復讐者の逃亡劇 2
シルタンス国領・ヘイムラウ平原南東部
一晩の休息を挟み、朝日の上がる前から北はイングリッタへと向かう道を選んだ俺たちは、水気と土気に塗れた身体を洗い流す暇もなく草原へと足を踏み入れる。
森の中は木々に遮られ、強い雨の影響もあって霧が出て身を隠しながらの逃亡も出来たが、このヘイムラウ平原はそうはいかない。茂る草花の背は俺の腰ほどにもなく、イングリッタとの道は馬車が通れる程度には幅を持ち、うねるように曲がりくねりながらも、一本道である。人の上背ですら見通しの良いと呼べる草原。馬上の人ならなおさら見晴らせよう。
そうと知ればこそ急いで抜けたいところだが、雨上がりのぬかるみに、満足な食事も取らずの足並みに軽快さや力強さがあるはずもない。
願わくば地勢のない奴らが、俺たちが森に身を潜めてると勘ぐって無駄な時間を要してくれて欲しいところ。だがその希望は希望として、それだけに頼るわけにも行かない。
木の洞を出る前、寝起きの雪奈と城牙と今後の方針を話し合った時に出た話題の一つに、近く商隊がルア村に来る予定だった、ということがある。
いつ来るのかはわからなかったが、それでも遠くないタイミングで来るはずで、その時に城牙は村を出ていくつもりだった。まさかこのような形だとは思わないまでも、村の外へ出ようとしていた城牙は少なからずの情報を収集しており、また出ることを商隊の一人に話していたことを加味して、運が向いていれば逃亡途中に出会える確率も無くはないと断じた。
それなら木の洞に隠れて数日過ごすべき、ということも議論したが、食事の保証なく数日を待つのは厳しいということで却下。また木の洞で見つかった場合、出入り口が一つしかなく、逃げることも出来ないため、ここに留まるという選択肢自体が却下となった。
そうと決まればと夜明け前に出立したのだが、朝日が上がる頃にはもうこの足並みである。そりゃ若いとはいえ、昨日走り通して溜まった疲労が半日程度で抜け切るものではない。しかも食事もせず、休むも緊張感を持って警戒せざるを得ず、満足な睡眠が取れたとは言い難い。適正な休息を取ったとしても回復の難しい疲れを残していながら、この程度の休みしか取れていないのだから当然といえる。
それでも文句を言わずに歩く雪奈と城牙に続く。追っ手があるならば後続から。故に殿を務めて後方を警戒する。見晴らしが良いだけに後ろを警戒すれば良いだけなのは助かるが、それでも神経を使うことは間違いない。
正直、この三人が揃っていながらここまで会話の無い時間が続いたのは初めてのことかも知れない。城牙が黙考から喋らなくなるのは良くあることだが、雪奈が口を開かないのは余程と言える。
空気が良くないというのは三人ともわかっている。だがだからと言って何を話せば良いのか。話すような体力も残ってないのか。無言の時間は秒毎分毎、重い空気として三人の間に流れる。
その空気を打破出来ないまましばらく歩いていると、先頭を歩いていた雪奈が急にピタリと足を止める。
疲れから下を見て歩いていた城牙はその影で気付いて止まり、肩越しに後ろを見ていた俺も、城牙の足が止まったのに気付いたところで立ち止まる。
「どした、何かあったか?」
ぜぇぜぇ息を切らす城牙に代わり雪奈に声を掛けるが、彼女はだんまりとして足を止めたまま。ただ視線は道の先ではなく、左手側の草むらのかなり先を見据えている。
反射的に視線を同じく左手側こと西に向ける。朝特有の白く眩い太陽が、空を青く染めるとともに黄を差し入れ始めた頃。地の二季となれば大体八時から九時頃になるのだろう日差しに、目を細めながら彼女の勘付いた何かを探るが、俺の目には何事の変化も見受けられない。
「何かあっ……おい!雪奈!?」
もう一度問いかけようとしたが、その言葉を耳に入れる前に走り出した雪奈。ぐちょりと、よりぬかるんだ草原を掻き分け前に進んで行く彼女を、一瞬呆気に取られながら見つめたが、今彼女を見失うのは良くないことと仕方なく後追い走り出す。
「城牙!おまえはゆっくり付いてこい。草の倒れる跡を追えば良いから、転ばずゆっくりな!」
声を掛けるも返事なく、ただ首を縦に動かした城牙を見て、一抹の不安はあれど雪奈に追いつかねばと走り出した。
雪奈の後ろ姿を追いながら、その走る姿に今までの魂の抜けたような足取りと違ってとても強い意志が伝わってくる。こんな余力を残していたのか、というよりは急に馬鹿力が湧いて出たという雰囲気だ。
そして何故そのような反応をして見せたのか。答えは遠からず視覚と嗅覚に訴え掛けてきた。
「……この臭いは?」
走り出してすぐ、雪奈の行く道の真っ直ぐ先に立ち昇る一本の煙を視認する。狼煙のような色んなモノを燃やして挙げた太い煙ではなく、本当に一筋スゥッと伸びている煙は、日差しの関係からしても俺の目ではあの一本道からでは捉えることのできない事象であった。
そして鼻孔に芳しくも香ばしい香りが届いてきた。空腹に訴えかける臭いの元は焼ける肉の香り。野性味溢れる臭いからは血抜きもされず、狩ってすぐに火に焚べたのであろうことも察する。
よもやこのようなところで野焼きで肉を焼いている者が居ようとは思わず、走りながらも追っ手の騎兵が狩りをして朝飯を取ろうとしているところじゃないのか、と疑問に思えど、もう極みに達した空腹感には逆らえない。むしろ奴ら相手なら強襲して奪えば良いとすら思ってしまう。
いつの間にか雪奈の隣を共に駆け、煙の元に辿り着く。肉を焼くために草を刈り取ったのか、拓けた場所に出た俺たちは目の前の焚き火で焼かれる大きな肉塊に目を奪われる。
これほど大きな肉塊となると大牙猪か暴角牛か。この辺りで狩れるであろう獣を想定しても、種の中でもさらに大型の獲物を狩ったのだと察する。
二人して驚嘆して立ち止まっていると、肉塊の向こう側からひょいと顔だけこちらに向けられる。
「…………どなた様たち?」
「あ、申し訳ない。実は俺た…」
「お肉くださいっ!!!!」
声の主に挨拶をしようとする俺を押し退けるようにして相手の隣に駆け寄る雪奈。あっさりとパーソナルエリアを踏み越えて相手の顔先に、己の顔を寄せた彼女に、声の主は数回目をパチクリさせながら固まる。
「んんー?……」
一度視線を雪奈から外しこちらを見、頭の先からつま先まで見られる。その間にこちらも相手の様子を確認する。
性別は男。座ってはいるが立てば俺ぐらいかそれより高い身長はあるか。ショートヘアだが前髪だけが目元に掛かる程度に伸ばしており、二重まぶたの瞳はこちらに対する不審から鋭くなっているが、黙って見る分には間違いなく二枚目然とした雰囲気を持つ。
何より目を惹いたのは鮮やかな赤毛と灼瞳。服の意匠もそれに合わせてか赤を基調とした長い外套は、炎を印象させる飾り刺繍がされている。
まるで焔が人の形を成したのかとも思わせるような男の姿から受ける印象は、荒々しい危険な感じより人に頼られそうな雄々しい頼もしさを受ける。
果たして、その印象に沿ったか否か。男はもう一度雪奈の眼差しに視線を戻すと、そこから少し下に目線を落とすなり、前のめりになる彼女の胸元に釘付けになって止まる。
「おほっ」
「ぅおい」
何に止まっているのか瞬時に察した俺が一言声を掛けると、男はハッと我に帰って振り向く。それと同じくして追いついてきた城牙が俺の隣に駆け寄ってきたのを助けに、慌てて視線を彼にも向ける。いやまぁ何も誤魔化せてないがな。
「ずいぶんと汚れてるけど……訳あり?めんどくさい感じ?」
「訳あり、だな。面倒もかけるかも知れない」
俺の発言に対しどういう感情か。ニヤリと楽しそうに笑った男は、髭一本ない顎を一つ撫でる。
「偽らないのは良いことだね。……まぁ、一人じゃ処理しきれんし、構わんよ」
「ほんと!?やったー!!!!」
雪奈が喜んで両手を挙げた瞬間、ぽよんと跳ねる双丘を見逃すまいと言わんばかりに、グンッと首を回して凝視する赤毛男。瞬間俺の眼差しが鋭くその横顔に刺さるが、彼は気にせず雪奈の胸を見て頷く。
「うむ。良いものを見せて貰った」
何となく不愉快に思いながら男の面を見ていたが、喜んでいた雪奈が戻ってくるなり俺の腕にしがみつく。
「のわっ!?」
勢い付けての飛び付きは空腹と走り疲れで足に力の入らない俺には十分過ぎる衝撃で、転ばなかったことを褒めてほしい程度には踏ん張った。
「しゅーひ!じょーが!ご飯だよ!お肉食べれるよー!」
空腹がツラすぎたのか、ホロホロと涙を溢しながらも笑顔で喜ぶ雪奈に、喉まで出掛けた文句を何とか飲み込む。先まで話すことすらしなかった彼女を思えば、他人のことを気にせず喜びを爆発させるぐらいの暴挙は見逃しても良いだろう。
走ってきて疲れていたはずの城牙も、目の前の肉が食べられるという情報一つしか与えられていないが、十分喜ぶべき内容と言わんばかりに無言で握り拳を突き上げた。
「……何があったんやら」
頬杖を突きながら俺たちの様子を眺めている赤毛の男は、厄介事を抱え込んだにしてはどこか楽しそうに微笑みながら、手にした骨付き肉を一口咀嚼した。