31.別れ
カリンはエミリオの言葉に息が止まるほどの衝撃を受けた。目に映る景色が急激に色彩を失っていく。
そんな簡単に、隣を譲ると、この人は事も無げに言い放つのか。
カーテンの向こう、焦ったのは同僚の男だ。彼とてこんな展開になるとは思っていなかった。エミリオがベタ惚れなのは分かり切った事で、婚約者の前で知らず惚気けてしまい、慌てる顔でも見られれば冷やかすネタになる。その程度に考えていたのだ。
「は?お前、ベタ惚れなんだろ?」
「パルッツィ嬢とはご縁を頂きましたが、それ以上の事はありません。」
「いやいや、もう婚約六ヶ月になるんだろ。」
「言い出すタイミングがなかっただけのことです。」
カリンは耳を塞ぎたくなった。淡々と紡がれるエミリオの言葉が、刃のように痛い。溢れる哀しみが胸を締め付ける。
もうこれ以上は聞きたくなくてカーテンから出ようとした時、エミリオから決定的な言葉が発せられた。
「初めから婚約破棄するつもりでおりましたから。」
その瞬間、全ての力と感情が抜け落ちた。
手から籠が滑り床に落ちた。その音でエミリオが振り返る。驚く彼を見ても、何も言えない。
もうすぐ六ヶ月。短くはない期間、彼と温かな関係を築いていたと思ったのは自分だけだったのだと思い知った。これまで彼を知ろうとしてきたが、何と意味のない事をしていたのか。さぞ滑稽で、迷惑だっただろう───。
「さっきそこで会ってな。その、なんだ、誤解があるようだからと思って───。」
男の慌てた声が聞こえた次の瞬間、ガタンと大きな音がしてエミリオが男の胸ぐらを掴んだのが見えた。「悪かったよ!そんなつもりじゃ!」という声と、振り上げられたエミリオの拳を見てはっとした。
「やめてください!!」
カリンの叫び声にエミリオが動きを止める。カリンは絞り出すように言葉を紡いだ。
「私は、私の意思でここに来ました。その方は悪くありません。エミリオ様が職場でどう過ごされているか気になって…。どうしても貴方に聞けなかったのです。」
「…何故…?」
拳を下ろしたエミリオは視線を合わせず問いかけてきた。
「…先日、貴方の元婚約者の方にお会いしました。過去の経緯を聞いて、ご忠告頂いたんです。突然伺い、試すような事をして申し訳ありませんでした。」
カリンは一度言葉を切った。呼吸を整え、声が震えないように早口で言った。
「でも、来て良かったです。これまで無理にお付き合いさせていたと分かりました。他に想っておられる方もいるようですし。」
同僚の男が「いや、それは誤解で…。」と言いながらエミリオに視線を送っているが、彼は何も言わない。カリンは出来る限り美しい所作で頭を下げる。
「これまでご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。ありがとうございました。」
声は震えなかったと思う。喉の奥の熱いものを、何度も何度もやり過ごして頭を下げ続けた。
「…カリン嬢───。」
「エミリオ!ここにいたのか。」
暫くの間、誰も動かなかった。ようやくエミリオが口を開いたところで、慌ただしく部屋の扉が開いた。
「探したぞ。家から連絡があった。母上が危篤らしい。後はやっておくから早く帰れ!」
カリンは驚いて顔を上げた。視線を落とした彼の表情は見えない。ただ小さく吐き出すような笑いが聞こえた。
少しの間の後「分かりました。」と言い、呼びに来た男の方へ歩き出した。そのまま扉を出ていく直前、エミリオは一度だけ振り返った。
「カリン嬢、ありがとうございました。」
そう言ったエミリオは、出会った頃の無機質な微笑みを浮かべていた。けれど視線が外れる直前、僅かにその表情が歪んだ。一瞬、今にも泣き出しそうな、物言いたげな表情をした気がしたが、次の瞬間には背を向けて扉を出ていった。同僚の男も「ちょっと待てよ!」と言いながら出ていった。
残ったのはカリン一人だ。何も考えられない。体はまるで自分の物ではないかのように、指一本動かすことが出来ない。放心状態で閉じられた扉をただただ見ていた。
やがて遠くで刻限を報せる鐘が鳴った。カリンはほとんど無意識に力の入らない足を動かして前に進む。何とか待ち合わせの場所に戻り、心配そうな二人と合流した。何も聞かずにすぐに王城を辞した気遣いが有難かった。そのまま無言で馬車に乗り込む。二人の視線を感じていたが、気遣う余裕はなかった。
そうして、ようやく着いた自室の扉を閉め、カリンは扉に寄りかかるようにへたりこんだ。途端、次から次と、彼との思い出が蘇ってきた。
初めて会った時の驚きに始まり、一緒に行った様々な場所、舞踏会、公爵家での出来事。
二人で過ごした穏やかな時間は嘘だったのに、こんなにも色鮮やかに思い出される。思えば、彼の隣はいつも温かかった。
ポタリ
一つ零れ落ちた涙は、次々に溢れ洋服に染みを作っていく。
「…ふっ…。」
嗚咽を堪えられず、カリンは両手で顔を覆った。それでも指の間から次々雫が落ちて濡らしていく。
最初から婚約を破棄するつもりだったなんて、詐欺のような物だ。
騙されていたのか。
全部嘘だったのか。
それでも怒りの感情は一切湧いてこない。ただただエミリオとの思い出の数だけ涙が溢れ、流した涙の分空いた心の穴に哀しみが広がっていく。
そうしてふと、別れ際のエミリオの顔を思い出し、言いかけた言葉は何だったのだろうと考え、もうその答えを聞けない事に気づいた。
終わった───。
カリンは声が枯れるまで泣いた。涙と一緒に溶けて消えてしまえばいいと思ったが、涙は溢れるばかりで途切れることはなかった。これほど胸が痛いのに、どうして心臓は止まらないのだろう。いっそ壊れてしまえばいいのに。
泣き疲れて眠った次の日、エミリオの母の訃報と、葬儀は親族のみで行うので参列はしなくてよいという内容の手紙が父宛に届いたと聞いた。
カリン宛に手紙が届くことはなかった。




