衝撃そして気づきの時
それは、突然の出来事であった。
何の前触れもなく、今まで何事もなかったように、そこに存在していたすべてのものを破壊し、飲み込み、遠く海の底に引きずり込んでいったのだった。そしてそれは一瞬のうちにすべてを日常から奪い去っていった。しかしそれはただ破壊、破滅だったのではなく、大いなる再生への第一歩だったのかもしれない。
しかし、それを気づくには少々の時間を要することとなった。俺はその甚大な被害の痛手から立ち直るために時間がかかったことと、もう一つの障壁が元の日常を一日でも早く取り戻したいという切なる願いが改革を拒み続ける。
予期せぬ出来事に
それは三陸沿岸全域に突然襲い掛かってきた出来事である。
宮城県沖の日本海溝で発生した大地震は、激しい揺れが北は青森から南は千葉、東京、神奈川に至る大きな範囲で強い揺れを引き起こした。激しい揺れは日本列島の約東半分全土に広がっていった。
宮城県沖地震はM8、最大震度7強というとてつもない大地震が日本海溝に沿って、次々と震源地を変えながら連続的に発生した、まるで時限爆弾のように。
しかしその日常は明らかに普通の日常ではなく、海に住む人々にとって一種異常なほどの静寂であり、まさしく嵐の前の静けさだとだれしもが察しし始めていた。しかしそのただ事ならぬ不安も時間と共に薄れ始め、気が緩み、安堵し始めた人々の目の前に驚愕の情景を繰り広げることとなった。地響きにも似た海鳴り、海の底が見えるほどの異常なまでの引き潮、まさしくその異常な光景は時を止めるように静まり返った。その静寂の後から誰もが経験したことのない現象をもたらすことになるとは想像もしてはいなかった。
その発生から早いところで40分後、大津波が陸地に到達した。
その後東日本全域を飲み込むように岩手県の最北の地から端を発した大津波の被害は、その後南に南にと連鎖させて、やがてその強い揺れが収まり、またも何事もなかったように街に静寂が戻り、束の間日常が戻ってきた。北は青森、下北半島から南は千葉の房総半島に至る南北全長700kmに及ぶ広範囲に大津波が襲い掛かったのだ。
そして、次から次と繰り返しながら街をも見込み、船を陸に投げだし、自動車を押し流していった。
しかし、その大津波が襲来したのには、何の前触れもなかったわけではなかった。海と共に暮らし、毎日海を眺め、海を見ながら生きてきた島の人々にとって、沖にいつも見慣れた無人島が異様なまでにその姿がまるで山にように見えたという人もいた。時ならぬ異変はほとんど皆が想像もできないことが起こることを察知していた。
緊急防災放送が流れる前からただならぬ事態に直面し、ただならぬことがこれから起こることを知っていた。ある者は急いで船を沖に出した。あるものは急いで貴重品だけもって着の身着のままに高台めがけて走った。何かただならぬ何かが起こると直感で知っていた。それは日ごろから海と暮らし、海を眺めて暮らしてきた海の民ならではの知恵でもあった。
吉蔵の家も父の建てた家だったので、いつも船で漁に出かなるのに楽なように小さな漁港のすぐ島に立っていた。そこには家族4人が慎ましやかに暮らしていた。決してぜいたくな暮らしができるほどのものではなかったが、家族が暮らす分にはさほどの蓄えこそなかったが、その日を暮らしていくには不自由はなかった。しかし日々の苦労が祟ったからか、母はいつも病気がちであり、その後床に就くことが多くなっていた。
また、吉蔵も姉妙子も幼少期は他の子供たちから比べると虚弱な体質でり、遺伝的要素もそこに手伝っていたのかも入れない。そして病で床に付きがちな母親の変わりは常に姉の役目であり、朝早くに父親が出かねるのを見送り、朝ごはんの支度も終わるか終わらない頃には、衣服を洗濯し、朝学校に出かけて、帰るとすぐに洗濯物のかたずけ、夕食の準備、あとかたずけと寝る暇も惜しんで働き、それが一段落してkr自分の学校の勉強をする暮らしになっていった。
父親は、もともと腕のいい漁師であり、誰しもが一目置く存在であったが、妻米子の病気の介護に手が取られ始めるようになると、絶好の漁日和でも日長米子の看病にあたる日が続いていった。
そして、いつしかゴロゴロとふてくされた父親は、やがて漁に出ることも少なくなり、昼間から酒を煽るようになっていた。贅沢こそできなくとも和やかな暮らしをしていた家族団らんの日々もあまり長く続くことはなく、いよいよ姉妙子は学校を辞めることになり、病弱な母親の面倒、飲んだくれの父親、そして食べ盛りの弟の面倒を見る傍ら、浜に打ち上げられた昆布を干して生計に足しにしなくてはならない暮らしを強いられていった。
「父ちゃん、いい加減にしてよね。いつまでこんな暮らししているつもり?これじゃ私の人生台無しよ。どうしてくれるの。」
といつも穏やかな妙子がついにぶち切れて、家を飛び出してしまった。
その後の便り一つ妙子からくることはなかった。
吉蔵は、病弱な母と飲んだくれの父の面倒を一気に自分一人で見る羽目になってしまい、ただただ茫然としていた。自分自身もそういっても子供のころから身体が丈夫なわけでもなく、どちらかというとひ弱な人間であった彼が、急に二人の面倒を見ながら生計を立てていくことはすぐに無理だと察した。
しかし、姉のいなくなったこの家ですでにこの家族を支えて切り盛りしていかねばならないのは自分自身だということも明白であり、明日からどうやって生活していきゃいいんだと立ち尽くすだけだった。
「姉ちゃんは勝手だよね。嫌になれば出来てけばそれまでだもんな。残ったおればどうなるんだよ?」とブツブツと目に前の両親を前にして、口に出すわけにもいかずただただ海に向かってつぶやくしか手はなかった。
しかし、いつまでもそうも言ってはいられなかった。今夜の晩御飯すら誰も作ってくれるわけでもなく、晩御飯の支度自身がまずの直面した大きな問題であった。吉蔵は仕方なく、炊いたことないご飯をかまどで炊くしかなかった。
「ご飯なんて、炊いたことないよ。」
「第一、米はどこにあるのかもわかんねぇし、かまどに火をつけて炊くなんて、今時おれんちだけじゃねぇか?」
と一人ぶつぶつ言いながらもやるしか方法はなかった。
「親父も少しは手伝えよな!」
と怒鳴ったところで、そんなことを耳も傾けず松一はうとうとと焼酎を煽りながらい眠っていた。
彼に残されたのは、親父が漁に出なくなって使わなくなった古びた船が一隻だけ。
まだまだ独り立ちできるだけの経験もなければ、第一”突きん棒漁”は船頭と船の先に突き出たところから槍を投げる二人三脚の漁で、親父がいなくては漁もできない漁法であった。
やむなく、彼は一人でもコツコツできるアワビやウニを獲ることにした。しかし近年漁獲量が激減してきて、漁のできる期間がごく短期間に限定されるようになり思うように漁ができずにいたので、っ仕方なく、今までも気にはなっていた浜辺の打ち上げられた膨大な漂流ごみを集めることにしていた。
変わり者と呼ばれた
どこから流れ着いてきたのかペットボトルや発泡スチロール、缶ビールやビニールごみ。それはそれは様々なものが打ち上げられていた。拾っても拾ってもきりがなく、前日の夕方まで拾い集めてようやくと思っていても、翌朝にはまた元の木阿弥のように次から次と外国の言葉で印刷されたごみ、近くのスーパーでもらってきたであろうレジ袋など無尽蔵に打ち上げられてきて、その作業はまるで終わりにない作業であった。
漂流ごみを拾い集めたとて、決してお金がもらえるわけでもなく生活が楽になるわけでわけでもなかった。
周りの漁師仲間からはいつしか”変り者”扱いになっていった。いつしか吉蔵のことを人は「浜吉」と呼ぼようになっていた。漁にも出ないでいつも浜でぶらぶらしているだけのキチガイだという意味に彼を卑下するようになっていった。
しかし吉蔵にしてみれば、誰に何を言われようがそんなこと構うことはなかった。言いたい奴には言わしとけと言わんばかりに、彼も他の漁師仲間と話することも接することもなくなっていった。
そうなるとその”変わり者”の異名は見る見る間に島中に広がり、いつしか”危ない奴””おかしくなった奴”というレッテルが張られるようになっていった。
確かにろくに漁にも出なければ、仲間から養殖をしたらと進められても一切その誘いに応えることもなく、まともな収入も得ることができない上に、病気の母親、飲んだくれの父親の面倒を見ていては、まともに漁に出ることすらできないと言えばまさしくその通りであり、吉蔵にとっても年老いた両親を見捨てるわけにもいかず、どうしようもなくなっていたのであった。