其れは、悲しみの、始まり。4
桶の中身が何なのか理解した時にはもう遅かった。じいさんは言うほど酒に弱いわけではないか、酔わないというほど強くはない。
今にして思えば帰ってきた時から囲炉裏端にいたのだから、その時から呷っていたのだろう。さらには粥に混ぜながら呑んでいる。そりゃ回りもしよう。酒自体はこいつが商隊から自腹で買ってるし、どう呑もうが構いはしないのだが、入り方が悪いと説教くさくなるのが面倒なことこの上ない。
そして現在、状況は無事何事もなく面倒な結果に陥っていた。
「ぬしがその気になれば、あの行商人どもの度肝を抜く獲物も狩れようものに」
粥を平らげて、もはや酒とバレないように混ぜるような真似もせず桶から移して呷るじいさん。
「抜いて何になるんだよ。身の丈以上の狩りは生態系の崩壊の恐れがある、って言ってたのはあんたじゃねぇか」
「知らぬ。ヤツらに吠え面搔かせられればそんで良い」
割とガチめに度肝抜きたいらしい。確か商隊は、じいさんが街に行った時にルア村活性化のために取り付けた。確かに村としては恩恵があるが向こうとしてはどうだろうか。酒や嗜好品、武具や農具を売り、毛皮や工芸品、狩りの余り肉などの買い取りなどのためだけにわざわざここに来る手間を考えたら、もっと実入りの良いモノを仕入れたいとは思うだろう。
多分そういう感情が商人の態度に出ているのだろう。それを面白くないと思うじいさんの気持ちもわからないではないが……。
「もっと上等な酒を持って来させるためには少しは驚かせてやらねば」
「酒かい」
本心だだ漏れな言葉に思わずツッコむ。まぁ、じいさんは元々外からの移住者だし、これだけ呑むのだからそれなりに質の良い酒を口にした覚えがあるのだろう。絞るに困るは腹より舌、という例えもあるぐらいだしな。
「はぁ……歳老いて身体も満足に動かぬ我が身が恨めしいのぅ。後五周季も若ければ獣狩りなどあれよあれよしたものを……」
「五周季で足るか?」
じいさんの嘆息に首を傾げながら問う。人生平均五十周季。六十も生きれば大往生と言われてる中で、数えで七十三歳という男の言葉は些か盛っているとは思わなくはない。
まぁとはいえ、このじいさんが本気で槍を使ったならば俺ですら十回に三回は負けるかもしれん。無論、じいさんの息が切れる前の、体調万全な状態が大前提ではあるが。
「村一番の武芸者として名高い我が同居人はこの生い先短い老爺のささやかな望みのために粉骨するつもりはないらしいしのぅ。あぁ嘆かわしい嘆かわしい」
「まぁ、無ぇわな」
掻き込み終えた椀を持ってすくっと立ち上がった俺は炊事場に向かう。水洗い用に水を張った底の浅い幅広めの木桶にとぷり、と椀を沈める。さらに竈脇に置いてある水瓶の蓋を開けると、洗い乾かし終わっていた底は深いが幅は狭い木桶で飲水用の水を掬い上げる。水瓶は180センチ近くある俺がしゃがんで入ることが出来る程度にはデカく、薄暗がりながら半分近く残っているのを確認してから蓋を乗せる。もう三日ぐらいは汲みに行かなくても大丈夫だろう。
「雪奈もいるよな?」
聞いておきながら返答を受ける前に新たな椀を二つ掴みながら戻る。じいさんの桶に酒が入っている以上、俺たちの飲水はそこにはないのだから、当然の行動ではある。
「その優しさがわしには何故向かぬのか」
「手間の度合いが段違いすぎるわ」
順調に悪い方向に酒が進んでいる。いつもならもう少し冗談めいて言質を取れれば儲け物、という様な口振りで言ってくるところが、声色に真面目な批難が籠っている。一々相手にしてられねぇな、と思いながら座り直すと、じいさんは据わった眼差しを向けてくる。
「まったく……輝煌とアイリの息子ともあろう者が弱者を助けぬとは……太平の八傑の名を汚すつもりか」
「まーた始まったよ」
頭の後ろをボリボリと掻きながらため息を吐く。じいさんの説教の謳い文句だ。
太平の八傑ーーー先の戦争を治めるのに活躍した八人の人物の総称であり、四国連合を代表する英雄たちである。また八雲のじいさんもその戦争に参加していたためか、この八人のことを神格化せんが如く讃えている。
そのためか、八傑筆頭とされる月代輝煌、第二傑とされるアイリ・エメリアの息子である俺への期待感というか、想いの強さが度々苦言と化して表れる。……それが己の欲望から発せられることについて恥はないか、酔いが醒めたら問うとしよう。
何やらやれ“古の英雄に勝るとも劣らない傑物”だの“当代の勇者たるや”だの親父を褒めちぎり、母を持ち上げては言外に対比するように俺の覇気の無さを詰るように語っていたが、酔いどれ特有の語るうちにだんだん気持ち良くなって来たのか、話の軸が説教から太平の八傑の話題へとスライドしていく。
「太平の八傑は本当に優れた者たちじゃった……。周陽よ、おぬし、ちゃんと八人全員諳んじられるか?」
「あ?あー……どうだろうな」
耳にたこが出来るくらい聞かされてきたが、ちゃんと言えるかと言えると若干怪しい。
「んんろか者がぁ、良いか、太平の八傑とは悪しきカキュラム国を打ち破りし八人の傑物を指しており……」
呂律が怪しくなってきた口ぶりで語り出しながらも、じいさんはそれこそ“外”の一般的な語りを口にする。
第一傑。求むる欲望は唯一つ。一代一身、“治世”の我欲を果たせし孤高の知恵者たるは“天将”月代輝煌。
第二傑。突かば疾風薙がば旋風。戰場荒れ狂う暴風の化身たるは“剛将”アイリ・エメリア。
第三傑。人を見出し用うるに彼の眼に測れぬ器量なし。玉石惑わず“人選眼” と呼ばれたるは“名将”スターリン・グラドル。
第四傑。勝ち戦の魁、負け戦の殿。戦場の勲重ねし武門の誉れたるは“猛将”ファルガ・シェルシェイル。
第五傑。万敵応戦(万の敵に臆せず応じ)。千刃応身(千をも達する傷を受け)。百戦奔走(百を数える戦場を駆け)。十全未完(十全に至らない不十分な状況にあっても)。一命不壊(一命を失うことが無かった)。不死の将転じて“不死鳥”と呼ばれたるは“勇将”ジェヴ・ランクーナド。
第六傑。若くして麒麟児。育ちて獅子。熟して虎狼。老いて蟒蛇。咲いて散るまで枯れることなき声望の威、放ちたるは“老将”シェイザ・アキレス。
第七傑。前線にあっては目を一に。後方にあっては耳を一に。一を学びて十を知り、総じて零より百を生み出す百識の見聞者たるは“智将”リエン・タイランツ。
第八傑。天翔け空裂き地を払う。翼竜駆りて戦場に咲き誇る“天空の覇者”たるは“龍将”アレニア・ヴィラーゼ。
「……総じて呼ばれたるが太平の八傑。イルサード・ヴォルトの乱を治めし英傑なり、と」
気持ちよさげに語り終えたじいさんに、ぱちぱちぱちと音からしてやる気の見えない拍手をしてやると、彼はまた一つグイッと椀を呷ってからぷはぁ、と息を吐く。
「奴らは素晴らしい将たちじゃったぞぉ?難易度の高い輝煌の策を現実に描くことが出来たのも、互いの才覚はもちろん絆と呼ぶべき信頼関係が……おん?」
語りを続けようとしたところをスッと平手で制しながら中断をかけると、不満げに口を尖らせてこちらに視線を向けるじいさん。割とまだ話が通じるレベルで意識は正常のようだ。
俺が手首を返しつつ親指で二度ほど横を指すと、じいさんもそのジェスチャーに誘導されるがままに視線を移す。そこにあったのはこっくりこっくりと舟を漕いでいるかのように俯く雪奈の姿である。
「……いつから寝とった?」
「気付いた時には。どする?」
自然とお互いに声のトーンが下がる辺り、妙に気遣ってるもんだと自覚はする。……が、まぁ五月蝿くして起こすのも憚られるので、自覚はすれど口には出さずにじいさんとのやり取りを継続する。
「……ぬし、夜番じゃったな?ついでに連れて帰ってやれ」
「りょーかい、じゃぁおい雪……ぐほっ!?」
じいさんの提案に乗って連れて帰るために一度起こそうと雪奈に手を伸ばすと、まるでその隙を狙いすましたかのように、伸ばした脇腹に槍の石突きが差し込まれる。
突く、というより刺す、である。骨と骨の間を。
「愚かもんが。一々起こさんと抱きかかえて運んでやらぬか」
「痛ぅ……んでだよ、歩かせた方が早いだろうが」
「ぬしはほんとぉぉに乙女心の理解とか男としての度量とか、心粋というものがないのぉ……紳士あるまじき、じゃ」
額に手を当て頭を振るじいさん。その動きと文言から察するものはあるが、俺は溜め息混じりに睨む。だがそんな視線もどこ吹く風で、じいさんは両腕で抱えるようなジェスチャーを見せる。
「良いから運んでやらんか。無論、米俵扱いは許さんぞ。紳士として」
バカスカ酒飲むのが紳士かよ、と思わなくもないが、正直酔っぱらいの相手をまともにするのも面倒である。
諦めてじいさんの望むように雪奈の隣へと歩み寄り片足立ちでしゃがむと、背中を支えてから太ももの下に手を滑り込ませてから、腰を捻るように立ち上がりつつ雪奈の身体を抱え込む。全く揺らさないというわけにも行かず、起きる可能性も十分にあったが、特に問題なく俺の肩に頭を預けたまま静かに寝息をたてていた。
「ふむ……似合いじゃな」
「………………行ってくるわ」
ニタニタと意味深に笑いながら呟くじいさんを目の端で睨めつけるが、所詮は酔っぱらいの戯言と心の中で嘆息一つ吐いて自宅を後にする。そして数歩歩いてからピタッと一度足を止め、半身振り返って家を見ること数瞬。ふと頭に不安がよぎる。
(……あいつ、ちゃんと布団で寝るよな?)
多少後ろ髪引かれる気持ちはあったが、まぁ信じようと自分に言い聞かせてその場を去った。