男の胸に炎を燃え上がらせた世界
世の中は常に留まることを知らず流れ続けている、川のせせらぎのように絶えることなく。
何も変わっていくことが悪いといっているわけではない。しかし要はその流れがどこに向かっているかである。
しかし時として、知らず知らずのうちにそのみお筋は、意図するしないに関わらず思わぬ方向に徐々に向きを変えていくものだ。それは自然と低い方に、容易い方に導かれるように変わっていく。
とんでもないところに行き着くまで、ただひたすら流れに任せていると後悔しても、もうすでに後戻りのできないところまで行き着くところまで流れていく。
無駄だと思っていても、自らがその激流に身を投じて流れを変えられるとしたとき、自分を信じたとき、流れはきっと変わる。そして動かぬ岩もそれがきっかけで動き出す、必ず動くと信念をもって事に臨めば。
小さな葬列に晴れ晴れとした笑顔がそこに
それはなんとも穏やかな見るからに心安らぐ紺碧の大海原であった。
遠くにはかもめが数羽そよ風に煽られるように気ままに大空を飛び交い、青い海のその上には白うさぎが跳ねるように白波はその波間に姿を覗かしては消え、春に陽ざしが優しく頬に差し込むそんな昼下がりであった。
思わずあまりの心地よさに時の流れるのも忘れてしまいそうなのんびりとした昼下がりのひと時であった。
都会の喧騒がまるで嘘のようであり、そこはまさしく極楽浄土のようにその場所がある種異次元の世界であること証であるかのような空気に包まれていた。
そんな穏やかな空気に包困れるようにわずか数人が列を成して、大きな枝ぶりの木の下を通り過ぎて行った。その列の先頭には黒のリボンで飾らた遺影を抱えた初老の男が歩いていて、その列が葬列であることは誰の目にもすぐにわかった。
その写真に写る故人の顔はいかにもその場に参列した人々を思わず和ませてくれるような素敵な笑みを浮かべ、また角度を変えれば、まるで子供が遠足を前にして旅行を楽しみにしているかのような無邪気であどけなさすら感じ取れる写真の顔で、明らかにそれは些か年老いたしわまみれの白髪のよぼよぼの老人の顔ではなかった。その遺影に移る眼差しはまさしく額縁の中で光り輝いて見えた。そう見えるのは私だけなんだろうか?
何か満足気でもあり、また「人生に悔いなし」と言わんばかりの誇らしさすら感じ取れ、そう見えたのは果たしてなぜなのだろうか。
きっと生前を彼の生きざまを知るものからしてみれば、その生涯は決して幸運と呼べる人生でもなけれた、寧ろ悲運の積み重ねだったはずなのに、なぜこんなにも清々しく心の底から蔓延の笑みを浮かべているのか葬列の人々にしてみれば不思議がるばかりであった。
生前その時までは、島のほとんど皆といっていいほどの人々が、彼の笑ったところを目にしたものがいなかったといっていいほどの不愛想でぶっきら坊、人付き合いはほとんどなく、因業の上に強欲、傲慢で他人の意見を聞き入れるということのまずない超一級品の頑固者のぶ男であった。
故人は生前から普段ほぼ一人でいることの多かった。この小さな島の場合、ほとんどすべての島民が顔見知りのようなもので皆が親戚のよなものあったが、その老人はいざ他人が死んだからといっても義理にも葬式に出向くこともなく、そのせいもあってか、彼の葬列もまた僅かな数人の近親者のみで執り行われたので、その列の参列者は極端に短く、花輪の一つもなければ、お坊さんもいなくそれはそれで寂しいものであった。
しかし、故人にしてみるとその葬列の参列した人の顔ぶれや参列者の数などはどうでもよく、故人にとっては、青い海を見ながら逝くことだけで満足だったろう。そして彼は彼なりに肩の荷が下りた思いだっただろうと思わざるを得ないほど清々しい空気が漂っていたのはやはり不可解である。
それこそが彼が長きにわたってのこの島への熱い思いであり、この青く広がる海こそが彼の生きざまそのものであったのだのかもしれない。
今はもう、その老人のことを知る者も語り継ぐ者もはこの世にほとんどいない。
しかし彼の想いと夢は、時空を超えてしっかりとこれからを生きる人々に大いなる夢と希望を抱かしてくれることとなったのである。
初めて感じた衝撃
老人のことを知る人によると、彼は地元の水産専門学校に通っていたが、ある日突然、何気なくつけたテレビで東日本大学構内で過激派学生が校内を占拠して、道路では火炎瓶を機動隊に投げつけ、角棒にヘルメット姿の学生たちのシュプレヒコールの姿を目にしたときに、彼はその瞬間、未だかつて感じたことのない激しい衝撃をうけ、心が揺さぶられるほどの動揺が体中に走った。
彼は頭が錯乱する思いで、翌日は学校に行くこともなく、自分の部屋にこもるしかなかった。そしていつもなら矢の一番に膳について大飯ぐらいの若者が一切食事を摂ることもなく、三日三晩くらい部屋に閉じこもって一心不乱に考え続けた。
そして翌朝、彼のとった行動はそのまま仙石線の汽車に飛び乗り、仙台駅を降り立つや否や、そこはもはや大都会ではなく、彼の目に入った情景はまさしくそこは戦場そのものであり、駅前から青葉通りにかけて、うねり回り行進を続ける学生たちのシュプレヒコールの波に引き込まれるが如く、その若者は何が起こっているかもわからぬままに、その列の中に吸い込まれるようにシュプレヒコールの中にいた。そしていつの間にか隣同士の学生たちとわけもわからずにスクラムを組んでいたという。
まるではしかにかかったように身体が真っ赤になるほどに熱々に燃え滾っていた。
今まで、島の暮らししか知らない若き青年にとって、その時に身体全身に駆け巡った電撃的な刺激、自らの身体に沸き立つ躍動感が何だったのか自らでも消化することができずにいたのに、自らの身体は自分の意志の支配下から解放され、自然と熱き血潮に身を任せて動き出すここととなっていった。
しかし明らかに自分以上に自分の腕を組む者たちには、それ以上に自分にはない熱く燃え滾る何かがあり、それに向かって身体全身を使って行動に移していることだけは感じ取ることができ、ありありとその情念にも似た意志と荒々しい息遣いを感じ取ることによりことの重大さを肌で感じ取れ、理屈を抜きにしてもやらねばならない時にはやるしかないことがあることだけはその若者にでもわかったのだろう。
訳も分からず何も意味も理解のできぬ若者が、この血潮がどこから湧き出してくるのかもわからないままに、身体全体から漲ってきて、身体が自然とその長く永遠に続くシュプレヒコールとけたたましい罵声と爆音、怒涛のような地響きと訴え続けるガラガラ声の中に吸い込まれていくことが、もはややけに”自分は今生きているんだ”という実感を感じずにはいられなかった。
そしてそのシュプレヒコールは、日が暮れるまでいや夜になっても永遠と続いた。
そしてその後その列がいつしか崩れて消えていくのを見届けて、彼は急いで家路についた。
彼はその時決意した。何が何でも東日本大学に進もうと。
水産専門学校を卒業したら、彼らと共の学び、彼らと共に行動して、深くあの時のの衝撃がどこなら湧いてきたのかを突き詰めるため、この世界観をもっと知りたいと純心な心で学生生活にあこがれを持つようになっていた。
今まで、世間知らずというよりも何につけ、冷めた目で無関心だった彼が、生まれて初めて生きるということに向かい合い、その意味を自分自身に問いかけた瞬間であり、このために今、自分はここに存在しているという実存と対峙し、それを裏付ける信念を抱きたいと切望するようになっていた。
そして、当時1960年はその学生紛争の絶頂期であり、70年安保は彼のいや世の中の全ての人の心に火をつけたと云っても過言ではない。しかしそれは学生たちにとっても最高に自分を鼓舞する瞬間であったと同時に機動隊の放ったいくつもの崔流ガス弾の煙に飲まれ、ハチの巣を突っついたようにシュプレヒコールの列は崩れ去り、それこそが間もなく訪れる全共闘の闘争の終焉を迎えるプロローグでもあった。
終焉そして始まり
その後若き青年吉蔵も、その動乱の終焉とともに喪失感に苛まれ燃え尽き症候群に陥って、無気力になって島に返ってきた。
時はマグロ遠洋漁業の最盛期でもあり、島に住むほとんどといっていいほどの若者はマグロ漁船に乗り込んで南太平洋、インド洋、アフリカ沖などの遠洋に駆り出されていった。
一度出港したら半年から長いときには丸一年は帰るか帰らないかという暮らしであったが、村下はその船に乗ることはなかった。島にこれといった高い給料がもらえる就職先があるわけでもなかったし、彼にとって行き場のない日々が続いた。しかしその当時の彼にはあの自由と理想を追い求めたシュプレヒコールの波に揉まれてスクラムを組んだあの時の躍動感と充足感とが遠洋漁業の船に閉じ込められて、自分自身が縛り付けられる暮らしが耐えられなかったのだった。
しかし、いつまでもプー太郎をやっているわけにもいかなかった。そのため父松一が所有していた沿岸漁業の小さな船舶で父親と一緒に昔からこの地方で営まれていた”突きん棒漁”で生計を立てていた。吉蔵はその船で見習いがてら助手をするようになっていた。そして望む望まないに関係なくいつしかいっぱしの島の漁師になっていた。
しかし向学心の旺盛な若者は、間もなく漁業を真剣に学ぶために、地元気仙沼の水産試験場を訪れていた。そこで知ったのは、小学校のころ三陸沿岸は世界三大漁場の一つであると教えられていたのにも関わらず、その三陸沿岸が今や深刻な”磯焼け現象”が起こってしまっているということであった。
つまり海全体が砂漠化してきているということである。今までに内モンゴル自治区が深刻な砂漠化で緑地が侵食されて、砂嵐に見舞われるということはなんとなく知っていたが、まさかその砂漠化が目の前の三陸の海で起こっているなどとは考えてもいない現象であった。それは海の生態系全体にも深刻な影響を与えていると水産試験場の研究員から聞いて大きなショックを受けた。
村下は、人当たりがよく穏やかだけだ取り柄の親父の手伝いをのんびりやっている場合でないことを察した。
吉蔵は”磯焼け現象”について船に乗って気仙沼図書館に通い詰めて、関係書籍を読み漁った。しかしどの本にもそれに至る原因を明確に記述しているものは何もなく、対処策としてアワビの稚貝の放流量を増やすとか養殖ワカメの密植栽培を避けるという程度しか本には記載がなかった。
そのほとんどが目先の対処療法に過ぎず、抜本的に何が原因なのかに言及した書籍に出会うことはなかった。
吉蔵ははふと考えた、何千年も続いた三陸沿岸に大きな異変が起こっていることを。明確に何がではなく直観として何かが起こっていることだけでもわかり始めていた。
しかし、それに対処する具体的な方策を思いつくだけの知識はほとんど持ち合わせてはおらず、それに関する知識は皆無であった。自分が通っていた水産高校でもそのような話は聞いたこともなければ、近代的漁法についてのみの授業ではそれを学べる要素はありえなかった。総合的な海洋環境について学ぶことは一切なかった。あったとしても親潮と黒潮がこの辺りでぶつかり合っているからさk名が一杯獲れるというくらいのものであった。しかしその対処策を見出すことはできなかったが、海洋環境はそうは丈夫なものではなく、何をやっても大抵はも見込んでくれると思い込んでいたがことのほか脆弱なことを初めてしることとなった。
その後彼は持ち前の執念と好奇心だけは人一倍あったので、あちこちかたっぱしから尋ね歩いていた。そしてそこで妙な気になる話を耳にした。
それが山にある保安林指定の一番最後の項に魚付き保安林なるものがあるということであった。彼は最初それを聞いた時、海と山に何の関係があるのか首を傾げた。しかしその疑問は思わぬところでヒントがあった。島の対岸の唐桑半島の湾でカキ養殖をしている漁師さんから”森は海の恋人”というスローガンで活動をしていることを知った。
吉蔵は、山の森林と海の生態系には密接な関係性があることを知った。
彼もこれからの漁業を営む上で海に生態系の再生のためにできることは、山の整備からかと知り、早速行動に移しだした。
島に密植状態の植えっぱなしの杉の木や松くい虫のやられた末を切り倒し、そこにドングリの苗を一本また一本と植え始めたのだった。その作業は、漁業の傍らだったが永遠と続いた。まさしく途方もない作業の繰り返しであった。
やがてそんな時にあの東日本大震災がやってきた。
そんな平穏なある日に驚愕の出来事が襲い掛かってきた。宮城県沖のM8クラスの大地震であった。それは何の前触れもなく、何の変哲もない日常を襲ったのである。
吉蔵は大津波に揉みこまれて船を守りに行った父を亡くした。そして亡くした父の代わりに年老いた母の面倒を見なくてはならなくなっていた。