38.愛と青と
次回完結です!最終話は明日投稿予定です。よろしくお願いします。
『エミリオ様、お屋敷の皆様はいつもエミリオ様を大切に思って下さっていると思います。』
カリンの言葉にエミリオはハッとした。これまで考えた事などなかった。祖父と母の手前、彼らから表立って何かをされた事はない。常に空気のようにそこに彼らはいた。
けれど思い返せば、優しさを感じる事は幾つもあった。
祖父に鞭打たれ高熱を出した時、傍には必ず誰かがいて手を握り、額のタオルを替えてくれた。
飲んで慣れろと幼い頃から食卓に置かれたワインが、ある日から葡萄のジュースに変わっていて不思議に思った事があった。
夜、母の寝室に来るよう言われたことは何度もあったが、そんな日はいつも母が酔いつぶれて寝てしまったと伝えられた。
苦痛な夜会の後は、爽やかな香りの風呂が炊かれていた。
息苦しい日々の中で、確かにそれはエミリオの心を軽くしていた。けれどそれに有り難さを感じる余裕はなかった。祖父が亡くなってからは屋敷にはほとんど寝るだけに帰っていたし、幼い頃は特に生きるだけで精一杯だった。周りは敵だらけだと思い込んでいた。
「勝手にお話を伺ったことはお詫び致します。けれど執事の方も、御者の方も、今日同行して下さったメイドの方も、皆がエミリオ様を思い心配しておられました。心配を自己満足という方もいるでしょう。けれど相手を思う気持ちが間違いなくそこにはあります。それは愛情と同じなのではないでしょうか。」
カリンの言葉は真っ直ぐにエミリオに届いていた。
不幸な生い立ちだと思っていた。吐き気のする毎日だった。けれど支えてくれている者が確かにいたのだ。それに気づかぬほど余裕がなかった自分は、可哀想な自分に酔っていたのかもしれない。
「私はエミリオ様からたくさんの優しさを頂きました。確かに必死に学ばれた事なのでしょう。けれど相手を気遣うお心はエミリオ様だけのものです。愛を知らぬ方には出来ないことだと思います。お屋敷の方々とお会いして、その心配りがエミリオ様と似ていると感じました。大丈夫です。貴方は愛をご存じです。どうかハリボテなどと仰らないでください。ご自身を卑下なさらないで下さい。」
必死に言葉を重ねるカリンの顔が滲んだ。どうしたのだろうかと思ったエミリオは、自分が泣いている事に気づいた。
そんなエミリオの涙を、カリンは優しく拭う。
「エミリオ様を縛る方は居られません。私が言うべきことではありませんが…これまでよく耐えてこられたと思います。本当に凄い事です。」
エミリオは耐えられずに膝から崩れ落ちた。カリンが慌ててしゃがみ込んだが、隠す余裕などない。次から次へと涙が溢れて止まらない。涙を流す事など、一体何時ぶりだろうか。父が亡くなった時以来だと気づいた時、エミリオの耳に父の声が蘇った。
『凄いなエミリオ!よく頑張ったな!』
俺はその言葉が欲しかったのかもしれない。
誰かに褒めて貰いたかった。努力を認めて欲しかった。
震えるエミリオの肩に、暖かな物が触れる。緩やかに頭を撫でられ、カリンに抱き締められたのだと分かった。
「…俺は貴方に格好の悪い所ばかり見せていますね。」
「?エミリオ様はいつもとても麗しいですが?」
この状況で麗しいと言われるとは思わず、一瞬ぽかんとしてしまった。幸い浮かんでいた涙が引っ込み、少し落ち着く。すると全身を包み込んだのはカリンの温かさだった。
酷く傷つけたはずだった。一度は別れを選んだはずだった。
けれど彼女は全てを知っても寄り添ってくれた。言葉を重ねてくれた。それが彼女にとってどれ程大変な事か、エミリオにはよく分かっていた。
そんな彼女の手を、自分はもう離すことなど出来そうにない。
「俺は…戻っても良いだろうか?」
「勿論です!ディーノ様もエドアルド様も、ガブリエラ様もお屋敷の皆様も、エミリオ様のお帰りをお待ちしています。」
カリンの隣りに、という意味で言った言葉だったが、彼女の口から出てきたのはやはり自分以外の人間な事だ。どこまでも控え目で周りを大切にする彼女を、自分が一番幸せにしたいと強く思う。今度こそ彼女のように周りにいてくれる人間に目を向けたいとも。
顔を上げると先程まで自分を撫でていた手を恥ずかしげにさ迷わせる彼女がいて、とんでもなく可愛らしい。目が合うとカリンは柔らかく笑った。
途端、世界に色彩が戻ったかのように感じた。驚くエミリオに、カリンは少し顔を傾け「帰りましょう?」と告げる。
もう色々限界だった。エミリオは衝動的にカリンの顔を包み込み唇を重ねた。角度を変え何度も味わう。必死に応える彼女がいじらしく歯止めがきかない。何とか理性を総動員して唇を離し、彼女を抱き締めた。息を切らしながら抱き締め返してくれるカリンに、愛しさが込み上げる。
「…カリン嬢、愛しています。」
この言葉をエミリオは初めて使いたいと思った。未だに自分には使う資格はないと思う。自信もない。けれど、この言葉以外に今の心を表す言葉を、自分は知らない。
「…私も、お慕いしております…。」
カリンの言葉に、再び涙が滲む。堪えようと視線を上げると、目の前には美しい青が広がっていた。何処までも広がる水平線が鮮やかな空の青と溶け合う。いつか見た青より鮮やかなこの景色を、自分は生涯忘れないだろう。
「…エミリオ、様。」
しばらくの間抱き締め合っていたが、カリンに名を呼ばれ緩やかに拘束を解く。彼女は強ばった顔をしていた。
「実は、お伝えしなければならない事があるのです。エミリオ様の過去のお話を私だけが聞くのは、公平ではない気がして…。」
そう言葉を区切ったカリンは、いつになく緊張した表情をしていた。カリンの過去に何かあったのだろうか。今度は自分が彼女を支える番だ。何が合っても受け止めるつもりでいるが、妙な胸騒ぎを覚える。エミリオは姿勢を正し、カリンの言葉を待った。
やがて意を決した彼女が目を合わせ口を開いた。
「私は、実は、私には───。」