覚醒そして新たなる人生の旅立ち
後悔と不安の狭間で
やってはいけないことを気づかなかったことといえども、既に犯してしまった罪、取り返しのつかない過ちに対し、自問自答の日々が続いた。そしてこれからの生き方を模索し翻弄する吉蔵
後悔だけでは未来は変えられない。今できることをただひたすらやるしかない。
今と真摯に向き合い、そして過去の過ちから多くを学ぶ
帰ってきた遭難者
吉蔵は長い昏睡状態から目が覚めた。長い眠りなのかそれとも遠くに旅に出かけていたのかは誰にもわからない。
それははるか大海原を流され南の島に辿り着いたのか、はたまた死後の世界を彷徨って蘇生してこの世に舞い戻ってきたにか、はたまた時空を超えて長い旅を終えて帰還してきたのか本人ですらわからないのだからそれを知る術はない。
しかし、どういうわけかはわからないが目を覚ましたのは、生まれた島の南のはずれであり、その目覚めた場所は彼の実家からほんの数十キロほどの目と鼻の先の浜辺であり、こんなことがあるのかと本人も思った。
それ以上にほとんど漁師ですら近寄ることのない岩礁の入り混じった海岸だったため、誰一人として漂流を続けて彼が奇跡の生還をしたことに気づくものはいなかった。
しかし、彼はこの現代社会に舞い戻ってきたことは紛れもない事実であった。しかし彼にとってはそこはもはや今まで暮らしてきた故郷の島ではなく、それ以上に同じ世界でもなくなっていた。彼の目に映る景色はまさしく別世界そのものであった。
その世界は、価値観がすっかり入れ替わった吉蔵にしか見えない世界に入り込んだ瞬間でもあった。
それは何が違うのかは、その後の彼の生き様がありありと語ってくれるだろう。
確かにその帰還は他の人々にとっては紛れもない奇跡そのものであり、いやそれ以上に信じがたい出来事であった。かれこれ半年以上その消息すら分からずじまいで、安否すら誰にもわからずほどんど皆半ば諦めとそのことすら忘れされようとしていたのだから仕方ないことである。
吉蔵自らも目覚めるまでの間に目にしてた光景が単なる幻覚だったのかそれとも霊能者のいう臨死体験だたのか、あの時目にしたものは死後の世界を垣間見たのだろうかほとんど知る由もなかった。
しかし、それが幻覚でも臨死体験でもないことを裏付ける唯一の証が彼のポケットにはあった。それこそがあの子供から手渡された一通の手紙であった。
最初、本人もそのことをすっかり忘れていた。覚えているどころかそのことなんかよりもあの時見た情景が本物だったのかどうだったかすらわからない吉蔵にとって、その時に手渡された手紙を覚えているはずもなかった。
ふとした拍子に胸元のポケットに手を当ててみた。彼は今までも思いついたことをなんでも胸元の手帳に書き残しておく習慣があった。頭にひらめいた心打つ響きのフレーズ、忘れてはいけない気づきの事柄、初めて知った出来事などそれは決して他人から見れば他愛もないことばかりであったが、吉蔵にしてみればその古ぼけた手帳はまさしく言葉の宝石箱であった。
それで彼はいつもの習慣で目覚めた瞬間の感情をまず書き留めておこうと胸に手をやった瞬間、二つ折りになってくしゃくしゃになっていた手紙に気づいた。
最初、彼も何だったのかを思い出すこともできず、そのままゴミかと思って捨てようとしたが、思わず捨てる前に目をやってみたら、それは自分宛てに送られた出手紙であることに初めて気づいた。
その文字は誰が見ても幼い子供の字であり、まるで漢字を教わって間のない子であることはすぐに分かった。
そして消印を見るとなんとそれは2050年のそこの郵便局の消印が押されていいるではないか。
「何なんだこんないたずらをする奴は?」
と吉蔵は思った。
「悪ふざけもいい加減にしろよな!、どんなに俺が亡霊にように帰ってきたからと言ってこりゃだめだんべ。」
と思った瞬間
「おじさん、この手紙は必ず帰ってから読んでね」
といった子供の声が聞こえてきた。
あぁ、そうだ。あの子がそう言って手渡してくれたのがこの手紙なんだとはっきり思い出した。
はぁっと思わず吉蔵は声を上げた。
そうなんだ、あれは幻覚でも臨死体験でもなく紛れもない事実なんだと気づいた。
しかし、彼はすぐにその封書を開く気にはなれなかった。それは彼なりの予知能力にも似た感性で、きっとその中には深刻な内容が記されているに違いない、そうめったな気持ちで封を切るわけにはいかないと思った。しかしそれ以降その中身の手紙の内容が気になって仕方なかった。
だったら封を切ってみればいいんじゃないかと誰しもが思うところであったが、彼はその便箋に手を付ける勇気が出てはこなかった。
きっと書かれている内容如何では私はどうなるのかを記されているに違いないと信じ込んでいた。それに手を付ける心構えができずにいた。
日常そして非日常の狭間で苦悩する日々
吉蔵は目が覚めて、ゆっくりとあたりを見渡していた。あの時に打ち上げられた浜はまさしくこの浜に間違いはないと確信を持った。すなわち俺は生きて帰ってきたんだ。それもあの荒海を何日も何日も漂流し続けていたのも記憶をたどれば間違いないはず。なのになぜこの浜辺に打ち上げられたのだろうか?俄かにその疑問に答えるだけの明確なものは見当たらなかった。しかし、今自分はここにたっている。そのことだけは紛れもない事実であり、胸ポケットにしまってある手紙も事実ならば、あの時目にした二つの情景もまた真実でしか言い表しようがないと自問自答していた。
しかし、その自問自答することすらあまり意味のないことだと思うようになっていた。そんなことよりも人間の愚かさに心が痛んでいた。
あの殺伐とした廃墟の情景に言い知れぬ脱力感と倦怠感に苛まれたあの感覚はまさしく紛れもない事実であり、今もその息苦しさは忘れ去ることができずにいた。あの陰鬱な空気に包まれて、ただただ自責の念がまず彼の脳裏に焼き付いてしまっていた。まさしくトラウマのように。
吉蔵は、取り返しのつかない大罪を犯したその嫌悪感の張本人が自分であることを突き付けられていると思い込み、あの手紙が手渡されたのだと思い込んでいた。
だからこそその手紙を開く勇気が出ずにいた。いっそのこと読むこともなくそして誰に読まれることもなく、そっと焼き捨ててしまおうと考えていたのである。
背中にその重い十字架を一人背負って生きていかねばならないのかと思うと頭を抱えるしかなかった。
しかし、いつまでも頭を抱えていたってそれですべてが解決するわけでもなく、船を失った吉蔵は街に働きに出ることにした。自分が遭難騒ぎでいない間に飲んだくれの親父もそしてそのあとを追うように病弱な母もなくなっていた。天涯孤独な身になった吉蔵はただ無心に働くことで気を紛らわしていた。そうすることで解決のできないジレンマをつかの間でも忘れることができ、そして自責の念に圧し潰されることもなかった。日常において仕事に忙殺されることでその悪夢の呪縛から解き放されることができ、それが自己肯定の一番の道だと考えて一心不乱の与えられた仕事をこなし、人の嫌がる仕事まで率先した自分が請けて仕事に没頭する日々を送った。
その姿を見て近所の人々も口々に囁くようになっていた。
「あのろくでなしの吉もあの事故以来、まるで生まれ変わったよなぁ」
「やっと目が覚めて、一人前の大人になってくれたってもんよ」
変り者で通っていた吉蔵も近所の人からは一目置かれるほどの世にいう”真面目人間”になっていた。
しかし、当の本人の吉蔵にしてみれば、そんな近所の目がどうであるかなどは眼中にはなく、そんな世間の評判とは裏腹に彼はひたすら現実を直視することを覚めるために、目の前に与えられた仕事に没頭することで、余計なことを考えずに済むと思っていたに過ぎなかった。
やがて、今まで親父の代から疎遠だった遠い親戚の人々にもそんな噂が届き、ある日吉蔵にも縁談話が舞い込んできた。
彼にしてみると確かに天涯孤独の身であり、ひとの世話をする必要もなくなた代わりに自分の身の回りを気遣い、面倒見てくれる人もなく確かに傍から見ると寂しい生活をしているように見えるのも仕方なかった。
しかし、本人的には孤独感に苛まれるというよりも与えられた仕事に没頭していることほど楽なものはなく、無駄なことを一切考えることもなく、それでいて誰からも後ろ指一つ差されることなく生きていくことに安堵していた。なので孤独とは考えたことはなかったが、だからと言ってもともとは人嫌いな性格でもなく、それ相当に異性へのあこがれも欲望も人並み以上に持ち合わせていた吉蔵は、縁談話も毛嫌いすることもなく話はとんとん拍子で進み、恋愛感情が芽生えて結ばれたというよりも惰性で連れ添っている間に人並みに恋愛感情も芽生え、なんとなくではあるが世間並みに仲むずまじい暮らしが始まった。
相手を気遣うのは、どちらかというと根が優しい性分だったので、お互いを労わりあい、気遣い、助け合ってどこにでもある平凡な日常が彼にもやってきた。
彼の意図とは別にして、世間では非常に生真面目で頑張り屋の好青年という評判がいきわたり、島の中でも人からは
「人間、変われば変わるもんだよな、あの変わり者がね」
「やればえきるんじゃねぇか?最初から真面目にやってりゃ、親だってあんなに不自由な暮らしぶりでなくてもすんだになぁ」
と囁かれるようになっていった。
やがて奥さんのお腹にも赤ん坊ができた。そして吉蔵も父親となった。
その妊娠の知らせを聞いた吉蔵も大喜びかと思いきやそれは決してそうではなかった。
彼はまさか自分が子供の親になるとは想像もしていなかったからであった。自分一人で現実を向かい合うことなく現実逃避して生きていく決心でいたはずなのにまさか自分が子の親になるということは単に大喜びできるものではなかった。自分の子供が大きくなって、あの時見たあの陰鬱な世界で生きていくのかと思うとまたもどうしようもないやるせない気分が彼に襲い掛かってきた。
彼は再び激しい自責の念に苛まれて生きていかねばならないのかという思いが彼の身体全身を包み込んだ。
俺は本当にこれでいいんだろうか?日常に埋没して、仕事に忙殺されて何も考えずして、自分をごまかして、世間の目に惑わされて、満身創痍にもかかわらずすべてを気づかぬふりして生きていく。
そんな自分が本当にそのまだ見ぬ祖先に顔向けできるのだろうかと自分を責め続けた。
戸惑いと決意
突然、妻は煮え切らない夫の吉蔵にしびれを切らして詰め寄ってきた。
「あんた、私が妊娠したって聞いてもちっとも喜ぼうとしないよね。」
「あんたは、子供出来るの嫌なの、どうなのさ」と吉蔵はいつもおとなしい女房から問いただされた。
「何言ってるんだよ、子供ができて嬉しくない親がどこにいるもんか」
「俺だって嬉しいに決まってるじゃねぇか?馬鹿な事言いうな」
とつっけんどうに吉蔵は言い返した。
「だって、あんた私が妊娠したって聞いてから、仕事は手につかないし、返事しても上の空だし、全くあんたときたら、嬉しそうの顔の一つも見せたことがないじゃないか」
とさらに畳みかけるように詰め寄ってきた。
「いつまでも変なこと考えてねぇで、お腹のこどものことだけ心配してりゃいいんだから」
といつまでも食い下がる女房の質問攻めを必死にかわしてはみても、奥さんには吉蔵の態度は心から喜んでいないことははっきりとわかっていたが、それ以上問いただしてみても満足いく答えが返ってこないのも明白であった。
なので、これ以上会話は続くことはなくなり、二人は黙り込んで食卓に向かっていた。
実際、吉蔵の心の中は揺れ動いていた。口ではそうは言ったものの、その態度から女房にはお見通しであり、心の底から喜んではいなかった。というよりも嬉しさをどう表現していいのかわからなかったのと人の親になるということの責任を人一倍深く考え込んでいた吉蔵には、それをどう言い表していいのか言葉を探すこともできなければ、相手を喜ばす方法を見つけることができずにいた。やはり生まれつきの正直者のそんなところであり、普通の人じゃ軽く「ありがとう、おらも本当にうれしいよ」
とでもいっとけば、黙って女房は喜ぶことはわかっていても、吉蔵にはそれができずにいた。
吉蔵にとって、子供ができて親になることをどう受け止めていけばいいのかわからなかった。
確かに嬉しいことは嬉しかった。まさか自分が親になれるとは想像もしていなかったことだし、それが現実に人の親になれる喜びはひとしおであったことは紛れもなかった。
しかし吉蔵にしてみるとその嬉しさの何倍もの責任を感じずにはいられなかった。それはあの時見たあの2つの情景である。その子が大人になる、新たな子孫を育むことになった時、果たして未だ見ぬ自分の子孫がどのような世界で生きているのかを想像すると確かに吉蔵の抱いた不安と責任はわからないでもなかった。
はっきり言って、彼は自分自身の中でその子供から手渡された手紙が今を生きる現代人に大きな課題を投げかけていたのだという言うことを手紙を読む前から察していた。
だから彼はその責務の大きさに気が付いていたせいで、その手紙の入った封筒に手を付けようとはしなかったのだった。
そして、月日が流れ奥さんの臨月が近づいてきたころ、何を思いっ立ったのか吉蔵はいつになく神妙な顔つきで食卓を挟んで座る女房に言い出した。
「なぁお前、俺今の勤め先をやめようと思うんだ。いいかなぁ?」
と唐突に切り出した。
奥さんは、何を言い出すのかとただならぬ夫の顔を見て、切り出される前から一定の覚悟をして聞き入っていたはずであったが、まさか身重の体を目の前にして急に仕事を辞めるなんてことを切り出されるとは思いもよらなかったのと湧きあがる憤りが抑えきれず思わず
「あんた、何をいっているのさ。正気の沙汰でそんなこと言っているのかい!」
「いつも黙って真面目一筋で働いてくれていたから、いろいろあっても有難いと感謝こそしていたが、まさかこの場に及んでまして身重のこの体を目の前にして、明日から仕事を辞めようかと重いんだけど、どう思うなどとどの口下げていってるんだ。あたいの顔をしっかり見てもう一度行ってみな」
「おふざけもいい加減にしとくれよ、冗談もほどがあるよ、この道楽やろうが!」
と奥さんはけんもほろろに言い返した。
それからというもの食卓は静まり返った。その後二人の間で会話を交わすことはなかった。というよりも調子のいいことのいえる男ではないことは奥さんは十分承知していて、いい加減にその場を繕おうとかお茶を濁してその場凌ぎをする人間でないことはしっかりと認識していて、この人がいったん神妙に口にしたことの重みと決意に固さは話し合いをする余地にないことを両者ともに知ってのことだった。
小さな家の中から会話が消えた。そして数週間が過ぎたころだろうか吉蔵は勤め先を辞めた。
それは承知していたはずの女房は、すでに臨月になっていた。後戻りはできないと考えた彼女は、吉蔵がまだ寝入っている朝早く、簡単な置手紙を残して静かに家を出て行った。
「吉ちゃん、短い間でしたがいろいろとお世話になり、ありがとうございました。この御恩は決して忘れることはないでしょう?あなた様が決めたことを私は非難するつもりはこの場に及んで一切ありません。かえって私がいることであなたの決心が揺らぐことがあっては、私としても本意ではありません。一人お腹の赤ん坊を生むためにここを後にして、実家の母のもとで元気な赤ん坊を生む決断をいたしました。あなたも私と生まれてくる赤ん坊に変に気を使うkとおなく、あなたの求める道を邁進していただければ、私もそれが最高の幸せかと思っております。心置きなく自らの選んだ道をお進みください。
かしこ」
と織り込み広告の裏にきれいな字がくっきりと朝の差し込む光にキラキラと輝くように光り輝いていた。
彼が選んだ最後の決断
吉蔵はまたも一人ぼっちになってしまった。しかしそれは本人も織り込み済みの結果に過ぎなかったし、奥さんの残した置手紙の通り、別に愛想尽かしたというよりも自分たちの存在で吉蔵が躊躇い、怯むようなことがあってはならない、夫の求める道の足かせになることになってはならないと思ってのことなのだから、なるべくしてなった孤独であったのである。ある意味のお互いの苦渋の選択であり、最後の決断でもあった。
吉蔵もまた今更、自分の選んだ道を振り返ることをしようとはなかった。
勤め先を辞めた吉蔵は、貯えもなく、新たな船を買えるだけの資金もなかったが、今更漁師に戻りたいとも考えてはいなかった。
だとすると彼はどのようにその後の生き方を模索しようとしていたのか、それは他人には知る由もなかった。
彼は彼なりにそう長くはない自分の残された時間を未来の子供たちに捧げたいと考えていた。それは漠然とした未来の子供ではなく、あの時見たあの子らのことであった。いまだに吉蔵にとってもよく理二つの情景を同時に見ていた気がした。しかし彼なりに思考し続けた。
何も結論付けて結果を見ているのではなく、それが何なのかを自分の選んだ選択の道の行きつくところだと考えていた。
彼は、手始めに近くにある森に入って、袋に持ってきたヒマワリの種を手のひらにおいて来る日も来る日も動物が来るのを待ち続けることにした。それはあの時目にした子供らの野鳥と戯れていた光景を自らでも体験してみたかったからであった。
しかし一向に寄ってきたのは蚊くらいなもんで、スズメすら近寄ることはなかった。あの時見たあの子らの光景が何だったのか、まるで野鳥が友達のように戯れ、あどけなくも無邪気な姿が目に浮かんでは消えていった。
自分がどんなに我慢して蚊に刺されても我慢して息を潜めてじっと静かに座りこんでいても何一つ近寄りことがなかったのに、あの子らがまるで森の妖精のように遊ぶ姿が再現できないことに一定の憤りを抑えることができずにいた。
それは、焦れば焦るほどその野心を察知したのか手の平のヒマワリの種は、一粒たりともなくなることはなかった。以前動物園のおりの中にいたオオムやインコなら我先に飛びついてき来た記憶が甦ってきていただけに、腹立たしさを抑えることができなかった。
さすがの吉蔵も無念にも諦めるしかなかった。そして森を去った。
次に吉蔵の考えたのがシマリスをおびき寄せるためのエサ箱の設置であった。家で俄かに作った簡単なただの箱であったが、やはり人の気配があってはとエサを山盛りおいて帰っていった。そして様子を見に三日と空けずにエサが減っているかと見に行ったが山盛りのエサ箱のエサは何一つ変わった様子はなかった。そのうち雨が降るたびにそのエサは水浸しになり、挙句の果てがカビが引いて一面カビに覆われて動物だってそれを食べに来るはずもなかった。
根気強い吉蔵もさすがに嫌気がさして、根負けしたと見えて草むらに寝っ転がってふて寝する日々が続いた。
ある日、いつものように草むらで転寝をしていると、何やら自分の鼻先をかじる何かに飛び起きた。なんとどんなにエサを置いておいても見向きもしなかったシマリスが、無防備にふて寝している自分の鼻先を突っつきに来たのである。
さぞや、疲れてすっかり寝入っていたせいなのか、そこいらの倒木とでも思ったに違いないと思うしかなかった。そして半ば諦めかけて翌日もふて寝していると、証拠にもなく顔の上にのせていた陽除けの麦わら帽子を何やら突っついて引きずり降ろそうとしている何ものかがいた。
それは昨日鼻をかじりに来たリスに違いなかった。吉蔵は思った、俺のことをようやく気に入ってくれたみたいなのかな。少なくとも害はなさそうな存在なんだなぁと認識してくれたのかもしれないと。
いやそれ以上にリスにとってもすごく勇気を振り絞っての挨拶であり、最大限の思いを伝えるためのアクションだったのかもしれない。そりゃそうだろう、得体の知れぬ奴が自分たちの縄張りにずかずかと入り込んで、まるで自分のうちのように寝そべってるのだから、誰だって警戒もするし、気味悪がるのも当然のことだったろうと勝手に推測していた。しかしその開き直って諦めて寝そべっていてようやく相手から挨拶に来てくれたのだからそんな有難いことはなく、ようやく仲間入りが許された瞬間だったのかもしれなかった。
そして、無防備でありすべての野心が拭い去られて初めて、人の気配ではなく自然の一部になりかけた瞬間だったのかもしれないと勝手に自分を納得させていた。
仲間になろう、触れ合おうとする気配が逆に彼らに警戒心を煽るだけのことになっていて、彼らを遠ざけていたことに気づいた。
究極の生き方
それからというもの吉蔵は意気込んで無理に野生動物に餌付けしてやろうとか動物たちに何とか認めてもらって仲良くしてもらいたいなどというゲスな考えを持つことはなくなった。
あくまでも自然体になっていた。
”なるようになるさ”
”すべてを時の流れに身を委ねていればそれが一番”だと
悟るようになっていた。その肩の力が一気に抜けると気分もこんな楽なことはなく、「無理はしない」という極意を彼はひとりでに身に着けたようであった。
彼は、奥さんが家を去ってからというもの、ろくに家に帰ることもなくなっていた。
そして彼はあれ以来仕事もしないもんだからお金も一文無しになっていた。しかし彼はいい意味で無頓着になっていた。お金のないことを不思議と気にはしてはいなかった。
それは腹が減ったら、そこいらの山菜や野草をかじっていたら空腹を感じることもなかったし、浜辺に降りれば打ち上げらえた昆布を咥えていればそれでよかったし、腹が減ったらいざとなりゃ小魚を釣ってきさえすれば、少なくとも食うに困ることはなかったから、空腹ですぐに飢え死にしてしまうという不安は全くなく、まずがそれでいいかと思っていた。
なので現金収入がないから困ったということは全く彼の暮らしぶりからは生まれることはなかった。
彼はそのうちほとんど家に立ち寄ることもなく、森の中で雨露を凌ぐだけの小枝を拾い集めただけの小屋を作り、そこで暮らすようになっていた。そうしているだけで何の不自由も感じることもなく、煩わしい隣近所の小言に気を取られることもなかったので、かえって彼にとっては寧ろこの方が居心地がよく、快適にさえ感じていた。すなわち無理に社会の常識、秩序は彼にとっては何ら必要なかっらし、寧ろそれに捉われずに生きることの方が、どれだけ人間らしく生きる生き方なのかと言いたげでもあった。
それ以上に森の中では徐々に気を許してくれる仲間が増えてきたことが彼にとって何よりもの楽しみになっていた。別にそうしようとしてそうなったわけではなかったが、自然と自分のことを受け入れてくれる森の仲間が増え、近寄ってくれるようになったことがこの上もなく嬉しく感じていたし、それこそが彼にとってのこの上もない至極の時でもあった。
それから考えると人間社会とはなんとも煩わしいものであり、人に気兼ねして生きていかねばらないし、いちいち人に振り回され、否が応でも命令に従い、相手の顔色を窺って諂って生きていかねばならない社会を彼は既に卒業していたのかもしれない。世にいう”世捨て人”になっていたのかもしれない。
彼は気づいていた。人が一生懸命働くのは少なくともお金を稼ぐためだろう。しかし彼はお金のいらない暮らしをしていたので、金を稼ぐために自分の時間を使う必要がないということを知り、彼はそのお金社会の束縛から解放されることこそが彼にとって一番の究極の選択だった。
お金の要らない暮しは、決してひもじいものでもなければ、貧しいものでもなく、寧ろ心は今までの暮らしよりもはるかに豊かになるような気がしていた。
人間は幾ばくかのお金を稼ぎ出すためだけにいくつもの大切なことを犠牲にしてきた気がしていた。
先ず第一の犠牲はなんといっても自分の貴重な時間であろう。
仕事という社会的行為によって、人は自己を肯定して生きている。逆に仕事もせずにぶらぶらしていると、他人から冷たい目で見られるし、いいことを言われることはまずない。非難されることはかっても褒められることはまずない。だから現代人は仕事に没頭していると自分自身を納得させることが出来るし、お金を稼ぎ出すと常により欲も膨らんで来て、人から褒められるともって偉くなりたくなるものだ。それが人間の性だとするならばそれを全面否定するつもりは彼にはなかったが、そんな無駄な欲を出さなければ、自然からに恵みだけでなんの不自由なく暮らしても行けるし、別にレストラン行ってビーフステーキを食べなくとも、アジの開きで十分に満足できたし、季節の旬の味こそが何よりだし、第一一番の調味料は気持ちいい空気と安らぎがあれば、それ以上の味付けは要らないと思っていた。
第一、最近よく見かねる野生生物を観察しているとリス以外は大抵の時間はゴロゴロ寝ているし、暑ければ無駄に動こうともしなかった。彼らの行動と共に生きていると、何も無理に頑張る必要なんかなにもないという気持ちになるのも無理はない。そうやっていても十分自然の恵みさえあれば動物であろうと人間であろうと生きていけると確信していた。
しかし、どうどういうわけだかリスだけは例外であった。彼女らは四六時中口をもぐもぐさせて木の実を口いっぱいにほおばって、巣穴に持ち帰りせっせと運んでいた。
そして挙句の果てが、自分で保存しておいたはずの保存庫のあり場所を忘れる有様であり、それはそれで滑稽な生き方であったが。
思わぬ来訪者の登場
そんな吉蔵のところに予想もしていなかった訪問客が現れた。
それは、普段ほとんど人が踏み入れることのない深い森の中であったが、夏休みで昆虫採集にでもやてきたのであろうか数人の子供たちが森の中にやってきた。
しかし、子供らの本当の目的は島で巷で噂になっていた”森の奥に仙人がいる”という話を聞きつけて、みんなで肝試しがてら怖いもの見たさの物見遊山であった。子供らは胸をドキドキさせながら恐る恐る森の奥に分け行っていた。しかし徐々に道は獣道のようになり、そのうち子供の背丈を超えるほどの藪わらになってしまい、子供たちの行く手を阻んだ。子供たちもこれより先にいくら仙人といえどもいるまいと思い引き返そうとした途端、森の高いところからけたたましい警戒発令とでも言おうか大きな野鳥の声が鳴り響いた。子供たちはいよいよ薄気味悪い空気に包まれた鬱蒼とした森の中で立ちすくんでした。
「だれだよ、仙人がいるだとか、見に行ってみようといいだしたのは?」
「おめぇだんべ、変なじじいがいるから見に行くべっていったのは!」
「もらもうげんかいだ、早くかるべぇ~」
と悲鳴ににも似たか細い声で泣きそうになりながら退散しようとしたその時、吉蔵はその子らに気が付いた。
「こんなところで、おめぇらなんしてる」
「しかし、まぁよっきたな。せっかく来たんだ、ゆっくりしていけ」
「おらの仲間をしょうかいしてやるから」
と吉蔵子供たちに声をかけた。
しかし子供たちは最初、まさかこんな森の奥に人がいるなんて思いもよらなかったのか驚いた様子で
「本当にいた!仙人様が本当にいたんだ!!」
「えれぇこだんべ、早くずらかろうぜ、うかうかしていると呪文でもかけられて引き寄せられたら大変なことになるぜ、早くしろ。」
「帰るぞ、帰るぞ!早くしろ)
と一目散に逃げかえろうとしたとき、一人の子が言った。
「ねえぇ、みてみろ。あのじっさんの頭にリスがのっかってでねぇか?」
「凄くねぇ~」
「すげぇ、すげぇ」
子供たちはあっけにとられていた。
島といえども街にしか住んでいない子供にとっては、リスを見かけることも滅多になければ、ましてや大人の頭の上をまるで遊び場のように駆けずり回っているのを見て、驚かずにはいられなかった。
「おったまげた~、すげぇや。りゃほんものの仙人様じゃ~」
とあっけにとられた彼らは、今更怖気づいて引き返すどころではなく、まさしく魔法をかけられたように吸い付けられるように吉蔵の方に近寄って行った。
「なんもおらを怖がることはない。」
「取って食おうとなど考えてもいねぇから、こっちさこってこ」
と吉蔵は思わぬ訪問者を自分の世界に招き入れた。
恐る恐る近寄ってきた子供たちではあったが、瞬間にしてその恐怖心は吹っ飛んで
好奇心の塊にあり、やがてはその世界に虜になるのにあまり時間は要しなかった。
「仙人様、仙人様はどうしてこんな可愛い動物たちとこんなにも仲良くなれるの」
「おらにもやらせてよ‼」
とせがむ子供らを吉蔵は無下にしようとはしなかったが、無下にしたのは動物たちや小鳥たちの方であった。騒がしい子供らが近寄ると途端に彼らを恐れてか、今までそこいらを走り回っていた動物たちは見事に森の奥に逃げ帰ってしまった。
「仙人様、みないなくなってしまったべさ」
「おらもあの子らとあそびたいよ~」
「おねげぇだから、仙人様の魔力であの子らをもう一度呼び寄せていただけませんか?」
と嘆願されたが吉蔵はぽつりと一言言って、草むらの上に寝そべってしまった。
「おりゃ、仙人でもなんでもねぇ。ただのかわりもんだ」
「けど、おらぁ魔力なんざつけぇねえけんど、あ奴らとの挨拶の仕方は知っとる」
「おめぇらも、仲間にいれてもらおうとすらぇ、その挨拶さ、覚えてからまたくりゃいい」
と言い残して吉蔵はまたも眠りについた。
子供たちもなんやかんやへんなじいさんに言われてみても、それよりも何よりもあの子らと遊べるのが先だと思って皆で相談した。
「挨拶ってなんだべさ。」
「動物に向かって、『お早う』でも『初めまして、どうぞよろしくお願いいたします。』でもねぇよなぁ?」と独り言を言いながら、家路を急いだ。もうとっぷりと陽が沈み辺りはすっかり暗くなっていた。
「かあちゃん、かあちゃん、大変だよ!森の中に仙人様がいたんだ」
「妖術を使って、野生のリスや鳥たちを操ってたんだぜ、すぎくねぇかい」
帰ってくるなり、わけもわからず息子が血相を変えて家に飛び込んできた。
「なにねぼけたこといってるんだぃ、そんなことはどうでもいいけんどその泥まみれの服を脱いで早く手を洗って、ご飯にするよ」
「汚ねぇから先に風呂に入って、その汚い身体を洗ってからにした方がよさそうだよね」
「とっととひとっ風呂入って、おまんまにしなぁ」と息子は母親に軽くあしらわれた。
「ねぇ、母ちゃん、本当なんだって。聞いてよ、聞いてよ」
と駄々を捏ねる息子をしり目に、母親はまたも畑の方に向かって出て行ってしまった。
翌朝、さらに父親を捕まえ出かけるまでに昨日のことを話し出した。
「父ちゃん父ちゃん、すごいんだぜ。昨日さ、森の方に遊びにいったらさ、仙人様に会ったんだよ。すごいべぇ」
と母親に取り入ってもらえなかったもんだから、今度は足早に漁に出かける前にと父親に誇らしげに話をしてみた。
すると父親は、
「そんな危ねぇところにいくんでねぇ、人攫い人攫いにでもあったらどうするつもりなんだ!」
「もう絶対にいくでえぞ、そったな危ねぇところには絶対にいちゃなんねぇからな」
と父親にも相手にされることはなかった。