17.魔女の口紅①
ガブリエラは数度瞬きすると落ち着きを取り戻した。見てくれが多少良くなろうとも、元侯爵夫人の自分は格が違うのだ。それに自分には価値がある。それを分からせるための準備も整っている。
そう考えたガブリエラは余裕を持って悠然と微笑んだ。
「…エミリオ、随分と久しぶりじゃないの?」
出鼻をくじかれた事などすぐに忘れた。一歩前に出て手を差し出せば、エミリオが取り腰を折った。だが、それは唇を寄せたフリだけだ。ガブリエラの片眉が不機嫌そうに上がるが、姿勢を戻したエミリオがニコリと微笑んで口を開いた。
「そうですね。前回は良い方への繋ぎを作って頂きありがとうございました。」
「いいのよ、貴方のためなら次も紹介するわよ?私にとっては容易いことですからね。」
ガブリエラは更に近付き、エミリオの胸に手を当て上目遣いで見つめながら言った後、嘲るような視線をカリンに送る。「貴方には出来ないでしょう?」という意味を込めたつもりが、彼女の表情は変わらない。
図太いこと。でも、いつまでもつかしらねぇ?
ガブリエラがそう思っていると、上からエミリオの声が降ってきた。
「本当ですか?ダルザス様ありがとうございます。」
「ガブリエラでいいわよ。貴方と私の仲じゃないの。当然でしょ?だって───」
「ガブリエラ様は母のようで頼りになりますね。大変助かります。」
エミリオを見上げていたガブリエラは「母…」と呟いて固まった。被せるように言葉を放ったエミリオはニコニコとして、一切の邪気は感じられない。もちろん軽いジャブのつもりだ。暗に恋愛の対象外と言われたのだが、当然それはガブリエラのプライドが許さなかった。
不機嫌な顔でエミリオから離れようとして、わざとらしくよろめきエミリオに倒れ込んだ。突然の事にエミリオも対応出来ず、体ごとぶつかって来たガブリエラを何とか支える。
「ああ、ごめんなさい。急に目眩がして。」
「…大丈夫ですか?」
「エミリオはいつも優しいのね。あら!嫌だわ。私の口紅がついてしまったみたい。ごめんなさぁい?」
幸いコートやシャツにはついていないが、中のベストに赤い口紅がついている。笑いを含んだ謝罪はワザとだと告げている。
「…お気になさらず…。」
そう言ったエミリオだったが内心は苦々しく思っていた。早くこの汚らしいベストを脱いでしまいたいと思う反面、カリンとの折角の揃いを脱ぎたくはないとも思う。けれどこのままにもしておけない。
「あらあら、私の印みたいね。」
「…中を脱いで参ります。」
「冗談でしょう?私の前でそんな不格好許さなくてよ。どうせ取れないのだし、そのままでいなさいな。」
「それでは本日はこれで───」
「紹介したい方がたくさんいるのよ。それとも“私”の言うことが聞けないのかしら?」
その言葉にぐっと詰まる。ここが貴重な人脈作りの場だとは分かっているし、何より爵位を盾に言われては手も足も出ない。これからの事を考えれば帰る事など出来ない。
黙るエミリオにガブリエラが勝ち誇った笑みを向けた時、「あの…。」と、控え目にカリンが声をかけてきた。
「宜しければ少しだけベストを預からせて頂けないでしょうか。ダルザス様、少しの間でしたら失礼には当たりませんか?」
「はぁ?貴方がどうするっていうのかしら?」
「付いた口紅を落として参ります。それから恐れ入りますが厨房への立ち入りを許可頂けないでしょうか。」
この小娘は何を言っているのだ。ガブリエラは眉間に皺をよせた。
「出来るわけないでしょう。貴方みたいなよく分からない人を我が家の厨房に入れるなど。」
「…申し訳ありません。でしたら、バターと厨房の石鹸をお借りできないでしょうか?場所はどこでも結構ですので。」
更に訳の分からない要求をしてきたカリンに、眉間の皺を深くした。
「カリン嬢、貴方の手を煩わせる訳には。」
「大丈夫です。取れたほうが宜しいのでしょう?少し席を外してしまいますが、お仕事のお話は私には分かりませんし…。」
エミリオの心配そうな顔をしているのも、カリンが平然としているのも、ガブリエラは気に入らない。けれどカリンが「仕事の話は分からない」と言ったのを聞きニヤリとした。
この娘はきっと仕事の話についていけない自分を直視したくないに違いないわ。適当なことを言って逃げているのね。
何よりエミリオの横を独占出来るなら、とガブリエラは要求を呑む事にした。
「よく分からないけど?別にいいわよ。控えの部屋に案内させるから、貴方の好きにしたらいいわ。」
「ありがとうございます、ダルザス様。」
「貴方に仕事の話なんて出来ないものねぇ。木偶の坊みたいに立っているだけなんて暇でしょう?汚れ落としでも何でも、ゆっくりして来たらいいわ。」
何か言いたそうなエミリオだったが、一度カリンと共に部屋を出ていくと、中のベストだけを脱いですぐに戻ってきた。
「エミリオ、何か飲む?」
「お待たせ致しました。それで、ご紹介頂ける方と言うのは?」
「…せっかちねぇ。まぁいいわ。行きましょう。」
ガブリエラは上機嫌でエミリオに腕を絡ませた。そこから数十分の間に己の力を見せつけるがごとく、様々な人物をエミリオに引き合わせた。
「…素晴らしい人脈ですね。」
「でしょう?貴方も上に行くなら大事にすべき相手は見極めないとねぇ。」
「……勉強になります。」
「さ、次の方は───。」
そう言って移動しようとしたガブリエラ達に声をかける者がいた。
「エミリオ様、お待たせ致しました。」
不可能と思われた口紅の汚れを落とし、綺麗になったベストを携えたカリンだった。