6.前世の記憶
どんよりとした曇り空が見える。吹き付ける風は冷たく、濡れた指先の体温を容赦なく奪っていく。正座で俯く目線の先にはさっきまで使っていた雑巾と、ぶちまけられたバケツの水が見えた。
あぁ、これは前世の夢だわ。
そうカリンが気づくと同時に、目の前の女性の罵声が飛んできた。
「まったく本当に使えない嫁だね!こんだけ時間かけて一つも綺麗になってないなんて。ほら、もう一回力入れて磨きな!」
かつての姑の声だ。夢だというのに随分とはっきり聞こえる。威圧感も、それに萎縮する自分の心も当時のままだ。
前世のカリンは日本という国の田舎の小さな村に産まれた。閉ざされた世界だったと思う。嫁いだ先はいわゆる地主の家庭で、古くから続く家業と使い道はないが広大な土地を所有しているのが自慢だった。
亭主関白な舅と厳しいだけの姑。遅くに出来た一人息子の夫は、気の小さい、我慢の出来ない人だった。年の離れた夫とは見合い結婚だ。父を早くに亡くし、母が舅の会社に勤めていた私には、断る術などない話だった。
嫁姑問題などと言うが、前世のカリンは口答えなど許されなかった。今世に至るまで縛り付ける男尊女卑の考えを植え付けたのは、勿論義両親である。立場の弱い嫁に対して殊更声高に、繰り返し繰り返し刷り込まれた。
姑の陰湿ないびりは結婚当初から始まり、嫌味だけならまだマシなほうで、時には平手が飛んでくる環境だった。一度だけ「でも」と言った事があるが、それだけで頬が腫れるほど殴られ二日食事を抜かれた。それでも夫が助けてくれる事はない。彼自身もまた、反抗など出来ない環境だったのだ。
姑の暴力は特に子供を授かるまでは酷かった。ようやく授かった時には、心底ほっとした。この時ばかりは舅も姑も上機嫌で「絶対に男を産め」と言われて困ったことを覚えている。
それも束の間、舅が急逝した。気の弱い夫が継いだ会社はあっという間に傾き、焦りと不安からか酒浸りになった。姑との口争いをする事も増え、そのはけ口は当然のようにカリンだった。
つわりに苦しみながら一切の家事をこなす日々。日々の無理が重なり、ついに流産してしまう。発狂したかのような姑からの暴力は激しくなった。
カリンは全てを諦めていた。反抗する気力など、とうの昔になくなっていたからだ。いつまでも続く奴隷のような生活と、日常化する暴力で限界まで疲れ切っていた。
そして縁側の掃除に難癖をつけられたこの日、前世での短い人生は終わった。
「ほら!何やってんだい、さっさとしな!」
雨の音がする。今から掃除をしてもどうせ汚れるだろうが逆らうことは出来ない。疲れで朦朧としながらカリンはぼんやりと立ち上がった。そのためうっかり姑の目の前に立ってしまった。カリンより身長の低い姑は、目の前に立たれるのを嫌う。この日は特に虫の居所が悪かったようだ。
バチン!
左頬に殴られた衝撃が走った。耐えきれずふらついたが場所が悪かった。そのまま縁側を踏み外し体が傾く。姑の悲鳴が聞こえた。それを聞いて誰かが走ってくる音も聞こえる。
どうする術もなく落ちていった先には大きな岩が置かれていた。先程とは比べ物にならない衝撃が頭に走るが、痛いかどうかも分からない。
霞む視界に駆け寄ってくる夫がうつる。抱き上げられた気もするが、もうよく分からない。死を漠然と感じるが、同時に覚えたのは恐怖より安堵だった。
けれど意識を失う直前、久しぶりに夫に名前を呼ばれた。叫ぶように数度呼ばれた後、絞り出すように紡がれたのは「すまなかった」「逝かないでくれ」という言葉。頬に落ちるのは雨か涙か。
名前を呼ばれたのは何時ぶりだろう。結婚した当初は、はにかみながらも何度か呼んでくれた。いつの間にか名ばかりの夫婦になっていた。寄り添い合いたいと願った日もあったはずなのに、諦める方が楽になっていた。
今さら謝罪などずるい。そんな自己満足な謝罪など必要ない。けれど結局カリンだって、夫の心の内は何一つ知らないままだ。逝かないでくれとはどうしてだろう。少しは心を寄せてくれていたのだろうか。それならせめてもう少し早く、少しだけでも労わってくれたなら、分かり合う努力を、寄り添う願いを諦めずにいられたのに。
カリンは必死で目を開けようとする。彼は今どんな顔をしているだろう。少しでいい。最期に少しでも彼の事を知りたい。
けれど願いが叶うことはなかった。
再び訪れた暗転。いくら叫んでも戻ることはない。どこが現実か分からなくなったカリンは混乱する。不安で取り乱しそうになった時、誰かに呼ばれたような気がした。声が聞こえた闇の先から、一筋の光が見えた。




