騎士団長の裏切り
この世界には竜がいる。
竜は竜騎士の相棒であり、社会的地位のシンボルでもあるため、貴族たちはこぞって竜を選別交配し、強い竜を育ててきた。
そして、竜専門の竜医師も存在し、腕のいい竜医師は好条件で雇われた。
竜と竜騎士と竜医師。それぞれはとても密接な関係にあった。
私、フィルナ・キントバージェは竜医師である。
竜を繁殖させる竜医師の家系、キントバージェ侯爵家の長女。
長いブルネットの髪に青い瞳という、目立った特徴のない令嬢。
そんな私は、この世界で最も尊ばれる最上級竜、つまり「火属性の竜」を育てたという実績があり、最初に育てた火属性の竜はインヴィディア王国の国王に献上された。
そんな実績があったからだろう。
私は両親と王の都合により、騎士団長ウィル・フィーニスと結婚することになった。
王直属のエルンテ騎士団の騎士団長であるウィル様は、元は下級騎士だった。でも、魔物討伐戦などで華々しい戦果を挙げたため、王に気に入られ、騎士団長に任命された。
さらに褒美として封土を与えられて、キントバージェ家の娘との結婚、さらに私が大切に育てた火属性の竜「エアル」も譲渡されることになった。
私の意思を無視した結婚に不満がないわけではなかったけど、ウィル様と対面し、言葉を交わしていく内に、意固地になっていた私の心がさらさらと溶けていくのを感じた。
ウィル様は、オレンジがかった金髪に赤い瞳の美しい青年だった。
すらりと背が高く、人の上に立つ風格を漂わせている若き竜騎士様。
でも、堅苦しいわけじゃなくて、朗らかな性格で、口下手な私の話を根気強く聞いてくれた。
竜医師の家に生まれた私は、他の令嬢たちが学ぶ刺繍や歌よりも、竜の世話や竜の歌に詳しい。それを恥じてはいないけれど、変だと思われるかもしれない。
そう不安がる私に、ウィル様は優しく微笑んで、「すごいね」とたくさん褒めてくれた。
(ウィル様は、私を理解してくれた。こんな素敵な人が、私の婚約者……)
世界に色がつく。なんて、ロマンチックな恋愛小説みたいだけど、それほど私は、生まれて初めての感情に高揚していた。
なぜなら、私を肯定してくれたのは、彼だけだったから。
私は生まれた時から両親に愛されず、ひとつ下の美しい妹にすべてを奪われてきた。
お母様に甘えたくて小さな不満を口にすると、お母様はその目に軽蔑の色を浮かべて、
「フィルナ、お前の醜い顔をこっちに向けないで。気分が悪くなる」
「可愛げのない娘だわ。どうして私たちの家からこんな出来損ないが生まれたのかしら……」
「現実を見なさいな。誰もお前なんか愛さないわよ」
と、毒々しく言い放った。
未発達の心は、ズタズタに引き裂かれた。
それから毎日暴言を吐かれて、私の心はすっかり萎縮していた。
願えばすべてが与えられる妹を視界の端に見ながら、私はいつもボロボロの格好で使用人のように働かされていた。それが当然。
希望の見えない暗鬱とした日々の中で、竜だけが私の心の拠り所だった。
彼らの牙や爪は私の命を簡単に奪えるけど、竜たちは故意に私を傷つけないし、決して私の心を侮辱しなかった。
愛しい竜たち以外に私を受け入れてくれたのは、ウィル様だけだった。ウィル様の太陽のような笑顔とその言葉は、両親の愛すら知らない空っぽの私を満たしてくれた。
(あの家から出て、私はウィル様と幸せになる。私だって幸せになれる)
牢獄のような日々から解放され、本当に愛する人と一緒になれるのだと、私はすっかり浮かれていた。
今日、この瞬間までは……。
「ウィル様? これは、どういう……」
声が震える。冷たい夜風のせいと言えたらどんなによかったか。困惑する私から、ウィル様は視線をそらした。
そのウィル様の後ろには、身体の大きな赤い竜……エアルがいて、さっきから不機嫌そうに鼻を鳴らして、背中に乗った人物を振り落とそうと身体を揺らしている。
エアルの視線の先をたどった私は、思わず言葉を失った。
そこには、見覚えのある可憐な美少女が乗っていた。
月の輝きを閉じこめたような長い金髪に、吸い寄せられるほど大きな青い瞳。
誰からも愛される美しき妖精。彼女に求愛した男たちが陶然とつぶやくのを、私は何度も耳にした。
その妖精は困ったような顔をして、先に降りたウィル様を見つめている。
私は震える声で、その名をつぶやいた。
「……リスティー?」
その妖精は、私の妹のリスティー・キントバージェだった。
ウィル様はリスティーの視線に気づいて、優しく微笑みながら両手を広げた。ずいぶんと慣れた仕草に、私は衝撃を受けた。
リスティーはほっとしたような顔をして、エアルの背中からするりと滑り降りた。
ウィル様は危なげなくリスティーを抱き留めると、腕の中の小さな頭をなでて、愛おしそうに目を細める。
その一連の流れを、私はただ、黙って見ているしかなかった。
(どうして? どうしてリスティーがここに?)
言いたいことはたくさんあった。
ウィル様、怪我はありませんか?
エアルは無事ですか?
そして……妻である私の前で、なぜ別の女性を抱いているのですか?
でも、私の口から出たのは「なぜここにリスティーがいるのですか?」という疑問だけだった。
ウィル様はリスティーと顔を見合わせてから、言いづらそうな顔をして言った。
「今回の魔物討伐戦で、彼女は竜医師として同行していたんだ」
「竜医師として? 今回同行する竜医師は、騎士団員の中から選ばれたはずでは? リスティーは騎士団員ではありません」
思わずとがめるような響きになる。
竜騎士である夫に、竜医師である妻が同行するというのは珍しい話ではない。
結婚当日にウィル様に魔物討伐の命令が出たため、私はウィル様の妻として、同行を願い出た。私たちは初夜の儀式すら行っていないけど、私は正式に彼の妻となった。そう認識していたから。
でもウィル様は「竜医師は騎士団員から選ばれる。きみはここで俺の帰りを待っていてほしい」と言って、私の申し出をやんわりと断った。
だから私は彼の言葉に従い、広いベッドの上でひとり、女神様に祈りを捧げていた。ウィル様も、エアルも、無事でありますようにと。
(それなのに、彼は……)
頭は真っ白なのに、さらなる疑問が口から勝手にあふれていた。
「それに彼女は……アルトリーゼ公爵の婚約者ですよね?」
ウィル様の眉がぴくりと跳ね上がる。
今回の討伐戦はエルンテ騎士団のみが対応し、アルトリーゼ公爵が出陣したという話は聞いていない。婚約者のいない戦地に同行するのは不自然だ。
私が指摘すると、ウィル様はあからさまに嫌そうな顔をして、「そんなことはわかっている!」と声を荒げた。
(ウィル様に初めて怒鳴られた……)
両親の暴言を思い出して、びくりと身体が震える。
「ウィル」とリスティーの甘いささやきが聞こえて、ウィル様の視線はすぐにリスティーに奪われた。お互いに向ける視線の甘さに吐き気がこみ上げる。
ウィル様はこちらを見ないまま言った。
「彼女は自ら今回の作戦に志願したんだ。俺も最初は拒否したんだが、彼女の熱意に心を動かされてね、特別に許可したんだよ」
「そう、ですか」
熱意という曖昧な言葉を使われて、私はぐっと唇を噛んだ。竜医師としてお役に立ちたいという気持ちは、私にだってあったのに。
「しかも、彼女には特別な力があったんだ」
「特別な力?」
ウィル様が私を見た。腕の中にいるリスティーも私に視線を向けて、ふっと目を細める。ぞっと鳥肌が立った。
ウィル様がゆっくりと、口を開いた。
「彼女は『ウタヒメ』だ」
「ウタヒメ……!?」
思いがけない話に、私は目を見張った。
ウタヒメとは、竜の潜在能力を解放できる伝説の存在のこと。
その力が発現すると、最も相性が良い竜一頭の能力を向上させ、さらにその竜が他の竜と共鳴反応を起こし、結果的に複数の竜の能力を底上げすると言われている。
私の反応を見たウィル様は、なぜか自分のことのように誇らしげに胸を張った。
「リスティーはその美しい竜の歌で、エアルの能力を解放してみせた。この作戦が成功したのは、彼女のおかげなんだよ」
リスティーはゆるゆると首を横に振って、ウィル様の頬に手を添えた。
「作戦が成功したのは、ウィルとエアルが強かったからよ。私はいつも通りに歌って、あなたを励まそうとしていただけ……」
リスティーは頬を染めながら、まるで本当の妻のようにウィル様に寄り添った。
慎ましく可憐なリスティーの姿を見て、ウィル様は愛おしそうに目を細めた。
ドクドクドクと私の鼓動が速くなって、呼吸が浅くなっていく。
ウィル様はまったく私を見ようとはしない。宝石と道端の石なら、輝く方に目を奪われて当然だと言わんばかりに。
「フィルナ」
ひどく冷めた声が私を呼んだ。その視線はずっと、リスティーに注がれている。
「きみはすごいよ」と言ってくれた優しい声が、耳の奥にこだましている。それはすべて偽りだと、彼の声が証明していた。
「俺がウタヒメを連れてきた理由だが……きみは理解できるよな?」
「まさか……」と私の脳内に最悪の想像が駆けめぐる。
ウタヒメは、最初に能力を解放した竜の所有者である竜騎士と、婚姻を結ぶ権利がある。
そして、その結婚は「推奨」されている。
ウィル様はようやく顔を上げて、私に視線を向けた。否、にらんでいた。
「俺はリスティーと結婚する。これは俺の意思であり、王にもそうお伝えしたところだ。フィルナ、きみとの結婚は破棄される」
「あ」と何の意味もない声が漏れた。思考が停止して、意識がかすんでいく。
私もきっと、幸せになれる。そんな未来を願うことすら許されなかったのだろうか。
ウィル様への恋が、憧れが、未来が、がらがらと音を立てて崩れていく。
ウィル様の腕の中で、リスティーが勝ち誇るように微笑んでいた。