眼球スノードーム
目が覚めたら全ては真っ白だった。
俺は、「またか…」と呟いてガシガシと頭を掻く。
なにせこの両の眼球の中には、雪がぎっしりと積もっているのだから。
…何を言っているか分からないだろう、かく言う俺もあんまり分かっていない。
もうこれで一週間になるだろうか、最近の朝はいつも頭のあまりの冷たさに目が覚める。
頭蓋骨の中に氷の塊が二つある事を想像して見てほしい。
いつも前頭葉がキンキンに冷やされ、鼻水がシャーベット状になっての目覚めは、とっても不愉快だ。
…
そうあれは先週の金曜日、会社の飲み会の帰りだった。
いま俺が住むこの地方はやや北部の山手の土地柄らしく冬には雪が積もることが多い。その日はちらちらとこの冬初めての雪が降り出していた。
自宅に向かう道すがら、上機嫌の俺はふと傍らの街路樹の下の小さなお堂が気になった。
それは古いお地蔵さんが祭られていたが今は中は空となっていた。壊れかけた木の扉がいつもは開いているのだが、今日は閉じており、その中に微かに灯が見えた気がしたのだ。
キイ…、俺はそっとその木の扉を開いてみる。
そこには身長20㎝程の女の子が、日本酒の四合瓶とコップで酒を飲んでいた。
どうやら俺は思っていたよりも飲みすぎてしまっていたようだ。こんな幻が見えてしまうとは…。
首を振りながら扉を閉めようとする。
「なによ、あんた!」
その女の子がこちらを睨んで言う。
こ、これはっ、夢や幻じゃないのか?!
「人の部屋を勝手に覗き込んで、ごめんの一言も無いのっ?!」
女の子がばっと飛び出してくる。驚いて身を引く俺のすぐ顔の前で、なんと彼女はふわふわと浮かんでいるじゃないか!
呆気にとられる俺は、更にその台詞に耳を疑う。
「なによ驚いちゃって、あたしは雪の妖精よ」
訳が分からなかった。
「あぁん?」俺はつい、右耳に手を当てて何かのギャグのように聞き直してしまう。
女の子の右の眉がピクリと動く。
「耳が不自由なの?、ゆ・き・の・よ・う・せ・い!」
言葉としては聞き取れるが、俺の脳細胞は依然、理解を拒否していた。
「…なんだよそれは?」
腰に手を当てる彼女。
「あんた、頭まで不自由なのぉ?!」
よく考えればひどい罵詈雑言だが、俺はなぜ目の前の彼女が、全く雪の妖精と思えないのかが今は気になっていた。
そうだ、まず「違和感」だっ。
確かに、雪のようなドレス、背中の白い羽、白いベールに六角形の結晶の髪飾りなどパーツそれぞれはいかにもと思わせるのだが…。
しかし、いくら可憐で神秘的なパーツを組み合わせていても、大体、胡坐かいてコップ酒あおっていた時点で、妖精失格だろう。
おまけにメルヘンチックな清楚さや気高さがどうにも感じられなかった。
代わりにその体形や顔から感じるのは、「ふくよかさ」や「親しみやすさ」だ。
「雪の妖精」というコンセプトを致命的に勘違いしているとしか思えない。
そして次に、そう「不安感」!
まあ妖精というファンタジーな存在が物理的法則を無視するのは仕方ないのだろう。
だが、あんたの背中の小さな羽根で、その立派な肉体を浮遊させられるのか?!、との心配が先に立ってしまう。
絶句して思い悩んでいる様子の俺に、彼女は眉根にしわを寄せる。
「なによ、ぼーっと突っ立ってっ、言葉も不自由なの?!」
「…不自由、ふじゆう、ってうっせーな!」
流石の俺も段々、腹が立ってくる。
「あんたはその自由すぎる体脂肪を何とかしろよっ!!」
酒の勢いに任せてつい言ってしまう。
「な、なっ、なあっ、んですってえぇー!!」
今迄の目の前の妖精さんの暴言よりはずいぶんマシな発言と思うのだが、彼女は怒り心頭のようだ。
なんだか早回しのラジオ体操みたいに腕をぶん回してうるさくわめいてやがる。
どうもウマとかシカとかカラスが鳴くとか言っているようだ。
そしてびしりと俺を指さすと、言い放つ。
「あんたの中に雪を降らせてやるっ!」
「おお、できるもんならやってみろ!」
売り言葉に買い言葉、というやつか、俺はついそう言ってしまう。
雪の妖精はプイ、とそっぽを向くとぱっと身をひるがえし、一つの雪つむじとなって消え去った。
…
それ以来俺の眼球の中には、天から降る雪がそのまま積もるようになったということだ。
まあもっとも、実際に眼の中に雪が降りだすまで、俺はその事をすっかり忘れてしまっていたのだが…。
始めて眼球内に雪が降った時、鏡をのぞくと自分の瞳の中に、スノードームを除き込んだように白いものがしんしんと降り積もっていくのが見えた。
最初は綺麗だと少しは思えたが、すぐに危険極まりないものと分かった。
何しろ視界が下の方からどんどん真っ白くなり見えなくなっていくのだから…。
俺は首を振って昔語りを打ち消すと、手探りで洗面台に向かい、ドライヤーを探り当てスイッチを入れる。
ゴオー、と出てくる温風を目に当てる。
しばらくすると冷たい大量の涙と共に、ゆっくりと視界が上の方から開けていく。
20分ほどすると何とか普通に見えるようになって来る。
実は事はこれで終わりではない。
どうやら俺の眼の中に降り積もる雪は、上に屋根があろうが幾つビルなどの階層があろうが全く関係が無いようだ。
俺は七階建てマンションの三階に住んでいるが、どうも野ざらしのバケツと同じように、眼球の中に雪が降ってくるみたいだ。
すなわち、いくら温風などで溶かしても、雪が降り続くと何の効果も期待できず、目の前は一日中真っ白、という事になる!
これでは仕事にならない。俺は意を決して会社に転勤を申し入れた。
上司にどう説明するか悩んだが、下半分が真っ白になった両目を見せると、案外簡単に許可が下りた。
お陰で社会人として何か大事なものを失ってしまった気もするが仕方がない。
…
俺は二週間後、まぶしい太陽の下に居た。今日は転勤の初日。転勤先はかなり南方の地方の支店だ。
ここは真冬でも霜がうっすら降りる程度で、雪など降ることは無い。
これであの性悪妖精ともおさらばできる。俺は嬉しさのあまり、北の空に向かいアッカンベーをして上機嫌でベッドに入った。
…
目が覚めたら全ては真っ白だった。
俺は、言葉を失った。あの妖精、まさかこんな南国にまで雪を降らせられるのか?!
あいつは神か悪魔じゃないのか?!俺は枕元のリモコンをまさぐりTVをつける。
『―続いて気象情報です。この地方は今朝から異常な程の濃霧に覆われており…』
なんだ霧か、雪じゃなかったんだ、そういえば両目も冷たくないよな…
一瞬ほっとしかけた俺ははっとする。
「…って何で濃霧が俺の眼の中にあるんだよっ!」
俺は考えを巡らせ、達した結論は一つ!
「やっぱ、あの性悪妖精の仕業かあーっ!」
雪の妖精が居るなら、「霧の妖精」が居たっておかしくない。間違いない、あいつが霧の妖精にやらせたに違いないっ。
(アイツ、ここまでするのかっ)
俺は怒りが込み上げ、拳を握りしめる。
「よおーしっ、アンタがそのつもりならあっ、とことんやってやるぜ―!」
…
俺は転勤後すぐにも関わらず、またもや移動願を出した。
今度の上司も呆れかえっていたが、またもやあっという間に許可が下りた。まあ見開いた眼の中に、どよーんと霧が渦巻いているのをこれ見よがしに見せつけたのだから、さもありなん…。
お陰で人間にとって大事なものを多く失ってしまったようだがっ、仕方がない。
…
その二週間後、俺は熱帯の砂漠の国に来ていた。わが社の従業員が此処の支店に飛ばされる事は、「島流し」を意味する事だと聞いていたが、今俺はとても爽やかな心境だった。
激しい日の光、この国は雪や霧どころか降水すら全くない、熱く乾ききった土地だ。
「はんっ、ここならお前も何もできないだろっ」
俺は北の空に向かい、尻を出してぺんぺんと叩いて見せた。
…
目が覚めたら全ては真っ白だった。
「勘弁してくれよ…」俺は一時間ほど打ちひしがれてベッドにぐでーっ、と横たわるしかなかった。
今度のこれは何だよ…、俺は思わずホテルのTVをつけていた。
「Warning of Sandstorm」という言葉が聞き取れる。
「サンドストーム、砂嵐か…、えっ、ええっ!」
なら、この眼の中の『白』は砂嵐?!
「アイツッ、まさかこんな所まで来て、『砂嵐の妖精』とかに話をつけたっていうのかあーぁっ!!」
熱帯に居るのに、俺は冷や汗がにじむのを感じていた。
―バキッ、そして、胸の奥から心の折れる音が響いた。
…
二週間後、俺は超高級アイスのパイントサイズを抱えて、初めてあの『妖精』と会った街路樹の下の小さなお堂を訪れていた。
もう冬も終わって春の訪れの頃、残雪が残るその場に俺は超高級アイスをその場にささげると、ズボンが汚れるのも構わず土下座をかましてしまう。
「すまんっ、俺が悪かったっ、この通り謝るっ、供え物も捧げるっ、お願いだあっ!」
ジョギングしているおばさんが不思議そうな顔で、わざと避けて走っていくのも気にせず、俺は頭を下げ続ける。
と、思ったよりもすぐに、あの雪の妖精は小さなお堂の中から姿を現す。
「えー、なによ、そんな事してくれなくてもいいのにー」
妖精は前に会った時とは大違いの満面の笑顔で、何だか機嫌が良さそうだ。
これは、お供え物と俺の土下座が効いているのか?!
「い、いやっ、俺が悪かったっ、許してくれ!」
彼女はふと俺の顔を間近に覗き込むと、にっこり笑う。
「あーら、よく見るとアナタいい男ねーえ」
「え?」本当に機嫌が良さそうだ、これは超高級アイスをシンプルにバニラにしたのが正解だったか?
「あは、何かあなたに恩返ししなくっちゃ、ねえ?」
「お、恩返し?」
何だこれは、思ってもみない展開だ。俺ははっとする。
(まさかこれはっ、『鶴の恩返し』コースなのか、いやっ、『雪の妖精』だけに『雪女』コースもありえるか、でも、それって…)
俺の脳細胞は激しく昔話を検索する。
(それって、『私を彼女にして』or『奥さんにして』コースだよなっ)
女の子からそう言われるなんて、これは男にとって最高のシチュエーションの一つでは?!
しかし俺は一瞬正気に戻る。
(い、いや、俺っ、よく考えろっ、あの体型、あの顔、おまけにあの性格だぞっ)
しかしこの際考えることに意味は無くなっていた。
『ひねくれ性悪』と『自由すぎる体脂肪』の筈が、すでにその笑顔だけで「ツンデレキャラ」と「グラマラスな巨乳」にしか思えなくなっていた。
俺の本能は何かのアニメシーンのように服を脱ぎ捨て、パンイチでダイブする心境にさえなってしまっていた。
「お願いいたしますっ」 思わず再度土下座をかましてしまう。
「うふ、じゃあ明日、恩返しにお伺いするから待っててね」
俺はその夜念入りに風呂で身体を洗うと、わくわく気分でベッドに入った。
…
目が覚めたら全ては真っ白だった。
おまけにあの紛うこと無き、前頭葉がキンキンに冷やされ、鼻水がシャーベット状になったこの不愉快な感覚…
(なんだこれ、わけわかんねーよ…)
「ハアーイッ、お早うっー!」
聞きなれた声が背後から響き、俺は思わず枕元に向き直る、が、当然真っ白しか見えない。
「あーそうだったね、何も見えないんだー、きゃははっ」
耳ざわりな笑いに文句を言おうとしたその瞬間、あの雪の妖精が視界一杯に広がってくる。
「…何だよこれはっ!」
つまりまた俺の眼球に雪が積もり、こいつはそれに姿を現して…。
俺はどきりとする、今、もう春じゃん!もう外の雪はみんな溶けてるのに、どういう事だよっ。
「何で今でも雪が…」
俺の文句をガン無視して、眼球の中で雪の妖精の一人語りが始まった。
「アンタに腹立ってさー、南の『霧の妖精』に話つけに行ったまではましだったんだよー」
人の迷惑も顧みず、そいつは語り続ける。
「でも熱帯の砂漠の国に行った時にはヒドくてさ、聞いてよー」
聞いても何も…、眼球の中でわめき続けるコイツの話を聞く以外の選択肢など、俺にはあろうはずもなかった。
「あそこってー、嫌になるほど遠くて、おまけにメッチャ熱苦しくてさー」
熱苦しいのはお前の肉体と話し方だっ!
「砂嵐の妖精って女の子かなって思うじゃなーい?、それどころかー何か大昔、悪魔やってブイブイ言わせてたっていう、いかついおっさんだったんだよー」
えっ、砂嵐、悪魔…?、ちょっと待てっ、それってメソポタミアやバビロニアなんかの伝説の魔王とかじゃないのかっ!
「『俺は古代文明を滅ぼしたんだぞおっ』だなんてー、イキったヤンキーや半グレみたいな、いけ好かないオヤジでねー」
おいっ、文明の滅亡を昔のやんちゃ自慢みたいにするなあっ!
「それにっ、あたしのお尻触るんだよ、もーサイテー」
あーあ伝説の魔王が、どっかの中小企業のエロ社長にされちゃってるよ…
「でさー、そいつのツラ引っぱたいて帰ってきて、酒ひっかけてぐっすり寝たらサー、あんたの事コロッと忘れちゃっててー」
「はああっ?!」
「まじー、こないだアンタがアイス持ってきた時ー、何の事かぜーんぜん分からなくてさー、あはっ、ウケるーっ、きゃははっ」
「…な、なあっ!!」
「でー、高級アイスはいいケドー、バニラ一択ってセンス皆無ー、海より深く反省しなー、ぎゃはっ」
大笑いしてのけ反って手をバシバシ叩くソイツに、俺は山よりも高くムカついてくる。
「なあっ、恩返ししに来たんだろっ」
俺は叫んでしまう。
「恩返しって、彼女か奥さんになるって事なんじゃ…」
眼の中の妖精は呆れかえった様に言う。
「えーアンタ、そんな事考えてたのっ、どスケベッ!」
下心のあった俺はたじろいでしまうが、それでも何とか意地を張って言い返す。
「妖精なら人間に変身するぐらい出来るだろ」
そいつは鼻から、フンッ、と息を漏らす。
「逆に聞くケドー、なんで雪の妖精が人間の姿なんかにならなきゃいけないのカナー?」
腕を組み横目でにらむ。
「雪の妖精って、雪を降らせるのが仕事なんだよ。そんな能力意味ねえじゃーん」
「身も蓋もない言い方だなっ」
「でもさー、仮に生身の人間がアタシを抱いたってさー、雪山に全裸でアタックするようなもんじゃん、一発で凍死だねー、きゃはっ、これまたウケるーっ!」
「…ぐぬぬっ」
「だーかーらー、これからはアタシがあんたの眼の中に雪をブチ込んで―、毎朝叩き起こしてやるからさー、感謝しな」
「どういう理屈だよ、それっ!」
折れたはずの俺の心に、再び反骨の心が盛り上がってくる。
「このぉっ、三百六十五日着ぐるみ女があっ」
「…な、なああっ、何よこのヘタレ童貞がっ!」
「うっせーっ、そのナマ肉襦袢、さっさと脱げよぉっ!!」
「なあんですってええーっ!!」
妖精は何か口汚く罵って腕を振り回す。しかし狭い俺の眼球内でそんなことをすると当然…
ガンッー!
眼球内から脳に打撃を加えられた俺はふ、と意識が遠くなりそのままベッドに倒れ込んでしまった。
…
「冷たっ!!」
俺は顔面の冷たさに飛び起きた。
見るとどうやらうつぶせで、鼻から上を枕に埋めて寝ていたようだ。
一瞬何が何だか分からなかったが、だんだんと記憶が蘇る。
そういえばあの妖精が目の中に…、あれ?
眼は普通に見えていた。
触ると枕は冷たくぐっしょりと濡れている。どうも枕にうつぶせているうちに、眼の中の雪は自然解凍で溶けてしまったようだ。
あの妖精、どこ行った?、俺はきょろきょろと辺りを見回す。
「…ね、ねえ、ちょっとぉー、ねえったらぁ…」
ふと気づくと、弱弱しい声が枕から聞こえてくる。
「あんたが目を閉じて、おまけに枕にうつぶせになったから、出られなくなっちゃってサー、雪と一緒に溶けちゃった、あはは…」
媚びたような照れ笑いの声だ。
「ねー、この枕ごと冷凍室で凍らせてくれないかなあ、氷の結晶から蘇られるから…、ね、お願いっ」
俺は枕を引っ掴むと急いで台所に向かう。そして冷蔵庫の…、
その横のゴミ箱に枕を思いっ切り叩きこんだ。
終り