18.魔女の口紅②
目の前で驚きの表情をしたガブリエラの顔が、憎々しげに変わりこちらを睨んでくる。カリンは落ち着こうと呼吸を繰り返した。
“ガブリエラ・ディ・ダルザス”
勿論その名前は知ってはいた。以前見かけた彼女は両側に若い男性を従え、さながら女王なように振舞っていた。彼女の本来の噂はカリンの耳には届いていなかったが、それを差し引いても有名な方だ。
“女性でありながら身一つで成功をおさめた、未だに独自の人脈を持つ未亡人”
都合の良い言い方をした彼女を示す言葉を信じていたカリンは、住む世界が違うと思い、なんなら尊敬の念を抱いてすらいた。
それが何故自分になどに招待状を送ってきたのだろうと、貰った当初は不思議に思ったが、中の手紙を読み理由が分かった。
エミリオが未亡人と割り切った付き合いをしているという噂は聞いていた。その未亡人というのがガブリエラなのだろう。あれほど有名な方であればエミリオの相手として相応しい。カリンは納得しつつ、思った以上にショックを受けている自分に驚いた。
私になんのご用なのかしら…。ううん、そんなの決まっているわ。ご自分こそがエミリオ様の恋人だ、と釘を刺されたのね。私が知らないばかりに、お二人の間を引き裂いていたのだわ。言って下されば、すぐに身を引いたのに───。
そこまで考えた途端、カリンは締め付けられるような胸の痛みを感じた。エミリオとの別れを想像し、エミリオとガブリエラが身を寄せ合うのを想像し、涙が滲む。
嫌だわ。いつの間にか欲張りになっていたみたい。私がお傍にいるのを望むなんて烏滸がましい事だわ。
そう思うのに涙はなかなか引っ込んでくれない。次から次とエミリオとの思い出と共に涙も溢れて来る。彼との思い出も随分と増えたものだと思いながら、ふと違和感を覚えた。
本当に恋人がいるのだろうか?これまで無理をして合わせていてくれたようにも思えない。勿論、あのエミリオの事だし、自分が鈍いのも分かっている。けれど、どうにも違和感が拭えない。
今までのカリンならば、そんな違和感など気にせず婚約を解消していただろう。でもエミリオとならば、話が出来ると信じていた。
どちらにしてもガブリエラからの誘いは断る事も出来ず、エミリオに確認を取らねばいけなかったカリンは意を決して問い掛けたのだが───どうやらその判断は正しかったらしい。
エミリオははっきりと「恋人ではない」と言ってくれて、カリンは心から安堵した。同時にカリンの心を満たしたのは喜びだった。
その意味を深く考える間もなく、直後いつも以上に饒舌なエミリオのお世辞に、顔から火が出る思いをした。
あれは本当に何とかして欲しいわ。とても心臓に悪い。
ともあれ、カリンの心配はなくなり、疑問は振り出しに戻った。ガブリエラのあの手紙はどういう事なのだろうか。
きっとガブリエラ様はエミリオ様の婚約者として私が相応しいか、試験をする気なのだわ。未だに若い子息の教育に励んでおられると聞くから…一緒にお仕事をなさったエミリオ様に、特に目にかけておいでなのね。
ガブリエラの事を誤認しているカリンは、やや斜め上に受け取った。更には「普段お世話になっているし、お仕事を頑張っておられるエミリオ様のためにも失敗は許されないわ!」と謎の闘志を燃やしたのだ。
と、いうのも、似たような経験をしていたからだ。母親というものは、とにかく息子を溺愛するらしい。ガブリエラは母ではないが、年の離れたエミリオを息子のように思っていてもおかしくはない。
緊張しつつも初めて対面したガブリエラは早速慈愛の表情を向けていたし、エミリオも「母のようだ」と言った。その事でカリンは自分の予想は当たっていたのだと思い、更にその直後、エミリオのベストにわざとらしく口紅をつけた時、それは確信に変わった。
前世でもカリンは出汁のとり方、掃除の仕方、縫い物の速さなど、ありとあらゆる試験を課せられたものだ。その中の一つに“衣服についた口紅を落とす”というものもあった。最初の試験で失敗したせいか、姑は何度もカリンにそれをやらせた。思えばこの頃からイビリが激しくなったような気もする。そのお陰で業者のレベルにまで上達したが。
前世ではあまり活かされなかったその経験が、ついに今世で日の目を浴びることになった。前世とは勝手が違うが、口紅をバターに溶かし、侯爵家の厨房から質の良い石鹸を拝借。お湯で丁寧に処理すれば、元々赤紫だったこともあり、汚れはほとんどわからなくなった。
「カリン嬢、ありがとうございます!これ程綺麗に落ちるとは…一体どんな技を?」
「…花嫁修業の一貫で学んだのです。大した事ではありませんわ。」
まさか前世で…とは言えずにカリンが絞り出したその言葉はガブリエラの機嫌を急降下させ、エミリオに密かなダメージを与えた。ガブリエラの視線は更に厳しさを増したが、カリンは慄くどころか別の事を考えていた。
ガブリエラ様は本当の姑みたいだわ。いくら目を掛けているとはいえ、ここまでエミリオ様を心配されて私に厳しい審査の目を向けるなんて、なかなか出来ることじゃない。…やはり凄い方なのだわ!
カリンの羨望の眼差しは、ガブリエラには得体のしれない圧になった。
自分はこの娘に嫌がらせをしているはずなのに、そのキラキラした瞳は一体何なのだ。場にそぐわないその視線にちょっと引いてしまったガブリエラだが、何とか立て直す。
「花嫁修業ですって?侍女見習いの間違いではないのかしら。そんな程度でいい気にならないことね!」
プリプリと怒りながら歩き出したガブリエラを見て、最初の試験は無事合格だったのだろうと安堵した。
あぁ、次は何の試験なのかしら。落ち着いてやれば大丈夫なはず!
カリンは自分を鼓舞し、魔女の次なる課題に気を引き締めたのだった。