25.エミリオの葛藤
「エミリオ、愛しの婚約者と順調か?全く上手くやったもんだな。」
ニヤニヤしながら話しかけてきたのは、例によって職場の同僚だ。
「お陰様で。すみません、急ぎの用がありますのでこれで。」
表面上はにこやかに対応するが、以前と違いエミリオは直ぐに席を立った。そんなエミリオの腕をぐいと掴むと「まぁまぁいいじゃねぇか。」と言いながら席に押し戻し、近くの椅子を引き寄せる。どうやら逃してはもらえないらしい。
「そう邪険にするなよ。それともあれか?侯爵家のぼっちゃんやら、財務部のおっさんやらとつるんでるから自分は偉いってか?」
「そんなつもりでは…。」
あれからエミリオの周りは俄に騒がしくなった。
ガブリエラの隠居は驚きをもって伝えられたが、その理由については晩餐会に参加した男達の口から美しく形容され語られた。
曰く“自らが悪となりディーノの真の味方を洗い出したガブリエラ。その働きに感銘を受けた多くの者たちが協力を約束した事から、ようやく引退し静養する事となった。”との事。
勿論それが表向きだということは皆が良く分かっていたが、誰も追求しなかった。晩餐会に参加した者が「絶対にディーノを怒らせてはならない」と鬼気迫る表情で忠告したからだ。
渦中のディーノはエドアルドといくつかの事業で提携を結び、これらを公にした。既にいくつかの事業では結果が出始めている。
「妨害行為や押し付けられる雑務の量が減ったせいですよ。」と、ディーノは苦笑い気味に話していた。そんな雑談をするくらいには打ち解けた関係を築いていたし、エドアルドとの縁も何かと続いている。
エミリオの立ち位置も微妙に変わってきていた。新たに得た縁によって、仕事は一層捗るようになり、大きな仕事を任されることも増えてきた。
「それで?本当のところはどうなんだ?ベタ惚れって噂は本当か?」
「……。」
ディーノの事とは別に、主に奥方の間で広がっているのが、エミリオとカリンについての噂だ。
晩餐会でカリンを守るように立つ姿と、彼女に向ける視線から、ついに彼が本命を見つけたのだと密かに噂されたのだ。カリンを守るためにディーノと結託し、身を粉にして動いたのだと興奮気味に語られた。
こちらに関しては全くもってその通りである。
エミリオ自身も最早自覚しているが、素直に肯定できない理由があるのだ。
「やっぱり金か?侯爵家の仕事に口出して、中々いい額もらってるってのは本当なんだな。」
エミリオ同様、カリンの周りも騒がしくなった。
発端はあの晩餐会の後、侯爵家の料理長がチラッと漏らした愚痴からだった。
“最近やたら他家から石鹸を譲ってくれないかとせがまれる”
不思議に思ったディーノが調査すると、“侯爵家の厨房で使われている石鹸は、衣服の汚れ落としにも大変優れているらしい”と密かに評判をよんでいることが判明した。
これに目をつけたディーノは、新たにより良い洗濯専用石鹸の開発に着手した。
当然、高位の貴族ともなれば汚れたドレスに袖を通すこともなければ、仮に汚れても高度な技術を身につけた専門の洗い場担当がいる。
けれどそれはほんのはひと握りの上流階級だ。爵位の低い、あるいは裕福ではない貴族の家では、同じドレスを大切に上手く使い回している。こういった貴族や裕福な市民を対象として、比較的安価に発売した石鹸は大ヒットした。
更により酷い汚れが付いた場合にと、洗濯専門の店をオープン。その隣には店先に大ぶりのコサージュやレースのリボンを飾った、リメイク専門の店を併設した。万一、汚れが落ちなかった場合は、こちらを割引で利用できる仕組みになっている。
当初は店を利用すれば貧乏人呼ばわりされるのではと嫌厭されたが、それも直ぐに払拭された。
“同じドレスを如何に斬新に、印象を変えて着ることが出来るか”
ディーノの呼びかけの元、晩餐会で硬い握手を交わした奥方たちが、ドレスのリメイクを新たな嗜みとして流行らせたからだ。リメイク専門店は連日大変な賑わいを見せ、高級路線の二号店まで作られた。
汚れ落とし石鹸・汚れ落とし専門店・リメイク専門店。これらの成功でディーノの評判はうなぎ登りなのだが、実は全ての監修と発案にカリンが関わっていたのだ。彼女の知識とアイディアはとどまるところを知らない。その場に同席したエミリオは驚くばかりだった。
ディーノは共同経営を提案したが、カリンはそれを固辞。僅かばかりのマージンを受け取る事で落ち着いたが、この事が密かに広まりカリンに対する世間の印象はガラリと変わったのだった。今では金を生み出す才ある女性とすら言われ始めている。
「金など、とんでもないことです。たまたま、ご縁を頂いているだけで。」
「へぇ?なら婚約解消したらどうだ?今回は随分と長持ちしてるって話だしなぁ。今なら譲っただけで大恩を売りつけられるかもしれねぇぞ?」
「…彼女は物ではありませんので…。」
「は!じゃあ侯爵家のぼっちゃんにでも譲ったらどうだ?まぁどっちにしろ手綱は握っとくんだな。」
言いたいだけ言った同僚はニヤニヤ笑いながら去っていった。エミリオは席を立つと、滅多に人の来ない資料室に向かった。
部屋に入るないなや力任せに壁を叩いた。石造りの壁はビクともしない。逆にエミリオの手を痛めただけだったが、彼の胸は比にならない程痛んでいた。
カリンが正当な評価を得られているのは喜ばしい。それを少し寂しく感じるのは自分のエゴだ。やっかみや嫉妬が彼女を傷つけないか心配ではあるが、自分に降りかかる分には一向に構わない。本当の彼女を皆が知れば、もっと好かれるだろう。
けれどカリンや自分の評価が上がる程に、二人の間を引き裂こうとする者が増えてくる。
婚約をいつ解消するのかと聞かれる度、それを勧められる度、エミリオの心は鉛の様に重くなった。時に込み上げる怒りと葛藤に、表情を保っていられなくなる。
「分かっていたじゃないか…。」
いつか彼女の手を離すべきだと。今なら彼女を本当に大切にする相手を見つけることも可能だろう。
けれど望んでしまった。
彼女をこの手で守りたいと。
自分が幸せにしたいと。
彼女を愛し始めている自分の心を、どうやって止めれば良いのか分からない。
そんなエミリオの耳元で亡霊が囁く。
『ピアドリアの罪人め!お前に幸せになる権利などないぞ!』
エミリオは顔を歪ませ瞳を閉じる。
分かっている。
自分は人を不幸にする。
彼女の幸せを本当に願うなら、その手を離すべきなのだ。
「諦めるのは…慣れているさ。」
だからあと少しだけ許して欲しい───。




