29.嘘
エミリオは珍しく疲れた様子で椅子に座るとため息をついた。
その日は朝から各部が集まっての会議があった。それぞれ進捗を確認すると共に、予算の上乗せを進言出来る数少ない機会で、どこの部署も気合いが入っていた。
熱のこもったプレゼンテーションの中でも、エミリオの用意した資料は裏付けも具体的な数字も、誰もが唸るほどだった。けれどいざ予算の話になった時、彼は自身の案件へ提示された予算の減額を願った。「私のよりもそちらの案件が急ぎかと思われますので。」と言う彼の判断は公正な視点によるもので、本来ならば賞賛されるべきものだった。
だが、完璧過ぎる対応は嫉妬を呼んだ。予算は進言通りになったものの、会議終了後に向けられた視線は厳しかった。露骨に「調子に乗りやがって。」という声も聞こえてきてげんなりしてしまったのだ。
「流石ですね。素晴らしい資料で勉強になりました。…ああいう輩は気にしないでください。」
そう声を掛けてきたのはディーノだ。声を潜めた後半は彼自身の経験によるものだろう。ここ最近の目覚しい活躍により彼の風当たりもまた強くなっていた。
特にディーノを顎で使っていた者たちは、女性を味方につけたやり口と、まだ若く一人前の男ではないとの揶揄をこめ、陰で彼を“レディ”と呼んで嘲っていた。更に言えば交流を深めたディーノとエミリオが、デキているという根も葉もない噂まで流れている始末だ。
「ありがとうございます。どうかお気遣いなく、慣れておりますので。私といるとまた色々言われますよ。」
「今更ですよ。それに私も慣れています。」
カラカラと笑うディーノに苦笑いする。そんな二人に意味ありげな視線を送りながら通り過ぎる者を視界の端で捉える。また尾ひれも背びれもついた噂が流れるのだろう。
「ディーノ殿は結婚なさらないのですか?」
「僕より貴方でしょう。どうなさるんです?」
ディーノが結婚でもすればつまらぬ噂もなくなるかと思いそう問かければ、最も突かれたくない所を自ら差し出す事になってしまった。五月蝿い外野に気を取られて、ついうっかりしてしまったがダメージは大きかった。黙り込んだエミリオに、今度はディーノが苦笑いを浮かべた。
「そんな顔をしないでください。困らせるつもりはなかったんですが…。」
「いえ、失礼しました。」
「こういう事は本人同士の裁量でしょうから。でも吉報をお待ちしていますよ。」
そう悪戯っぽい顔をしたディーノは「今度ゆっくり食事でも行きましょう。」と言って去っていった。何処か大人びた彼と比較し、自分の不甲斐なさを痛感してしまった。
期限が近づいているのは理解している。
もうそろそろ、行動を起こさなければいけない。
そう思えば思うほど、エミリオの心は重くなった。ノロノロと自分の席に戻り、珍しく深いため息を吐いたのが冒頭。そんな少々落ち込んだところに、例によってニヤニヤとしながら同僚が近づいてきた。
「よぉ、エミリオ。調子はどうだ?ちょっと話があるからついてこいよ。」
そう声を掛けると返事も待たずに背を向け歩き出した。場所まで変えるとは今日は長くなりそうだと、ますますげんなりするが、今は抵抗する元気はない。重い足取りで彼の後を追い、会議室の一つに入った。
「たまには休憩しないとな。」
「ご用件はなんでしょう?」
「そう急かすなよ。」
同僚の態度にげんなりを通り越して苛立ち始める。会話は予想した通りの展開となった。
「それで?婚約者様とはどうなってるんだ?」
「…またその話ですか。」
「そうは言ってもお前、もうそろそろ婚約六ヶ月になるだろう?結婚の祝いでも考えようかと思ってなぁ。」
「お気遣いなく。」
「遠慮するなよ。それともまた婚約破棄するのか?」
「……。」
“婚約破棄”という言葉がエミリオの心に突き刺さる。簡単に口にする同僚を恨めしく思うのはお門違いだろうが、それでも苛立ちは募る。放っておいてくれと叫びそうになるのを、奥歯を噛んで耐えた。
「何だよ黙りか?それとも図星か?あぁ、さては“レディ”が愛人って噂のほうが本当か?」
ニヤニヤと笑う同僚の顔を殴ってやりたいと思う。どうにか理性で抑え込み、拳を握りしめやり過ごす。
「不快な呼び名です。訂正してください。」
「そう怒るなよ。悪かったって。」
「侮辱はやめて下さい。」
「冗談だよ。あまり仲が良いから、ついな。それに言ってるのは俺だけじゃないさ。付き合い方を考えろよ。」
エミリオはため息を吐いた。噂を一々訂正するのも馬鹿馬鹿しい。だいたい仕事の話がほとんどで、たまに世間話をする程度の付き合いの何を考えねばならないのか。
「一般的な付き合い方だと思いますが。今後も良い関係を続けたいと思っていますし、関係を改めるつもりもありません。」
そう答えると同僚は何故か変な顔をして黙り込んだ。訳が分からない。苛立つエミリオに気を取り直したらしい同僚が言葉を続けた。
「…なら婚約者と結婚すんのか?」
「貴方に関係は。」
「それが知り合いにもし婚約破棄になったら次の候補者に名乗り出たいって言ってる奴がいてなぁ。会う度聞かれるもんだから、まぁまぁ関係ないって訳でもないんだよな。」
「…そうですか…。」
カリンの次なる婚約者についての話はエミリオの耳にも届いていた。聞いているだけでもそれなりの数だ。中にはかなり爵位が上の者や、人柄が良いと評判の者もいた。周囲が悪意ばかりの自分より、彼女を幸せに出来る者がいるだろう。
「すっかり有名になったからなぁ。俺のとこ以外にも結構な数いるみたいだぞ?だからまぁどうなるのかと思ってよ。」
同僚の言葉にエミリオは目を伏せる。そろそろ潮時なのかもしれないと思う。何よりこの会話を早々に切り上げたいと投げやりな気持ちで答えた。
「パルッツィ嬢を幸せに出来る方がいるのでしたら、喜んで隣をお譲りしますよ。」
気に入る答えだと思ったのに、同僚は何故か慌て始めた。
「は?お前、ベタ惚れなんだろ?」
「パルッツィ嬢とはご縁を頂きましたが、それ以上の事はありません。」
「いやいや、もう婚約六ヶ月になるんだろ。」
「言い出すタイミングがなかっただけのことです。」
言葉にする度エミリオの胸は痛んだが、更に続けた。もういっそ、嘘でも言葉にすれば諦めがつくかもしれない。
「初めから婚約破棄するつもりでおりましたから。」
早口で言い切ったエミリオの後ろ、ガサリと何かが落ちる音がした。驚いて振り向くと揺れるカーテンの間、蒼白なカリンと目が合った。
インフルエンザーになりました。
こんな局面なのに来週更新出来るか微妙です…。出来るように頑張ります_(›´ω`‹ 」∠)_