30.衝撃
本日2話投稿します。
時間は少し前、カリンは緊張して歩を進めていた。踏みしめる最高級の絨毯の感触も、両脇に置かれた数々の調度品も気にならない。いつもならそれらに圧倒され萎縮してしまうのだが、良いのか悪いのか今日のカリンには気にかける余裕がないのだ。
「じゃあ、カリンちゃん。次の刻限の鐘でここに集合ね。…くれぐれも、気をつけてね?」
「はい。大丈夫です。ありがとうございます。」
心配そうに見るアルバと兄に頷き、彼らとは反対方向の廊下へ曲がった。出来るだけその場に馴染むよう振る舞いたいが、上手くできる気はしない。
カリンは舞踏会以外では初めて王城に来ている。用事がなければ極力避けたいこの場所に、帰国の報告があるという兄夫婦に頼み込んでついてきたのは、ここがエミリオの勤め先だからだ。
グラツィアと会ったあの日、様子のおかしいカリンから事情を聞いたアルバは、最後まで本人に直接聞いた方がよいと諭した。カリンとてグラツィアの話を鵜呑みになどしていないし、アルバが正論を言っているとは分かっている。
けれどこれまで抱えてきた違和感と不安がカリンの中で一気に膨れ上がってしまったのだ。今は彼に直接問いかけることも、彼の言葉を素直に聞くことも出来る気がしない。
結果、一度だけ王城で働くエミリオを見に行きたいとの懇願に折れたのはアルバたちの方だった。
足早に進むカリンの手には小さな籠が握られている。万一咎められそうな時は差し入れをサプライズで持って来たという体で乗り切ろうと準備したものだった。
廊下を進むとやがて雰囲気が変わり、多くの人が働く場所が見えてきた。ここは温暖な気候のため風通しの良さが重要視されており、廊下側に窓がある開放的な作りだ。平時の今はほとんどの窓が開いている。機密会議を行う部屋は別途用意されているそうだ。
廊下は多くの人が行き交っている。チラホラと女性の姿も見えることにホッとしたのも束の間、カリンは体を強ばらせることになった。正面から歩いてきた男性二人組から“エミリオ”という単語が聞こえてきたからだ。
「最近のエミリオは調子に乗ってるよな?」
「全くだ。“レディ”に取り入ってから調子に乗りやがって。」
「さっきも仲良く二人で話してたぜ。あの噂も本当かもな。」
「“レディ”が本命って奴か?」
「あの顔だ。似合いだろ。」
嘲りの混ざる笑い声をたてながら通り過ぎて行く二人の横で、カリンは思わず足を止めていた。カリンは“レディ”とは誰を指しているか知らない。当然文字通りに受け取り、頭を殴られたような衝撃を受けていた。
レディとは誰なの?
仲良く話していた?
彼女が本命ですって?
やっぱりグラツィア様の言っていたことは本当だったの?
そんな疑問ばかりが頭の中をぐるぐると回りだし、一歩も動けなくなってしまった。それは同時に人々が行き交う廊下では悪目立ちしてしまっていた。
「そこのアンタ。どうかしたのか?」
カリンが男から声を掛けられたのは当然の結果だった。ビクリと肩を揺らしたカリンは、ようやく現実に戻って来たが、混乱して二の句が告げない。そんなカリンを訝しげに見ていた男は、はっと思い出したような顔をした。
「アンタ、孤高…カリン・パルッツィ嬢か?」
カリンのほうは面識がなかったが、相手は違ったらしい。よもや名前を言い当てられるとは思わなかった。とりあえず頷いたカリンに男は追い討ちをかけた。
「エミリオに用事か?」
「いえ!あ、いえ…。」
用事がない訳ではないが、このまま真っ直ぐエミリオのもとに案内されては今日来た意味がなくなってしまう。ここで捕まる訳にはいかないが、上手い言い訳も思いつかない。いっそ走って逃げようかとも思うが、それ以上に聞きたい事がある。
「あの、“レディ”とはどなたでしょうか…?」
脈絡もなく発してしまい焦ったが、目の前の男は何やら合点のいった顔をしてニヤニヤと笑いだした。
「ははぁ?お嬢さん、ちょっときなよ。」
男は「聞いてた感じと違うな…。」と独り言を言いながら歩き出したが、カリンの耳には届いていない。言われるまま男の後をついていくと、会議室と思われる場所についた。円形に置かれたテーブルと椅子の間を縫って歩き「ちょっとそこに隠れてな。」と、男はいくつか並ぶ棚とカーテンの影にカリンを押し込めて部屋を出ていった。
ひとまずエミリオに直接引き渡されなかった事にほっとしたが、少し落ち着いてみれば、今どういう状況なのか、そういえば時間は大丈夫かとソワソワし始めた。その時、部屋が開いた音と先程の男の声が聞こえてきた。
「たまには休憩しないとな。」
「ご用件はなんでしょう?」
「そう急かすなよ。」
男の声に続いて聞こえたエミリオの声が聞こえ驚く。あの男が何をしようとしているのか分からないが、カリンは息を詰めて様子を窺うことにした。
「それで?婚約者様とはどうなってるんだ?」
「…またその話ですか。」
「そうは言ってもお前、もうそろそろ婚約六ヶ月になるだろう?結婚の祝いでも考えようかと思ってなぁ。」
「お気遣いなく。」
「遠慮するなよ。それともまた婚約破棄するのか?」
「……。」
二人のやり取りにカリンの脈拍が上がる。うっかりカーテンに触れぬよう、震える手で籠をぎゅっと抱え込んだ。
「何だよ黙りか?それとも図星か?あぁ、さては“レディ”が愛人って噂のほうが本当か?」
「不快な呼び名です。訂正してください。」
「そう怒るなよ。悪かったって。」
「侮辱はやめて下さい。」
「冗談だよ。あまり仲が良いから、ついな。それに言ってるのは俺だけじゃないさ。付き合い方を考えろよ。」
“レディ”という言葉に思わずビクリとした。男の言葉にエミリオが明確な不快感を顕にした。愛人、という呼び方が気に入らなかったのか。それはつまり───。
「一般的な付き合い方だと思いますが。今後も良い関係を続けたいと思っていますし、関係を改めるつもりもありません。」
あぁ、やはり───。
カリンは全身の血が引いていく感覚を覚える。グラツィアの話は本当だったのだ。私のいない所で、別の愛する人を見つけていたのだ。
寒くて寒くて、先程とは違う震えを何とか推し殺そうとするが上手くいかない。その間に男とエミリオの会話は続いていく。二人の声は聞こえているのに、まるで雑音のように意味が取れない。
聞きたいのに聞きたくない。浅く息をするカリンにエミリオの言葉が容赦なく突き刺さった。
「パルッツィ嬢を幸せに出来る方がいるのでしたら、喜んで隣をお譲りしますよ。」