34.エミリオの過去①
遠くから賑やかな声と海辺特有の鳥の鳴き声が聞こえる。子供の頃に見たあの青を見たいと衝動的にここに来てしまった。昔暮らしていた家はもう無かったが、海にほど近いこの空き地はそのままだ。ここからは水平線も、たくさんの階段と白を基調とした美しい街並みも良く見える。
けれど目の前に広がる青は、記憶の中にある物よりずっと色褪せている。きっと荒んだ自分の心のせいだろう。あの頃の純粋な自分を思い出し、乾いた笑いが込み上げてきた。
ここに来てもう一週間。馬鹿な事をしていると分かっている。屋敷の皆が心配しているだろう事も、そろそろ仕事に戻らねばならぬ事も。
けれど一向に足が動いてくれない。まるで未練がましく彼女を想う俺の心のように先に進めない。
母の葬儀が終わり、手枷が外されたような開放感と同時に、自分の支えまで無くしてしまったような心地になった。訳も分からぬ不安に苛まれながら、縋るように常に考えていたのは彼女の事だった。
同時に彼女の幸せを願いながら、結局一番傷つけた俺は、やはり人を不幸にばかりにするのだと思い知らされている。もう二度と彼女のあの笑顔を見ることは出来ないだろう。
ため息をついた俺の耳元で、また祖父の声が聞こえた。
『我々はピアドリアの罪人の血を引いているのだ。生涯かけて償わねばならんのだぞ。』
物心つく前から常に語られていた話。今のピアドリアの形が出来始めた最初の、かの有名な裁判。浮気夫を相手にした、多くの女性を奮起させたあの出来事。
その浮気夫とされたのが俺の曾祖夫だ。
今でこそ美談として落ち着いているが、当時の風当たりたるや、凄まじいものだったらしい。
『お前のせいでどれだけの人間が迷惑を被ったと思うのか!』
『ピアドリアの罪人め!』
『償え!償え!!』
あまりの酷さに家族は姓と暮らす場所を変えた。親戚からは縁を切られ、家族は身を潜めるように暮らした。
そんな中、希望だったのが頭脳明晰な祖父の存在だった。幸か不幸か、ちょうど王城は数多の離婚騒動で改革が余儀なくされており、混乱に乗じて祖父は王城内で職を得た。変えた姓のお陰で気づかれることはなく、順調に出世し子爵を賜るまでになった。
やがて美しい娘を娶り家庭を持った。全ては順風満帆と思われたが、歪みが少しずつ露になる。幼少期よりピアドリアの罪人と言われ続けた祖父は、その劣等感の反動から妻を異常なまでに愛した。年を追うごとそれは苛烈になり、祖父は同じだけの愛情を妻に求めたという。
『これほど愛しているのに、何故応えてくれないんだ!私を愛していないのか!?』
一切の自由のない束縛された生活に、妻は精神を病み、一人娘を産み落とし程なくしてこの世を去った。祖父の行き場を失くした異常な愛は、全て一人娘に注がれた。度を超えた甘やかし、愛情という名の狂気を止められる人間はいなかった。
歪な成長をした娘は、やがて一人の青年と恋に落ちる。当然祖父は反対したが、困難は二人を燃え上がらせるだけで、娘は駆け落ち同然で青年とこの地で一緒になった。唯一の救いは、青年が義理堅くまともな人間であった事だ。我儘な娘の全てを受け止め、また密かに祖父と連絡を取った。その心遣いは激怒していた祖父をなだめ、ついにはその心を開くまでになった。
つかの間訪れた平和で幸せな時間。娘が出産した男の子───それが俺だ。父と母、時折祖父との生活は本当に幸福だった。
けれど、幸せは長くは続かなかった。俺が六歳になる直前、父が突然事故死したのだ。俺自身は死の意味もよく理解出来ぬ歳だったが、母の悲しみは相当なものだった。一切の事が手につかず、心配した祖父に母子共に引き取られた。
それから全てが狂い始めた。いや、それまで父によって絶妙に保っていた均衡が崩れたのだ。
初めて母が俺を見て父の名前を呼んだ時も、それで母の苦しみが少しでも和らぐならと思っていた。
母を溺愛する祖父から、父の身代わりとなるべく年齢に合わない苛烈な教育が始まっても、それがどれ程苦痛でも母が喜んでくれることが嬉しかった。
けれど俺が頑張れば頑張るほど、母はどんどん狂っていった。常に騒ぎたて、愛しているという言葉以外は受け付けない。心が少女のままの大人と言えば聞こえが良いが、実際には壊れかけの硝子人形のような存在だった。機嫌を取る事に集中する毎日に歯車はどんどんと狂っていった。
それでもただ一度、母に反抗した事がある。思春期の子供にはありがちな、小さな口答えだ。たまには自分の意見を言ってもいいだろう、そんな思いもあった。
その結果、母は笑いながら毒杯をあおった。
『エミリオ。貴方まで私から離れていくのね。』
真っ赤な紅を乗せた唇がニタリと歪み、怪しげな液体をあおるのを呆然と眺めていた。次の瞬間、唇の端から血が流れ母の傾き倒れていく身体を、慌てて受け止めようとしたが間に合わなかった。グラスの割れた音と母の倒れた音を聞き駆けつけた祖父の対処で大事には至らなかったが、激高した祖父は私を殴り飛ばし怒鳴りつけた。
『お前にもあの血が流れているのだ。ピアドリアの罪人め!生涯かけて償え!』
あの時の祖父の血走った目と、母の真っ赤な唇、傾く身体は強烈な記憶として脳裏にこびり付いた。俺はあれ以来、一切の反抗を止めた。肩に垂れかかる母が憎悪の対象になっても、何処か冷めていく自分は諦めていた。
俺は家族の愛も、女性の愛も分からない。もっと言えば女性は恐怖の対象なのだ。




