。あの人もまた、支配する側(アルトリーゼ)の人間だ」


 「後悔するぞ」そうささやけば、ラベゼリンは目を見開き、こくりと喉を動かした。


「し、失礼する!」


 ラベゼリンは慌てて背を向け、足早に立ち去った。

 しかし、廊下の曲がり角で竜騎士とぶつかり、


「貴様の目は飾りか! それとも腐っているのか!?」


 と八つ当たりをするように怒鳴りつけている。

 ラインが「相変わらずですねぇ」と笑った。


「マルセル様の奥方といえば、エンリカ様ですか。ヘリアス様がエレクトラに来たタイミングで厄介な依頼を持ちこみましたね」

「ベルンハルト様の名前を出されては、フィルナは断れない」

「相変わらず陰湿なことで。奥様のことです、こちらに連絡を寄越すはずですよ」

「ああ、わかっている。今すぐ確認しろ」

「了解」


 ラインの背中を見送りながら、出発前に見たフィルナの笑顔を思い出す。

 ラベゼリンが何かしらの妨害工作を仕掛けている可能性が高い。

 彼女が竜医師の仕事を無事にやり遂げられるように、何か私にできることはないだろうか……。

 彼女からの連絡を待つこの時間が、いつも以上に長く感じた。


◇◇◇


 王都から離れた辺境の地。

 広大な湖に浮かぶ小島に、美しい屋敷が建っている。

 通称「天青の神殿」と呼ばれている屋敷だ。

 かつて、第三王子であるマルセル様が、セレスティー公爵の爵位とともに与えられた小領地である。


 周囲は霧に包まれていて、幻想的な雰囲気が漂っていた。

 屋敷の雰囲気や屋根、窓の形など、どこかスペルビア風の様式に思えた。

 マルセル様がエンリカ様をどのように想っていたのか、少しわかるような気がする。

 フィルナは、ここにエンリカ様と彼女の水棲竜がいると聞いてやって来たのだけど……。


「申し訳ありませんが、当屋敷への立ち入りはご遠慮いただいております。どうぞお引き取りください」


 と屋敷の門の前で、金髪の綺麗な女性に拒まれてしまった。

 彼女は侍女長のヴェルデさん。その両脇には、金髪を肩の上で切りそろえた双子の侍女が立っている。

 ヴェルデさん同様、そのそっくりな顔で、鋭く私をにらんでいる。

 「フィルナ」と名乗った瞬間にこれである。まずは話を聞いてもらわないと。


「しかし、私は水棲竜の診察依頼を受けて――」

「大罪を犯したキントバージェ家の娘の言葉は信用なりません」

「ウタヒメを騙った女の姉なのでしょう? 水棲竜を毒殺されては困ります」


 と双子侍女が警戒するように言った。

 

(困ったわね)


 リスティーの件で警戒されるのは想定内だったけれど、屋敷に入ることさえできないなんて……。


(とはいえ、このまま帰るわけにはいかないわ。不調の竜がいるなら診察したいし、第一王子の依頼でもあるんだから!)


 事情を説明しようとした瞬間、今まで黙っていたシーラが爆発した。


「無礼ではありませんか! アルトリーゼ公爵夫人フィルナ様に対してそのような態度、エンリカ様の侍女だからといって、決して許されませんよ!」

「シーラ、落ち着いて」


 シーラの猛抗議に対し、双子侍女は驚いたように口元を隠しながら、


「まあ! 急に大声を上げるなんて、アルトリーゼ家の侍女は乱暴だわ。ねえ、ヒルデ?」

「ええ、リンデ。まるで怒った猿のようだわ」


 と言って「ぷぷっ」と笑った。

 シーラは、怒りと屈辱に顔をゆがませて叫んだ。


「いい加減にしてください! 我らアルトリーゼ家と敵対するおつもりですか!?」

「だめよ、シーラ」

「ですが……!」


 さすがにそれ以上の発言は危険だ。私は怒りに支配されているシーラと目を合わせて微笑んだ。


「アルトリーゼ家の誇りを守ろうとしてくれて、ありがとう」

「奥様……」


 シーラはいくらか冷静さを取り戻したらしく、申し訳なさそうな顔をして後ろに下がった。

 私はもう一度ヴェルデさんに向き直って訊ねた。


「水棲竜はどのような状態ですか? ぐったりしている? 食欲がない?」

「お答えできません」

「便は固形になっている? 誰も竜に近づけない?」


 ヴェルデさんの眉がぴくっと動いた。

 私は彼女の表情を観察しながらつづけた。


「エンリカ様であっても拒絶する?」


 ぴくぴく、とヴェルデさんの眉が動く。

 双子侍女も驚いた顔をしていた。


「なるほど。水棲竜がエンリカ様を拒絶し、攻撃的になっている」

「そ、そんなことは言っていません!」

「体調不良というのはつまり、攻撃性が増して誰の言うことも聞かない状態になっている、ということでしょうか」


 ヴェルデさんは目を見開き、双子侍女は不安そうに顔を見合わせた。

 私はポケットから金属製の竜笛を取り出し、それをヴェルデさんに差し出した。

 ヴェルデさんは怪訝そうな顔をして私を見た。


「これは何ですか?」

「水属性専用の竜笛です。試作品ではありますが、品質に問題はありません。水棲竜にも使用できるはずです。まずはこれを吹いて水棲竜を観察しながら――」

「必要ありません!」


 ヴェルデさんは私の言葉をさえぎり、竜笛を突き返した。


「なぜ必要ないのですか?」

「エンリカ様がそうおっしゃっておられるからです! 誰の助けも必要ありません!」

「竜が不調なのに、誰にも助けを求めない人なんていません。その水棲竜が故郷から連れてきた大切な家族であるなら、なおさらでしょう」


 あえて厳しい口調で言うと、ヴェルデさんは少し言いよどみ、それから苛立ったように言い返してきた。


「とにかく、あなたを屋敷にお通しすることはできません! エンリカ様のご命令です。どうぞお引き取りください!」


 そう言って、ガシャンと門を閉められてしまった。


「な、何なんですか、あの態度! 無礼にも程がありますよ! 竜を助けたくないんですか!?」


 シーラが去っていく侍女たちに聞こえるように叫ぶけれど、彼女たちが振り返ることはなかった。

 私は苦笑しながら、先ほど手に入れたわずかな情報を整理する。


「人間への攻撃性が増した。それ以外にも変化があるはず……」


 私は門の向こうに見える屋敷を見つめた。


(エンリカ様は、外部の人間が毒を盛ったのだと考え、誰も屋敷に入れたがらないとは聞いていたけれど……ここまでとは)


 何人もの竜医師が挫折した理由がわかった。私の場合は、「キントバージェ家の娘」というのも理由のひとつだと思うけれど。


「どうにかして、屋敷に入らないと」


 第一王子の依頼で来たというのに、私は水棲竜どころか、「美しき人魚」と呼ばれるエンリカ様にすら会えずにいた。


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