其れは、悲しみの、始まり。6
カキュラム国王城・アザジンガルフ 近郊
アザジンガルフの王城を正面に、城下町一帯を眼下に一望に納める高台に一基の墓標が建つ。焼き払われた遺体の残りはそこになく、眠るは墓石に捧ぐ様に突き立てられた二振りの短剣。
建てられて四周季の時を数え、風雨に晒された短剣の色艶は鈍るが、その地から倒れることはない。
その墓標を前に片膝を付いてしゃがみ込む男が一人。どれほどの時間をそうしていたのかわからないが、真摯に対峙しているのが傍目にわかるほど鋭い眼差しをずっと向けていた。
墓碑の記銘は“ゼンリ・アゲイト”。その名は片膝を付く男ーーー破天将軍カイエン・パニッシュの半身とまで呼ばれた男の名であり、彼が心の底から親友と呼べた男の名である。
「……この状況……おまえが生きていたら、何て言ってたんだろうな」
『戦争なんかしてる暇あるならゼンリきゅんと遊びなさい!』
ふと漏らすように呟いた問いかけに対し、背後から即座に答えた声は二つ。異口同音に被さった声は声色を作ることなく淡々と述べられたが故に、振り返ることなくそれぞれ声の主の名を頭に浮かべる。
「……だよなぁ、そう言うよなぁ、あの犬」
はぁぁ、と長いため息を吐き出しながらすくっと立ち上がり、パパッと膝を払ってから振り返る。そこにいたのは想像通りの二人だった。
「そうそう。百歩譲ったとしても、ゼンが真面目な口振りをして戦争止める姿が浮かばねぇ」
向かって左側。赤……というよりは桃色に近い鮮やかな髪色が目を惹く男は、均整の取れた垢抜けた笑顔を見せる。
所作に気品があり、背も高くスラリと細身な体躯も、ひ弱さよりも鍛え抜かれた肉体を感じさせる力強さがある。身に付けている装束も見る者が見れば名のある職人の仕立てであることを窺わせる。
総じて二枚目と評するに難くない風貌だけあって、当人の浮き名はカキュラム国随一である。齢四十一を数えていながらまだまだお盛んで、その女癖の悪ささえ目を瞑れば、男としての売れ筋一等一番地と言えるだろう。
名をフィディニティー・アリクァル。名の長さから通称フィーと呼ばれる。十臣軍が一つ、威光軍筆頭・威光将軍の地位にあり、俺の兄貴分を自認する男である。
「……何なら『なーんで?どーして?』って首を左右に傾げるのを繰り返して、好戦派の主張を踏み潰しながら押し込めそうですらある」
その隣、俺から向かって右に位置する男もその意見に続いて唸る。
陽の光に照らされた銀髪は目に刺激を与えない程度に煌めき、臀部にまで届きそうなまでに長い。風に晒されようが水を被ろうが数回撫でればまとまり落ち着く髪質のため、異性にどんな手入れをしているのか質問攻めに合っている。特に何もしていないので答えようがない、と突っぱねているが。
フィーよりも縦にも横にも大きいガッシリとした体躯はまるで熊のようにも見えるが、顔のサイズからの対比のせいか鈍重さは感じられず。とはいえ190センチを超える大柄に、背負う愛用の大剣は同程度に長く、常人なれば両手でやっと持ち上げられる重さのそれを片手で扱う辺りは重量級の武人と評するに差し支えないだろう。
鋭い眼差しは猛禽類を思わせ、若い頃から不満げに曲げていた口元が癖となってか、不機嫌そうな表情を常にしているためあまり女性との浮いた話を聞かない。遠目から見る分には目の保養になる男振りではあるが、いざ近付こうと思うと低音の声色もあって強い圧を受けるのだろう。
名をイティイバ・シャークス。破天軍第三席・上級上位将軍“待遇”の地位にある男。第二席であったゼンリ亡き今、実質破天軍の二番手であり、俺の右腕を担っている。
一処に集まるには飾られた肩書きが重すぎる面々だが、墓に眠るゼンリを含めてここにいる三人はその肩書きがなかった頃も酒を片手に笑い合っていた仲だ。正確にはイティイバだけは後から知り合ったのだが、志と気心の知れ方は三人の絆に劣らない。
それだけに二人の語るゼンリ・アゲイト像は非常に解像度が高く、俺は自然と口端を持ち上げて小さく笑った。
「フィーは……というか、威光軍は動かないのか?こんなところで油売りに来るほど暇ではないだろう?」
「まぁな。だがまぁ後方支援っつーか輸送メインだし、ウチは下が優秀なもんでトップはだらだらと墓参りよ」
「アートラスクの旦那も気苦労なことだ」
フィーの答えを聞いて肩を竦めたのはイティイバだったが、俺もまた我が右腕の態度に同意する。威光軍第四席の男を脳裏に浮かべて同情の涙を禁じえない。どちらかというと笑いからくる涙だが。
「嘲笑うなよ、ウチの屋台骨だぞ?」
「人様の心を読むなよ、エロいぞ」
苦労を強いているヤツが何を言うやら、というフィーの発言にツッコんでおく。この男、生まれながらにして他人の心の声が聞こえるという、常人あらざる特技を持っている。本人曰く、意識的なオン・オフは出来ないし、他人との相性が合う合わないで聞こえる精度がだいぶ違うらしい。それでも人が多ければ多いだけの喧しさを感じ取るし、口を閉じてれば聞こえることのない喋りと違い、喜怒哀楽、不平不満や嫉妬や憎悪などの冥い感情も言葉として聞かされるのがしんどいとも言っていた。
やっぱり普通が一番だと言うことだ、うん。
「普通の人間が十臣軍統括になるかよ、人の形をした化け物がよ」
誰が化け物だ。むしるぞ、そのオシャレ三編みもみあげ。
「やめろ、俺のアイデンティティーをもぐな」
アイデンティティーって……あぁ、確かに。それがないとおまえだとわからんしな。
「いや他にもあるし。料理上手いし、気遣いパねぇじゃろがい。あと単純に類を見ないイケメンだろーが」
あとエロいな。とことんエロいよな、おまえ。そこはラティアくらいしか追随許してないよな。
「イティ、おまえの上官が俺をイジメるんだが、副官として謝罪して貰えんか?」
「いや、置いてけぼりなんだが?俺の上官殿、ラクして喋らんもんで話に付いていけてないんだが?」
「あぁ、すまん。こいつが居るとすぐ思考で応対してしまう」
助け舟を求める……というよりイティイバも交えて話の流れを切り替えようとするフィー。過去に何回か見たことのある流れだからかイティイバもイティイバで肩を竦めながら嘆息一つ吐いた。
「まぁ見てる限り、いつも通りのやり取りで安心するがな」
半分呆れるように笑いながら呟いたイティイバに、フィーも頷く。二人だけで意味ありげな頷きを見せたことに少し疑問を浮かべるが、それを口に出す前になんとなく察した。
「……結局、どうすんだカイエン?」
やや間を置いて、砕けた空気を引き締めるようにトーンを落とした声で尋ねてくるフィー。どうする、とは今回の戦に置ける破天軍の立ち位置について、だ。
フォントの説得に失敗したのは威光軍に軍令が降ったことで理解しているだろう。また破天軍の結集が終わってない中、破狼軍、破虎軍が先発し、威天軍、威龍軍、威狼軍が出陣準備。破龍軍、威虎軍が後詰の後発を担い、破光軍、威光軍が補給の支援を要請されているとなれば、フォントの判断がどこにあるか、情報精査の達人たるフィーでなくても朧気に見えようものである。
その上で問うのは俺の迷いを察しているからだ。
無論、今回の戦を是とするつもりはない。だからといって動かない選択を取るのは、将軍として覚悟の上で兵を率い、武人として覚悟の上で研鑽を積んできた者として正しいとは思えない。
十臣軍はそれぞれの軍閥を率いる権限を、その大将に一任されている。しかしそれは飽くまで“国家の指針に沿うことが前提で”だ。
ここで従わないことは正義なのか?
ここで動かないことが正道なのか?
フォントとの個人的な繋がりから、俺の裁量は委ねられている。とはいえ、その下にいる破天軍の兵はどうなる?今後、国内での立ち居振る舞いにどう影響が出るだろうか?
戦を起こす、と宣言を受けたその日から今日まで幾重に悩み考えてきた問いは、未だに定まってはいない。
「……ゼンの仇討ち」
答えに窮す形で押し黙っていると、ポツリとフィーが呟く。
「正直、俺にその感情がないわけじゃない。四周季前、ゼンを殺したのはシルタンス国だ」
フィーの言葉に目を伏せる。俺の背にある墓。そこに刺さる二振りの短剣の持ち主は、国境の小競り合いが加熱した際に命を落とした。
「このエロい男にはその恨みが確実にある。むしろ果たせるなら理由など別にどうとでも付けて攻め込みゃ良いと思ってるぐらいだよ」
多少戯けるつもりで挟んだであろう自称も、滲む怒気を薄める作用はほとんどなく、口元の余裕ある笑みも、瞳の感情がそれに付いていかないことで逆しまな意味を含んでいるのがハッキリと見て取れる。
「だが、俺は本当の意味で復讐を叫んで良い人間だとは思っちゃいない。友誼はあった。敬愛もした。喧嘩もしたし、深く膝を突き合わせもした。……でも、その程度じゃおまえさんの絆には敵わない。それはゼンリ・アゲイトを、そしてカイエン・パニッシュを知る者全てが認める事実だ」
腕を組み、哀しげにも寂しげにも見える眼差しを俺に向ける。聞いてる俺の方がその眼差しを直視するのを躊躇うのは、彼の独白するところの意味を理解しているからだ。
「俺は、おまえにも怒って欲しいんだよ。俺以上に煮えくり返っているはずの怒りを、せめて俺と同じレベルで良いから発露して欲しいんだよ!アイツの意志がどうこうじゃなくて、おまえの意志としての怒りを以て立ち上がって欲しいんだよ!」
語気を荒げるその姿は、およそいつものフィーには見られない感情の爆発である。そしてそれこそが、彼の本心なのだと理解させられる。
「……あの馬鹿犬は愛されすぎてんだ」
フィーの言葉に一区切りついたのを察してから口を開き始めるイティイバ。
「他人にいちいち興味を持ち、好悪得手不得手ののべつ幕なし。懐けるだけ懐くし、付き合わせるだけ付き合わせて、いつの間にか他人の心ん中に住み着きやがる。だのに、下手打ってぽっくりお亡くなり、だ」
胸に拳を作ってトントンと叩いてから、呆れるように手を開いて投げ打つ。何も握られていないはずの手から零れ落ちたものは述べるまでもない。
「心の中に空いた穴の軽重の差異に関わらず、俺たちは奪われたんだ。馬鹿犬の存在を」
そこで一回深呼吸するように間を置く。声が震え出しそうになるのを堪えた様から、彼の空いた穴の大きさを窺わせる。
「奪われたモノを奪い返す。取り戻せないなら同じ痛みを。その想いは痛いほどわかるし、俺だって思わないではない。あいつは多くの民衆に愛されすぎたからこそ、今に至るわけだ」
その溢れた想いの結集がフォントをしてこの決断に至らせた。イティイバの意見は起こすべからざる戦争の核心を正しく捉えている。
「だが、俺は怒りに振り切れないカイエンの気持ちもわかる側なんだよな」
言いながら項を掻く。戦争賛成派の意見に同調する発言からのそれは、どういう意味を含んだ反語表現なのかはここにいる二人にはわかっていた。
「俺らは、アイツを死なせてしまったっていう罪の意識があるからな」
イティイバの言葉は心を読めるフィーにとっては知らぬではない事実。だがそれをハッキリと言葉として口にするということは、自覚し、向き合うことから逃げないことの証左である。
ゼンリが何故国境の小競り合いに赴いたのか、という点。
それは俺が身動き取れない状況にあり、軍を割いて委任したから。そしてイティイバはゼンリの副将として従軍しながら、この結末に至ってしまったことが痼として残心がある。
俺たちにとってこの一件は殺されたのではなく、死なせたなのだ。
当然、フィーは通り一遍の答えを口にする。
「それを自分たちの責任にするのは流石に自意識過剰だろう?あの時カイエンは過労で臥せっていたし、イティだって分隊を率いて別の敵部隊と相対して居たんだ。おまえの過労だって政務、軍務に精励した結果だ。全てを自責するのはむしろ自意識じゃなくて自信の過剰というものだ」
「理解出来るのと納得出来るのは違うんでな。折り合いつけて棚上げて、シルタンス国憎し剣を取れ!と声高に叫べるほど見境なくねぇよ」
イティイバが渇いた笑いとともに答えれば、さすがに押し黙るフィー。この四周季の間、俺たち二人がこの心の傷にどれだけ苦しんできたかを知らないわけがない。心の声が聞こえている以上は。
「……時が納得させてくれるわけでもなかったがな」
ポツリと零した言葉に二人が目を向けてくる。
理解は出来るが納得出来ない。
この思いは永遠に残るだろう。それでも確かに“理解”はしているんだ。ならば後は“納得”させるだけだった。
時が経てばいつかは折り合うこともあると思った。しかし結果はこの有様で、納得も出来なければ癒やされることもなかった。
二人の論調はそのまま拡大化して国内でも二極化し、我慢を強いられていた強硬派がついに爆発したのが今回の背景だ。
イティイバの意見は正しく俺の悔恨を表し、フィーの発言は正しく俺の憤怒に寄り添った。フォントはその二つを正しく捉えて俺をこの戦から外すことにした。
誰も彼もが気を遣いやがる。
俺が何故軍人の道を選んだのか。
俺が何故破天将軍位に身を置いているのか。
こうして直接こいつらの思いを聞いてようやく自らの立ち位置を見つめ直す。あるいは今日に至るまでに幾度となく提示されて居ながら、素直に受け容れられなかっただけなのかも知れない。
戦争の凄惨さを知識として知り得る故に反目してきたが、我慢して変わらなかったのなら、我慢することは無駄なのだと割り切る思いもまた一理なのだろう。
そしてもし、万に一つとしても、この戦争でフォントが失われるようなことがあれば、また同じような思いを抱かねばならぬのだ。
「……もう一回同じ痛みと問答を繰り返すのは遠慮したいところだな」
戦争が起きないならば、杞憂に過ぎない事由。しかし戦争は起きる。もう起こしている。
ならば他人事にしてはならない。同じ轍を踏まないためにも。
一回深呼吸をして二人に顔を向けると、フィーは得心したように一つ頷いた。
「……もう一度フォントに会ってくる」
二人の間を割るように通り過ぎる。意図を察しているフィーは当然。心を読む術を持たぬイティイバは疑問を顔に浮かべながらも、二人ともにその歩みを遮ることなく見送る。背に受けるべき視線は二つのはずなのに、何故かもう一つあるように感じ取った。だがそれは俺の勘違いではないのだろう。
もう、手の届かないところで人の生き死にを左右されたくない。その苦しみはおまえで最後だ。