復讐者の逃亡劇 1
シルタンス国領・ヘイムラウ平原 宿営地
一日近くかけて降り続いた雨が上がったのを知ったのは目が醒めてからだった。
地の二季の朝はまだ気持ち肌寒いが、雨上がり後は尚の事。冷えた空気は如何に帷幕に包まれたテントをしても遮るに至らず、はだけた毛布の隙間から差し込まれて意識は覚醒を始めた。
いや、正確にはもう少し前に意識は起きていた。激しく帷幕を打つ雨音の代わりに喧騒が耳に届いていたからだ。
とはいえ喧騒が自分を呼ぶものではないと判断して、薄らと目蓋を閉じて覚醒に抗おうとした。しかし性分故か立場故か、あるいはその両方か。騒ぎの内容が気にかかるとともにある人物が脳裏をよぎり、包まる毛布の温かさに後ろ髪を引かれながらも、寝起き特有の不機嫌な眼差しをテントの外に向けながら起き上がる。
「んだもぅ……どうせまたシーザだろう?」
寝台から降り、起き上がった長身の男は外套よろしく毛布を羽織り、のっそのっそとテントの入り口の帷幕を捲し上げて外を窺う。練兵のため雨が降る前から宿営地を築いていただけあって、テントの底も木台や盛り土で上げており水没したところはなく、大雨の影響でテントが崩れたということもない。一見しただけで言うなら騒ぎになるような何かを察することは出来なかったが、男はどうしても脳裏に浮かべ、口に名を出したヤツの存在が気になって、そいつが寝てるはずのテントを見遣ると、テントの入り口が開いていた。
どうやら残念なことに想定通り、朝早くから問題児が何かやらかした可能性があることに肩を竦める。
「いやー、いやいやいや、待て落ち着けエベリス・サーズスノー。まだだ、まだあのアホがアホしでかしたとは限らん。決めてかかるな、舐めてかかるな。病気の有無とシーザの行動」
何やら標語のような一言を呟いた男ーーーエベリス・サーズスノーは、言葉に反してどこかもう諦めているような薄ら笑いをぶら下げて声のする方へと向かう。
喧騒の元は馬屋。柵で仕切り轡を繋いだだけの簡易的な作りだが、百に達する軍馬が並ぶ様は壮観である。
とはいえ馬は生き物。一処に留め置かれて暴れることも無くはない。特に雨除けの天蓋も用意出来なかったことから機嫌を悪くして騒ぎを起こした可能性は十分想像し得た。
だがいざ到着して見ても馬は整然と並び、一頭ごとに被せられた帷幕の布地により、濡れるのも最小限に抑えられていたためか不満はあっても暴れるほど気の立った馬は見当たらない。
しかし、エベリスは自身の疑念があってのことか。整然と並ぶ馬の中で一画を視界に収め、その視界内に居なければならない赤毛馬が居ないことに気付いた。
「……ダグール、エリファ。報告を」
騒いでいる人だかりの中から二人の名を告げると、皆一様にこちらを見てピタリと口を閉ざす。ダグールと呼ばれた赤茶色の髪を撫で上げた男はチラリと隣を見、その視線を受けてため息を吐いた緩やかな内巻きのミディアムヘアが印象的な金髪の女性が、立ち居を質して真っ直ぐエベリスを見据えた。
「エリファ・ザージル、報告致します。シーザ将軍が軍律違反を致しました。内容は私用による軍馬の無断借り出し。及び当直兵への暴行、暴言。また無断、無許可にての外出の三点です」
「だ、ダグール・リスマイド、報告致します。シーザ将軍は馬で朝駆けに出ると仰られ、と、当直兵らにエベリス将軍の許可印、ないし許可証の提示を求めたもののこれを拒否。う、馬を出せないことを伝えたところ無理やり押し入り、愛馬に跨るとあちらの柵を飛び越えて陣外へ出ました。お、押し入りの際に悶着がありニ名軽症が出ておりりますが、い、医局の必要性はありません」
さらりと簡素に報告するエリファと、吃りながらも補足を入れながら報告するダグールの話を聞いて、眉を顰めてこめかみを押さえながら頷くエベリス。二人の報告に大きな異見がないことから、意外性の欠片もなくシーザが起こした事件だったという事実に、睡眠によって抜けてたはずの疲れが帰ってきたように怠さを覚えてしまう。
「なるほどね。他に何かあるかい?」
「た、確か北に向かうようなことを言ってたようです」
「……北?」
ダグールの言葉に小首を傾げるエベリス。彼が報告した時に指を差した“あちらの柵を飛び越えた”という柵の位置を確認する。その後くるりと振り返りながら朝日を見上げる。西から昇る太陽を背にした時に、ダグールが指す柵の位置は右手側にある。
「……あ」
「ん?……んん?」
エベリスが無言で三度太陽の位置と柵の位置を確認する様を見ていたダグールとエリファは、その動きの意味を良く分からず見ていただけだったが、先にダグールが、次いでエリファがエベリスの言わんとすることを察して揃って首を傾げた。それを見て気付いてくれたかとエベリスも頷いて呟く。
『南、だ(です)ねぇ』
三人の言葉が重なる。シーザが何を思って北に向かうと言ったのかはわからないが、どこをどう見ても南へ向かって走った様で、ダグールは慌てふためき、エリファは目と口を真一文字に瞑り、エベリスは乾いた笑いを喉の奥から漏らす。
考え得るのは三つ。
一案は北に行く、という嘘を吐いて南に向かったパターン。
二案は陣抜けのために一度南に向かってから北へと進路を取るパターン。
三案は北だと思って南に向かってるパターン。
以上の三案を指折り提示したエベリスは、目で二人にどれが可能性秘めてるかを問うと、二人は示し合わせることなく揃えて。
『三案目ですね』
「異議なしなことが悲しいよ俺ぁ……」
部下二人の意見と一致してしまったことに、目蓋を覆うように手を当てるエベリス。とはいえシーザが他二案のような頭の回し方が出来るほど、冴えた出来をしてないと知っている。寄って消去法的にもそうなるのだ。
暫くしてため息を吐いたエベリスは、毛布を脱ぎながら近くの兵に渡し、同時に自分の外套と槍を持ってくるように頼む。
「……時計持ってる?」
その指示を出してからどちらとも言わず尋ねたエベリスに、二人も反応する。
「も、持ってますけど……」
「はい」
質問に返事だけをしたダグールに対し、懐中時計をサッと出したエリファ。カチッと開いてエベリスに見やすいように向けた彼女を見て、ダグールはそうすべきだったのか、と慌てて懐中時計を引っ張り出そうとして服に引っ掛けていた。
「一個あれば良いよ、ありがとうね」
慌てるあまり服を傷めるか懐中時計を壊すかしそうなダグールを静めるように一言言って、自身はエリファから受け取った時計を眺める。
1から15の数字を円周上に刻んだ時計は短針を8に、長針を13に示していた。
「八時五十分ちょいか。……ならエリファ。俺がシーザ連れ戻しに行ってくるから十時になったらキミが主導で練兵始めておいて」
「私が、ですか?」
努めて感情を押し殺そうとする彼女にしては珍しく驚きを顔に表す。
「なんでそんなに驚くの。うちの部隊で俺とシーザ抜いて席次高いのキミら二人とクラバースくんだろ?じゃぁお鉢が回るのは当然じゃない?」
「いえ、そうですけど。クラバース先輩ではないのですか?」
エベリスが返した懐中時計を受け取りながらも目を白黒させているエリファ。シャンと伸びた背筋といつもの癖で感情を押し殺しながらのその反応は、エベリスとしても新鮮で悪戯心が小さく湧いてくる。
「いや、別に彼でも良いけど?……まぁせっかくだしやってみなよ。エリファって誰かの補佐はしても主導はまだないでしょ?」
「それはそう、ですが……。そもそもをして、将軍自ら迎えに行く必要はありますか?」
そう言う彼女の言葉には薄っすら棘が見える。
エリファ・ザージルはシルタンス国の名跡アーディア家を遠戚に持つ良家の女史である。だが将として評するならば優に足らず良の一等地、である。
それは規則や法、軍律を正しいモノとして推戴し過ぎるきらいから、型に納まることを尊ぶ性質故である。
なので彼女はシーザのような自由人を嫌う。何ならそんな彼を重用しているエベリスたちをも心の何処か、無自覚なところで蔑んでいるかも知れない。
ただそれは逆説的に、規則や法、軍律を破ってなお必要とされるだけの何かを持ち合わせていないエリファ自身の嫉妬でもある。
そこに自覚しているのかいないのか、エベリスには察し切ることは出来ないが、敢えて言葉で伝えようともしない。この類いの思考は外的要因で是正されることはない。彼女自身が直そうとしなければエリファ・ザージルが中位将軍の地位より上に行くには長い周季が必要となるだろう。それだけの話だ。
「むしろ俺以外に付き従うあいつの姿が浮かばないんだが?スターリン殿やルークス殿がいるなら話が別だが」
そこまで考えながらエベリスは自身の思考を読み取られまいと戯けて返す。口調こそ戯けてはいるが、事実を言っている。
シーザは階級などどうとも思っていないタイプで、席次よりも個人に対して礼節を払うタイプである。そんな彼が頭が上がらないのが三人おり、そのうちの一人がエベリスである。しかも三人の中で一番の末席に当たる彼としては、ある意味当然の人選だと思っている。
そしてそうと言われてしまえば反論のしようが無く口籠るエリファ。やや根負けしたような面持ちで視線を外し、深呼吸一つして頷く。
「……わかりました。では本日の調練は昨日のミーティングに沿って、私が取り仕切るということで」
「うん、宜しく。ダグールもエリファの指示に従うように」
「は、はい」
結局服から取れない懐中時計を優しく外していたダグール。急に声を掛けられて一度身体が跳ねたのは、それだけ懐中時計との戦いが熾烈を極めたものだったというところか。
「……ダグールはもう少し落ち着きが欲しいなぁ」
「将軍、お待たせいたしました」
そんな彼を見て小さく呟いたエベリスは、同時に外套と槍を持ってきた兵に声を掛けられる。肩越しに一瞥して受け取ると、胸当てや外装も持ってきているのを見つける。
「鎧はいいや、アホ追いかけるだけだし。槍はちょっと持っといて」
外套に袖を通しながら一頭の馬の前に行き、柵と結ぶ手綱を解いて内側に周る。エベリスが来たことを喜んでか鼻先を擦り付ける馬は、鼻筋に一つ墨を落としたような黒点を持つ白馬で、鬣は肌に触れる数ミリのみ青く、伸びるほどに金色を成していた。
エベリスの愛馬である通称黒点馬に跨がり、腰の位置を落ち着けたところで槍を受け取る。その様を寸分違わず絵に描けたならば、描いた画伯は後世に名を残せるほどに、威風を放っていた。
「んじゃま、いってきますわ」
眼を見張るほどの偉丈夫然とした雰囲気を壊すような気軽い一言を残して、エベリスは南へと駒を走らせる。
ヘイムラウ平原。それはシルタンス国南部に広がる広大な平原の呼び名であり、イングリッタの町とルア村を繋ぐ草原もその一部である。