其れは、悲しみの、始まり。19
「助かったけど、なんでおまえら来てんだよ。城牙と一緒に逃げろって言ったろ」
バチャバチャと均されてない凹地に水溜りがドンドンと作られ、油断したら足を取られかねないぐらい悪くなった道を走りながら俺は、喋れば疲れることがわかっていても問いかける。あの場においてはこれ以上ない救いの手ではあったが、この二人が来たこと自体は不本意だ。雪奈に至っては泉から走ってきたのを知っているから、逃げる体力が残っているか心配してしまう。
「俺は止めたんだぞ。おまえを追っかけたのは雪奈の独断だ」
「しゅーひを置いて逃げる選択肢はなかった」
「発言が男前」
真顔で語る雪奈は状況下で言えば当然の表情ではあるのだが、ほぼ間違いなく戯けて作った真顔だとわかっているから苦笑いも溢れる。
広場を抜けて西の通用門に向かわず、真っ直ぐ北に向かう。村の周囲は高さ2メートル程度の柵で囲っているだけなので、飛び越えてしまえとの判断からだ。
急な豪雨で村を包んでいた炎は場所によってはまだ燻ぶっているものの、そのほとんどは消えていた。
「雪奈」
柵の前に辿り着くなり柵を背に中腰に構える。呼び掛けに意図を理解している彼女は走る勢いを殺すことなく俺に向かってきた。
そして俺が手を組んで足場を作ればそれを土台に柵を飛び越えた。後に続いてきた陽夕は勢いのまま柵を蹴りながら登り、その上に腰を掛けると十字槍の柄を俺の頭上に水平にして差し出す。
その柄を両手で掴むなり陽夕はてこの原理宜しく十字槍の刃の付け根に足を掛け、自重に任せて降りる。その力点に乗せられた勢いを借りてジャンプした俺は、流石にそれだけで飛び越えるには至らなかったが、自力で登るよりは遥かに容易く柵を越えることが出来た。
そして着地するなり三人で北に向かって走り出すと、それぞれがそれぞれの顔を見比べるように見合わす。
「いやいやいや、なに今の?めっちゃスムーズ過ぎて驚くんだが?」
「ね!別にやったことあるわけでもないのに!」
「熟練の成せる業、なお初見の模様」
「こんな状況じゃなきゃ笑い倒してたわ」
それぞれが所感を述べながらも足は止まることなく走り続ける。
ルア村の北は森がある。村からも望めるその森は一本道を通しており、途中広大な平原を経てイングリッタという町と繋がっている。とはいえ道のりは馬車で一日超、人の足では丸二日ほどかかる。商隊もルア村に来る前の休憩地として利用する程度には栄えた町だが、辺境であることを思えばマシというぐらいだと八雲のじいさんが言っていた。
逃げるとすればそこの町までとなるが、果たしてこのまま辿り着けるかは正直怪しい。
先のことを考えて若干気持ちが沈んだが、結局今出来ることといえばそれしかないのなら、悩み落ち込むのは愚の極みだ。
何より雨足がドンドン強くなっているのは俺たちにとっては追い風のはずだ。軽く後ろを振り返ればわかるが、まだ森に辿り着いてもいないのにルア村が見えなくなるほどに視界が悪い。雨音ももはやザーザーなどという生易しい音ではない。ドドドドッと打ち付けるような音すら立てている。
「あ、周陽!雪奈!……陽夕も!」
「走れ城牙!追っ手があるかも知れん!」
森の入り口に差し掛かると繁みに隠れていた城牙が手を振って現れたが、挨拶などもちろん、状況の説明や無事を祝ってる暇などない。強い語気でそう言い放てば、若干戸惑いを見せながらも理解力の早さを活かしてか、すぐに俺たちに続いて走り出す。しかし城牙の足の早さはこの距離を走り続けてきた俺たちと比しても遅かった。
「チッ……陽夕、俺は最後尾に回るから離れない程度にペース落としつつ急いでくれ」
「やべぇ注文来たな。尽力するが出来るとは言えんぞ、それ」
「面倒掛けて悪いが、城牙を置いていく選択肢は無い」
「発言が男前」
どっかで聞いたことのあるセリフを言われて目を眇めると、陽夕は悪怯れることなくペースを作りながら先頭を走る。ゆっくりと城牙の横に付いた俺はピタリとその速度に合わせて走る。
「城牙、その鞄よこせ。あと槍も俺が持つ。走ることに全神経使え」
「はっ、はっ、助かるっ」
「あ、槍はあたしが持とうか?」
「ん?……余裕あるなら頼む」
「ほい。あとじょーが、眼鏡落としたら大変だし外して走ったら?どうせ雨で視界悪くて見えてないでしょ?」
「はっ、はっ、そうかっ……確かにっ……そうだねっ」
「足元注意しろよ。水溜りは基本凹んでるからわかる限りは避けて。転ばないことを第一に、慌てず急げ」
「はっ、はっ、りょう、かいっ」
「……甲斐甲斐しいことだな」
俺と雪奈に挟まれる形で走る城牙を見て、呆れるような眼差しとともに肩を竦める陽夕。森の木々が遮って雨の勢いは気持ち程度には緩くなるが、短時間とはいえ強く降った影響からか森は霧が立ち込め始めていた。
それでも道なりに走り続けた俺たち四人だったが、流石に疲れが足に溜まり、しばらく進んで誰からとも無くゆっくりと足を止める。
「ぜっ…はぁ、ぜっ、ぜっ、……はぁ、っ…はぁっ」
喋るのも億劫に手を振って少し休むと合図を出せば、周りも息を切らせながら身振り手振りで応じる。もう足の感覚があるような無いような、少なくとも自分の力の入れ具合が制御出来ず、歩くにしても挙動に違和感を覚えるような足取りは、限界を越えていることを示唆していた。
周囲を見渡せばこの森の一番の狭隘な道に立っていた。東西を崖に挟まれ、南北に抜ける道は北に向かい降っており、雨水はまるで川のように勢い良く流れている。
その流れを前にして息を整えながら空を見上げる。森に入ってから数度遠雷の音が響いていたが、今は特に聞こえてこない。雨脚も上限に達したか酷くなったとも感じない。最も濡れきった身体で感じらとれる差異などもうわかりやしないのだが。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……霧が……濃くなってきたか?……逃げるのに…はぁ、はぁ、役立ちゃ良いが……」
「はぁ、はぁ……一本道だし……霧関係なくない?……うっぷ…」
独り言のつもりだったのを律儀に答える城牙は、喋ったことで吐き気を覚えて口に手を当てる。無理に話さんで良いぞ、と手を振る。
「はぁ、はぁ、雨は弱まる……どころか……強くなってるし……はぁ、はぁ……霧はこのまま濃くなる……でしょ?」
「ぜぇ、ぜぇ……いや、強くはなってなくない?……ごほっ……むしろ森に入っ……てから弱まったぐらい?」
他人の気遣いに乗って口を止めて休めば良いのに、雪奈の呟きに同じように反応する城牙。まぁ頭を働かせ口を滑らかに動かす方が得意分野である彼としては、黙る方が休めないのかも知れないが。
「えー、でもさぁ……はぁ、はぁ、雨音、強くなってない?……ドドドドッて、音が増してるんだけど?」
「……音が増してる?」
岩肌にもたれ掛かりながら主張の理由を述べた雪奈に、俺たち男三人はそれぞれ視界に収めて互いの顔を見合わせるなり、疲労感漂わせていた表情を徐々に引き締め直して真顔になると、俺と陽夕が弾かれるようにぬかるんだ地面に片耳付けるように伏せた。
雪奈の五感は余人よりも優れているのはルア村の住人なら既知の事実。その雪奈だけが拾うことが出来た音というのがそれならば、俺たちの頭に過ぎったのは雨音ではなく、地を蹴る馬の足音。
空気中では雨音に遮られる音も、地面に付けた耳からなら聞き取れる。あるいは雪奈の勘違いであったなら取り越し苦労で済んだところだが、伝う音は一つならず複数の馬脚。
「っ……馬かよっ!!」
「一つじゃねぇな……流石にこれはキチぃわ」
ゆっくりと立ち上がり一つ大きく深呼吸する。足は未だ怠いがここに居座るわけにもいかない。雪奈と城牙にも視線で逃げることを伝えれば、二人とも億劫そうではあるが北へと歩き出す。
「周陽」
「んあ?…ぶっ!?」
二人を見て俺も動き出そうとしたが、そこで陽夕に声を掛けられ、振り返ると何かを投げ付けられた。
反射的に手でそれを防いだが、その何かを弾いたために飛んできた飛沫に思わず目を閉じる。ゆっくりと目を開けば腕に引っ掛かるようにしてへばり付いた布を視界に納める。その布が陽夕が頭巾被りにしていた色落ち激しい赤い布であることを理解したのは、次いで視線を向けた陽夕の後ろ姿を見たから。
「おまえの親父さんの形見だ。持ってけ」
「は?」
ずり落ちかけたその布を掴むと同時に言われたその言葉に、どういう意味が籠もっているのかわからず小首を傾げる。確かに陽夕が俺の父親から貰ったモノだとは聞いていたが、同時にそれはこいつの宝物でもあったはず……だ。
「……おい、アンタまさか…」
「見ろよ周陽。丁度いい狭さの道幅じゃね?ここなら一人でも多人数の不利を気にせず戦えるだろ?」
そう言うなり十字槍を立てて仁王立ちする陽夕。その背の語ることは察しざるを得ない。
「四人揃って逃げるのはキチぃだろうし、おまえら三人じゃ誰が残っても他が素直に逃げそうにないし。じゃぁお兄さんが一肌脱ぐしかねぇじゃん?」
カラカラと笑う声の調子は明るいが、それだけに俺は戸惑う。ここまで一緒に逃げてきたのに、残して行かねばならないことに。そして残った彼が生き残れる可能性が低いことを理解して。
その戸惑いを背で感じたか、振り返ることなく陽夕は笑いを潜めた。
「……行けよ、周陽。おまえら若いヤツらと違って走れるほど足も回復出来てねぇし、これ以上逃げてからじゃ戦う力すら残せやしねぇ。……俺自身が満足出来る選択肢はこれしかねぇんだ」
「陽夕…」
「簡単に死ぬつもりもねぇがいくらでも時間を稼げるわけでもねぇ。だから……さっさと行けよ。テメェの泣き顔なんざ見たくねぇからな」
ぶっきらぼうに言い放つ陽夕に、誰が泣くかと悪態を吐こうとして思い留まり、一拍置いて踵を返す。そして手にした布をギュッと握りしめた。
「……これは預かっておく。ちゃんと取りに来い」
「……約束は出来んよ」
最早お互いの姿を見ることはなく、この先もお互いに見ることはなくなるのだろう。
それでも最後に一目、などと振り返ることなく走り出す。無理からなる約束を残し、それを陽夕なら叶えてくれると信じて。
パシャパシャと水を踏み締める音は一つ。俺の後ろに付いてくる音はない。
下唇を噛み締め悔やむこと数瞬。しかしすぐに顔を上げて先を行く二人に追い付くために速力を上げる。
投げ付けられた布は、頭巾被りしていたが故の堅結びをされていたが、走りながら結び目を解いて左の二の腕に巻きつける。
いずれ返すその日まで、無くすまいと強く結んだ。