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21.魔女の誤算

春の昼下がりの縁側に、駒を打つ音が響く。程よく暖かな日差しは眠気に拍車をかける。昨日も遅くまで掃除をし、日付が変わるまで小さな明かりで繕い物をしていた。今朝は今朝で日の出と共に起き出しているのだ。正直なところ目の前の相手より、睡魔の方が余程強敵だ。


高圧的な舅が苦手な夫は自室に籠り、姑は聞く耳すら持たない。舅の相手をする事になったのは必然だった。将棋の駒に触った事すらなかったのに、この頃はギリギリで負ける技術まで身につけていた。寝る間を削って入門書を読んだ成果だ。舅があまり強くなかった事も幸いだった。


それでも呑気になどしていられない。どれだけ勝負が長引こうが、誰かが仕事を代わってくれる事もなければ、舅が取り成してくれる事もない。食事の支度が遅くなろうものなら、何を言われるか分かったものではない。これからの予定を確認しながら考えるのは、舅を満足させながらもギリギリで負ける最も早く終わる手順。そんな事ばかりだった。


純粋に楽しめたことはなかったが、それなりに強くはなったと思う。そんな経験が今世の自分を助けるとは夢にも思わなかった。


目の前の盤面を眺めながら、カリンは前世の事を思い出していた。


「チェスをした事がないですって?全く嗜みの一つでしょうに、情けない事。エド様相手に十分持ったなら勝ちとしてもいいんじゃないかしらねぇ?」


素人相手など…と渋るエドアルドと、自分が代わるというエミリオを宥めて躱して、ガブリエラがそうカリンに告げたのは二十分程前。既に指定の十分は過ぎているが、未だに勝負は続いている。


チェスの簡単なルール説明を聞いた時から、前世での将棋に似ていると思った。それでも実践は久しぶりだし、違うところも多々あったが、素人相手と侮っていたエドアルドに対抗するには十分だった。彼が不本意そうに対面に座っていたのは最初の数分で、今では顎に手をやり真剣な表情をしている。


それは周りで観ていたガブリエラやエミリオも同じだ。嘲りや心配の表情は、驚きに変わっている。


次の手番はカリンだ。頭には自分が勝ちになる手筋と、上手く負ける手筋が浮かんでいる。本来なら迷うはずない選択だ。けれど彼女の頭の中では前世の姑の声が響き、迷いを生じさせていた。


「お前が勝っただって!?ふざけるんじゃないよ!うちの人に恥かかせるなんて、なんて事してくれるんだい!そんな知恵つけてる暇があるなら茶碗の一つも磨きな!」


初めて舅に勝ってしまった日、姑にそう言われ左頬を殴られた上に食事を抜かれた。舅は怒っていなかったし、寧ろ機嫌が良かったが、かえってそれが姑は気に入らなかったようだ。


それからというもの、何としても勝たないように気が抜けなくなった。勝つ直前でうっかり負けるなんて事はそう何回も続けられない。かといって急に弱くなるのもおかしい。勝てなかった時よりもずっと神経を使うようになった。


目の前の盤面は今が勝負所の局面だと、何となく感じている。カリンはどちらを選ぶのが正解なのか、分からなくなっていた。


「どうして踏み込んでこない?」


エドアルドの声にはっとして顔を上げる。彼は表情も体制も変えない。けれど盤面の状況もカリンの迷いも、彼には筒抜けなのだろう。その上で踏み込んでくるように促しているのだ。どこか面白がっているのは、気のせいではない。


「カリン嬢。」


それでも迷うカリンに声を掛けたのはエミリオだ。顔を向ければ、彼は励ますように微笑み一つ頷いた。その顔に何故かとても安心した。カリンは自分自身の小さな勇気に叱咤激励され、駒に手を伸ばした。


が、触れる事はなかった。


「あら嫌だ!もう大分時間が過ぎているじゃないの。はいはい、そこまでよ!」


ガブリエラが突然割り込み盤を持ち上げたからだ。倒れたポーンがテーブルに落ちてカンと音を立てる。突然の事に驚きつつも、カリンは安堵以上に残念な気持ちを抱えていた。


一方のガブリエラは空気を壊した事など百も承知だ。それでもこれ以上カリンに善戦させる訳にはいかない。焦りと苛立ちを抱えながら、カリンに向かって侮蔑の視線を送った。


「貴方、経験がないなんて嘘でしょう?」

「いえ───。」

「見れば分かるわよ。良くそんな嘘がつけたわね。私やエド様に恥をかかせたいのかしら?こんな勝負は無効よ!」

「…」

「そうまでしてエミリオにいい所を見せたいとでも?なんて小賢しいのかしら!」


ガブリエラに捲し立てられカリンは硬直する。流石にこれは演技でないことは分かる。「嘘つき」「恥をかかせる」「小賢しい」───。その軽蔑の眼差しが、憎々しげに語られる言葉が、先程まで頭に響いていた姑のそれと重なっていく。


視線に耐えられなくなったカリンは言い訳も出来ずに俯いた。冷えた体が強ばり、萎んでいくような感覚を覚える。


あぁ、また私は上手くできなかったのだわ。


感情が灰色に染まって行きかけた時、目の前に影が差した。


「ガブリエラ様、流石に言い過ぎでは?」


エミリオが守るように前に立っていた。


「一方的に決めつけるのは良くないでしょう?それに折角の良い勝負を邪魔するのは如何なものかと。」

「あらそう?よく見ていなくて───。」

「おや、見ていないのにどうして経験者だと思ったのです?」

「…それは…。」

「恥をかかせるという言い方も解せません。彼女の善戦は褒められるべきことであって、それが咎められるのはおかしいではないですか。対戦を勧めた貴方も鼻が高いでしょう?」


ガブリエラとエミリオのやり取りを、カリンは目の奥の熱さに必死に耐えながら聞いていた。


こんな風に誰かに庇ってもらったのは初めてだった。今世の家族以外では、努力を褒められた事も、自分の言った事を信じて貰えた事も初めてだ。


それがエミリオである事がこんなにも嬉しい。


湧き上がるような喜びに戸惑う。頼もしい背中に胸が震える。カリンはこの気持ちを伝えたいと思いながらも、その術を見つけられず、ひたすらエミリオの背中を見ていた。


「お黙りなさい!誰に意見していると思ってるの!?こんな小娘に肩入れして、何の得になるのよ!表舞台から消すなんて、私には造作もないのよ!」


激高したガブリエラの言葉にヒヤリとした時、にわかに部屋の外が騒がしくなった。そして一人の青年が部屋に入ってきて口を開いた。


「表舞台から消えるのは、母さんのほうだろうね。」




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