其れは、悲しみの、始まり。10
カキュラム国南方 トリュ山道
カキュラム国はイーストリア大陸で一番大きい領土を持つ国である。しかしその国土に比すると生産力は低い。王城アザジンガルフを始め、北部城塞ラシルグランデ、東部都市フルグラスティ、離島エルデンティハル。この四つの都市、地域はそれなりの成果があるが、他は農産業や畜産業を増やす政策を打ってもなかなか成果が上がらない。
中でも南部リスクリスワン域は非常に痩せた土地であり、故に却って生産力の向上は担わず、軍事拠点として製鉄工場や軍馬生産などを主としている。
その軍事拠点をさらに南西に進路を取るとキビエと呼ばれる山があり、キビエを東西に切り引いた道がこのトリュ山道である。
トリュとはこの道を作ったオルハン某の親類の名だというが、そんな細かいことまでは流石に覚えていない。
一周季に数度、人の往来があるかどうかわからない道は長き時の中で荒れてそれなりに風化しているものの、元は昔あった南方国家への進軍路として作られただけあって、軍馬に跨がりながら並足で進むことが出来ていた。
「カイエン」
名前を呼びかけられて振り返るとそこには後方から馬を寄せて来たイティイバの姿があった。
「後軍の輜重隊が少し遅れてる。この辺りで休息挟んで一度隊を整えた方が良くないか?」
「そうか……」
報告を聞いてから眉間にしわが寄るのを感じて、指で一度ほぐしてから辺りを見渡す。山道と言うも山の中腹を平坦に均し、北に斜面の山林が根を剥き出しに育ち、南は崖と呼んで差し支えない急斜面が、目視出来ないほど深い底をパクリと口を開いている。
休息を取るにしても環境が良くはない。落ち着くことのできない休息に何の意味があるのか。
「……前線の速力を少し落として足並みを整えよう。休息はもう少し先で取る」
「……いけるか?」
「そのぐらいやらせろ」
イティイバが重ねて問いかけてくるが突っぱねるように言い放つ。
今、俺が率いている部隊はイティイバを除いて三十人からなる小隊だ。だがその所属は俺が指揮している破天軍ではなく、破光軍。
破天軍の練度の高さはカキュラム国随一を自負するところ故、流石に比することは避けようと思っていたのだが、破光軍兵の練度があまりにも程度が低くて怒りを収めきれなくなっていた。
軽騎兵小隊となれば機動力の点で優れ、このトリュ山道も落石や崩落が無ければ今頃踏破出来ている予定であった。にも関わらずこのようなところで手間取っているのは本当に不本意でしかない。
そもそも何故俺たちがこんな山道を、所属違いの兵を率いて進軍しているのか。それは先日のゼンリの墓参り後に端を発していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おやおや、カイエン将軍ではありませんか」
「む……」
アザジンガルフ王城の大廊道と呼ばれる幅の広い廊下を歩いていたところ、遠く正面から向かってきた青年の声に視線を向ける。
そこにいたのは青い髪を一本三編みに下げた優男風の男性。しかしその薄く開いた眼に感じる熱量は非常に低く、背筋を凍らせるという圧力ほどではないが、人の心理を一挙手一投足から見抜いているんではないかと思わせる怜悧さがある。
彼の名は星影薄斗。カキュラム国国軍統括を任じられている男だ。
カキュラム国には十臣軍という軍閥が存在しているが、それとは別に国防軍として国軍が存在している。……というよりも、十臣軍はその筆頭将席が有望そうな者を推挙、あるいは自らの召し上げで十臣軍に所属させており、その十臣軍に所属してない者たちを国軍とまとめて呼称している。
そう説明すれば国軍とは十臣軍に所属出来なかった者たちの集まりとも評されそうだが、実際は時の十臣軍筆頭を快く思わず断っている者や、飽くまで王城の守護、国防の直員として国軍に所属している者も多い。
そしてそんな将兵を統括しているのがこの男である。
「薄斗か、しばらくぶりだな」
「いえいえ、先日会議でお会いしたばかりですよ?まぁ、半渡季前をしばらくぶりとおっしゃってるのでしたらその通りですが」
言いながら手元に開いていた書状をシュルッとまとめて紐で縛る薄斗。その綴じた紐の上に墨を付けた筆で文字を書いて小脇に抱え、携帯していた筆は細い小筒に納めて懐にしまう。
「横着なヤツだな、執務室に戻ってからやれば良いだろうに」
「おやおや、失礼。私、今回の戦争の総参謀を任じられましてね。歩いてる間も時間を無駄に出来ませんので」
「総参謀……おまえが?」
「えぇえぇ、フォント王直々に御下命頂きました」
薄ら笑う薄斗のその表情に自然と眼差しが鋭くなるのを自覚する。星影薄斗の右頬には入れ墨が刻まれている。それはリーヴィア龍国の成人男性を示す証である。
出自が自国ではない者が総参謀に着くことは、異例ではあるが前例がないわけではない。そこまで不審に思う必要もないのだが、彼には拭い切れない黒い噂が纏わりついている。
リーヴィア龍国王位こと“龍帝”クロディ・リーヴィア暗殺の疑いである。
事実、彼の一族である星影家はリーヴィア龍国を長きに渡り支えてきた名門の一つで、クロディの死後、後を継いだサレド・リーヴィアによって薄斗の父星影霞澪が獄に繋がれ、後に処断されている。
カキュラム国に彼が仕官したのはその後の話だ。
地位が低かった頃はリーヴィア龍国側に知られず。頭角を表し上位将軍位になる頃には流石に存在が露見するも、非凡な才能と卓抜な政治手腕をフォントが惜しむようになり、引き渡しを求めてきたのを無視した。
確かに優れた人材だと思う。特に知略家として、謀略家としての手腕は俺なんかよりも一枚も二枚も上手だ。だがどうしても拭えぬ“主君殺し”の罪科。それは彼を評する上で唯一の疵であり、切り離せぬ事実だ。
「おやおや、怖い怖い。下手な将兵に見せたら漏らしてしまいますよ」
戯けてみせる薄斗にいつの間にか圧をかけていたことに気付いて深呼吸を一つする。大廊道は王城の最上階にあって、王城にいる間の十臣位の執務室が道の両側にあり、その道の先にフォントの王室がある道だ。故に上級中位将軍以下は滅多に訪れることはなく、上位将軍とておいそれと足を踏み入れない。
それだけに今この場においても俺と薄斗、そして彼方に見える王室の見張りぐらいしか人は居らず、俺の圧をまともに食らったのは彼ぐらいなものだ。
「いやはや、とはいえご懸念は理解出来ます。客観的に見ても私が信用能わざるのはわかっておりますから。……だからこそ、此度の任は誠心誠意果たそうと思っております」
同意し、阿る。張り付いた笑顔を晒し、却って不信感を抱かざるを得ない言葉の軽さ。合わせて俺の不信感は留まることを知らないが、今はそれを一々指摘している場合ではない。
「……王室から出てきたな。フォント王は居られるのか?」
十中八九いるのはわかっているが、話を切り替えるためにそう尋ねると、薄斗はすぐに答えようとはせずしばらく黙考する。無意識か張り付いた笑顔が真顔になったようにも窺えた。
が、すぐに表情を戻すと彼は小脇に抱えた書状をポンと叩いて頷く。
「えぇえぇ、いらっしゃいますよ。私も今許可を戴いてきたところですから」
「そうか。なら失礼す……」
「破光軍のシュルルク殿に対する軍事指令書を、です」
薄斗の反応に少なからずの違和感を覚えたものの、詳しく問うこともないだろうと立ち去ろうとした瞬間に、彼はそうポツリと呟いた。
ピタリと足を止めて反射的に薄斗に視線を向けると、彼は先ほどまでの意味を持たないものとは違い、どこか底意地の悪さを感じ取れる笑みを浮かべていた。
「薄斗……」
「いやいや、フォント王に会見を求めると言うことはカイエン将軍も参戦されるということでよろしいのでしょうか?」
書状を手に取り肩をポンポンと叩きながら問いかけてくる薄斗。確かにその意思を持ってここに来たわけだが、それ以上に俺の足を止めるに至ったのはある男の名。
「……読みます?」
スッと差し出された書状はついさっき封書したばかりのモノ。
それをしばし見つめてから手に取ると、薄斗は空ける前に訥々と語り出す。
「さてさて、どこから話したものか。……とりあえず開戦となるに当たって破光軍の扱いに苦慮しましてね」
薄斗の言葉に得心するように頷く。破光将軍カルツ・アーリッシュは好戦派の最右翼の男であり、シルタンス国へのも恨み辛みというより報復、報讐の思いが人一倍ある。
しかし当代の破光軍自体は残念ながら十臣軍最弱と呼べるほどに練度が低い。それは往々にして破光将軍たるカルツの責任であるが、それを今さら言っても始まらない。
古今東西、戦は常に初戦が大事である。その可否によって大局が決まることも少なくない。故に破光軍に先陣を切らせるわけには行かず、かといって支援のみを行わせて武功の機を与えなかった時の不満は、他の十臣軍の比ではないだろう。
この軍事指令書はそんな破光軍のガス抜き代わりの一手だということだ。
「……カルツではなくシュルルクの名が出たのは?」
「流石にそんな辺境に十臣の一人を送るのは気が引けまして、ね」
主語をあえて語らないところに書状を読めという意味が言外に含まれていることを察し、仕方無く封を切る。そこに書かれていたのは現シルタンス国の南部、そして元カキュラム国の領土であった村の名であり、そこを襲撃する軍令だった。
「というのは建前であって。……カルツ将軍の腕前では全幅の信頼は寄せれませんし、第二席のカイジュ将軍にこの任は酷でしょう」
薄斗の説明に眉を潜めながら耳を傾ける。破光軍第二席のカイジュ・アーリッシュなら確実にこなせるだろうが、兄にして上官のカルツと違って正義感が強く、正道を行く性格の彼にやらせるのは確かに酷だろう。第三席のアーザナル・ティックも同意見で見送られる。
対してシュルルク・ウィリンゼル中位将軍ならば?
破光軍の若手の中でも出世頭と目され、ゆくゆくは破光軍の中核を担うとも期待される才能は任ずるに足りる。何よりもシルタンス国を憎んでいるという点に置いては誰よりも強い。
何せ、ゼンリが認めた“遊び相手”なのだから。
「先のイーサード、ヴォルトの乱で厄介でしたのは、言うまでもなく太平の八傑の存在でした。特に筆頭たる月代輝煌は此度の戦に置いても警戒すべき名でしょう。そこに先手を打とうと思いましてね」
「月代輝煌……名を聞かなくなって二十周季になるが、生きているのか?」
「さてさて、実は私もあまり重要視していなかったので情報未収集なのですよ。ただ存命であれば五十歳余り。シルタンス国のスターリン・クラドルが未だ重鎮として名を連ねていることを思えば有り得ますし、何よりその二人が繋がりを得た場合、戦略の見直しが必要になる可能性がありますから」
「先んじて潰しておきたい、と」
コクリと首肯する薄斗を見て、一つ息を吐き捨てる。
主目的とその狙いはわかった。しかしどう足掻いても村を……民衆を襲撃するという作戦は無道の類であり、後ろ指を差されることは間違いない。それをシュルルクに背負わせることは間違いなくゼンリは望むまい。
書状を見ながら固まる俺のその思考を見抜いてか、薄斗はより口角を薄く上げて呟く。
「いやいや、一応破光軍には出撃の手筈は整えて貰ってますが、まだ率いる将軍の指定については決まってなくて。……いや、もっと正しく言うならその指令書に記入された人物が率いることになりますねぇ」
書状の名はシュルルク・ウィリンゼルと記入されている。だがもちろんこの書状が本人に渡されて初めて任命は果たされる。
薄斗はスルッと懐から小筒を取り出し、こちらに手を伸ばす。
「今なら、名を書き換えることは出来ますが……如何でしょう?」
無論、もう一度許可印も貰いに王に謁見する必要もありますが。と付け加えた彼の言葉は、正直半分くらいしか聞こえていなかった。
瞑目すること数瞬、次に目を開いて薄斗に視線を向けると、彼もまた言葉にせずとも理解したように踵を返してフォントの部屋に向かって歩き出し、遅れて俺も歩き出していた。
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それから二日を経て今に至る。飽くまで破光軍の作戦であるということから、率いているのは破天将軍位であっても兵は破光軍の兵を連れてきている。
それがこのザマだ。
王城から何日行程を予定していたのか知らないが、輜重隊まで準備して一つの村を襲撃するなど、無様を通り越して呆れるところであるが、まさかその輜重隊のせいでさらに行軍が遅れているという。良くもまぁこんな練度で先陣切りたいとか言えたものだ。
「……もうすぐ夕暮れか」
東に沈む太陽を返り見て、だいたいの時間帯を察する。西の空を見るとかなり遠くに夕陽の朱が照らす雲を見つける。
「すぐには……降らないか」
とはいえこのまま雲が発達すれば明日の昼過ぎには雨が降るだろうか。
出来れば今日中にトリュ山道は抜けきりたい。夜の進軍は危険も伴うが、流石にこれ以上の遅延は許容出来そうにない。
深いため息を吐き捨てて、俺は輜重隊が追い付いてくるのを待つように、緩やかな足並みで軽騎兵の馬足を合わせていた。