37.柔らか
一瞬柔らかい感触がした。刹那、甘やかな感情が広がった。酔いにも似たそれにうっとりと目を開くと、息遣いが分かる位置に目を見開くエミリオがいた。
途端、顔も手も発火したかのような熱を感じた。ボンっ!と音でもしそうなそれに、思わず上げそうになった悲鳴を何とか飲み込んだ。
今になってカリンは自分の行動に頭を抱えたくなった。伝えたいと必死で、無我夢中で、勢いに任せたのだが───いくら何でも淑女のする事ではない。カリン本人が一番自身の行動に驚いていた。とにかく必死だったのだ。考えるより先に体が動いた。
でも、これじゃ痴女みたいじゃないの!
慌てるカリンは次の瞬間、更なる混乱に陥った。
「…っ!エミリオ…様…!?」
それまで黙っていたエミリオに抱き締められたからだ。
回された腕は優しくも力強い。薄い白シャツ越しに鍛えられた胸板を感じる。身長差のあるカリンはエミリオの腕にすっぽりと収まっている。これまでにはない少し無骨な抱擁に、カリンは男性としてのエミリオを強く意識してしまった。
触れ合っている全てが熱く、心臓は壊れそうなほど早鐘を打っている。行き場を失くした自分の手をさ迷わせながら、目の前にある鎖骨に息をかけていいものかと、軽い呼吸困難に陥っていた。
「…どうして…。」
けれど自分の頭上で絞り出すように発された言葉に、カリンはハッとした。
「…エミリオ様…?」
「貴方には幸せになって欲しいのに!俺など相応しくない!」
「そんな───。」
「俺は穢れた罪人の血を引いているのです。この国の最も有名な裁判を知っているでしょう。あれは俺の曾祖父なんだ!」
「っ!」
カリンは思わず息を飲んだ。
「他の人にとっては美談かもしれないが、当事者の俺たちは散々な思いをしたんだ。祖父も母もあの裁判の影響で人をまともに愛せない人間になった。狂気を愛だと信じる彼らに、俺は急死した父親の代わりをずっとさせられていた。上辺だけ取り繕いながら憎悪していた俺には、家族の愛も人の愛も分からない。俺は女が恐い。だから顔色を伺って気持ちの良い言葉を並べて───その結果が“ピアドリアの生きる化石”なんだ。」
叫ぶように綴られるのはエミリオの言葉に、いつもの余裕も丁寧さもない。
「こんな顔に産まれたせいで毎日が苦痛だった。本当の俺はただのハリボテだ。家族の呪縛からも抜け出せない。俺は俺自身が大嫌いだ。こんな俺など、こんな曰く付きの俺など貴方に相応しくない。…貴方も、幻滅しただろう?」
相応しくないと言いながら、エミリオはカリンを離さない。震えるエミリオはまるで縋るように腕の力を強めた。
まるで傷だらけの歪な幼子だと思った。棘だらけの彼はどれ程、自身の棘で傷ついてきたのだろうか。
「エミリオ様。」
カリンは抱きしめられたまま、エミリオの名を呼んだ。そしてさ迷わせていた手を伸ばし抱き締め返す。出来ることなら、彼の傷を、彼の棘を、全て優しく包み込みたい。
エミリオは一瞬ビクリとしたが、黙ったまま受け入れた。
「エミリオ様、お話くださってありがとうございます。」
「…。」
「でも、幻滅など致しませんわ。…実は、すでに教えて頂いていました。」
「は?」
エミリオはカリンの言葉に驚いてその身を離した。カリンは少しだけ名残惜しさを感じながら、真っ直ぐにエミリオを見た。
「エミリオ様が以前仰っていました。“昔見た水平線と空とか交わる景色の青色は美しかった。”と。その事を思い出し、思い当たる場所をお屋敷の方に伺いました。その時に教えて頂いたんです。この場所の事、この場所での事など。」
カリンを尋ねてきた執事はこれまでの事を色々と教えてくれた。驚くばかりの内容ではあったが、納得する事も多かった。それよりも何故自分に話してくれたのか、聞いて良かったのかと心配になった。
『カリン様と婚約されてから、坊っちゃまは柔らかになりました。ご自身の昔話をされた事も初めてです。私共は坊っちゃまをお救いすることが出来ませんでした。ですが、幸せになって頂きたいと心から思っています。坊っちゃまをよろしくお願い致します。』
そう言って頭を下げた彼の瞳に薄らと滲む物があった。その時、カリンは全てのピースが埋まるのを感じたのだった。エミリオに伝えなければと強く思ったのだ。
まさかエミリオ本人の口から聞かせてもらえるとは思わなかった。その事実に、少しは自分に心を寄せてくれているのだと勇気をもらう。
カリンはゆっくりと口を開いた。
「エミリオ様は大変な思いをされて来たと思います。どれ程の事か、私などが想像する事も、軽々しくお慰め出来ないとも承知しております。どれ程お辛かった事でしょう。でも、エミリオ様がハリボテと言うのは絶対に違います。」
敢えて言い切ったカリンは、エミリオから視線を逸らさない。今ならば届くかもしれない。カリンは言葉を選びながら続けた。
「私はいつも完璧なエミリオ様が眩しく感じておりました。私が婚約者など不相応だし、横に並ぶ恥ずかしい思いをされないか心配でした。」
「そんな事は。」
「当初はすぐ婚約破棄になるだろうと思っておりました。それまで、完璧なエミリオ様のエスコートを、毎回観劇に行くような心地で過ごしていました。けれどある時ふと、それでは駄目だと思ったんです。」
「駄目?」
不思議そうに見つめるエミリオに、カリンは1つ大きく頷いた。
「えぇ。気づいたんです。私はエミリオ様の事を何も知らないと。思えば今までも、誰かと分かり合う努力をしてこなかったと。ご存知の通り、私は上手く言葉を紡ぐことも、感情を表すことも出来ませんでしたから…。それに、何よりもエミリオ様の事を知りたいと思いました。」
一度言葉を区切り呼吸を整える。カリンは緊張で震える手を組み、目を逸らさずに続けた。
「過ごす時間が増える中で、直接お答え頂いた事もあります。少しずつですが気づくことがありました。華やかなエミリオ様も勿論素敵ですが、本当はもっと違う物がお好きなのではと思う時がありました。完璧にエスコート下さるエミリオ様ですが、何処か控え目でお優しいエミリオ様をも感じるようになったのです。むしろそちらの方がエミリオ様らしく思う事もありました。…その理由が、お話を伺ってほんの少し分かった気が致します。」
カリンはそっとエミリオ手を掴んだ。きつく握りしめた拳を解くように手を重ねる。
「エミリオ様は確かに複雑な環境で過ごされたと思います。けれど、本当に一つの温かさもなかったのでしょうか?」
分からないという表情のエミリオの手を、殊更優しく握った。
「エミリオ様、お屋敷の皆様はいつもエミリオ様を大切に思って下さっていると思います。」




