居合わせる男
餃子を食べながら、ヤスタカは思いっきり顔をしかめていた。餃子がまずかったわけではない。むしろもっちりした皮とあふれ出す肉汁、そこにシャキシャキとした人工キャベツの食感が相まってたいへん美味であった。ラー油を使わず酢醤油で食べる派のヤスタカとしては、タレがカスタマイズ可なのもポイントが高い。無心で食べていたくらいだ。
昼食時の中華料理屋はほぼ満席の状態で、ほどほどに騒がしい。誰も彼も自分の注文した料理や、同伴者との会話で頭がいっぱいだ。ラーメン餃子セットを食べる独身者のヤスタカに注意を払う人間などいなかった。
ヤスタカが餃子を飲み込み、相棒の名前を呼ぶと、キラキラした結晶が端末の上で揺れた。マヤと対峙した時よりも明らかに揺れが激しく、何か怒っているかのような雰囲気だ。
「ウキョウ、そのふざけた書き込みをしてるのはどこの誰だ」
『今割り出してる。こいつ常習者だぞ、外部サーバーをいくつも経由してやがる。大陸ノア・ドームのサーバーまで使って――割れた』
「氏名と所属先から行こう」
『フトシ・ナカヤマ。投資家。スペクターのメンバーだ。前に割ったけどとりあえず泳がせてたやつ』
「あー、あの三下……。確かユーザーネームは……なんだっけ、宇宙船みたいな名前の」
『ボイジャーな』
餃子を完食し、ラーメンをすすりながら、ヤスタカはウキョウの作業を眺めた。画面にはでかでかと「PAIRが人間を殺す時代の幕開け」と書かれていた。その書き込みはSNS上に大量ポップしており、多くのユーザーが困惑の声を上げていた。SNSというものは規模が大きくなるのに比例してセキュリティのほころびが指摘されるものだが、これだけ大胆かつ大規模に荒らされるのは珍しかった。
ウキョウがアカウント上のクリーンアップを開始すると同時、ウィンドウに出ていた書き込みは消えた。ヤスタカはキクラゲをもしゃもしゃ食べながら、ユーザーたちの反応を眺めた。運営への不満やセキュリティへの不安、そして「PAIRが人を殺す」というセンシティブなワードに対するリアクション。SNS運営側の対応はややスピードに欠けるものの、この手のイタズラはたいてい簡単なプロセスで出来ているため、すぐに対応されることは想像に難くない。だがこの文言は記録として残る。
ネギが絡んだ麺をすすりながら、ヤスタカはポップした書き込みのプログラムコードを読んでいた。単純だがよく出来ている。SNSと連携するアプリケーションの脆弱性を突いた、なかなかの一撃だった。これが悪用されずに正式なバグ報告として挙がっていたなら、ヤスタカも素直に賛辞を送っただろう。
「PAIRが人を殺す、ね……」
『言われるとやっぱ気分良くねえわ』
「だろうな。お前たちはロボット工学三原則に沿って作られてるわけだし。出来るわけがないことで濡れ衣着せられそうになってるんだもんな。……まあ人間は潜在的にPAIRを恐れてるから、そういう言いがかりはこの先もずっと出るだろうな」
『オレたちは人間を害さない。人間がそう作ったんじゃないか。最初のPAIRが生まれてもう百年近く経つのに、まだそこの考えがアップデートされてない。価値観の更新に時間かかりすぎだ』
「まあまあ――人間ってのはこの世のすべてがうっすら信頼できない生き物なんだよ」
もやしと麺を一気に頬張り、ヤスタカは目を細めた。ノア・ドーム内の食品はほとんどDウィートなどの万能作物由来のものだが、どれも科学的に『人間が最もおいしいと感じる成分』を突き詰めて調整されている。本物よりもよく出来た人工物なのだ。特にノア・ドーム・トーキョーは大陸のノア・ドームよりも食にうるさい面があり、グルメの面では抜きん出ていた。ラーメンひとつとっても最高にうまい。
しばらく無心で麺をすすったあと、ヤスタカはとっておいた煮卵を口に放り込んだ。とろりとした黄身とぷるぷるの白身、そしてラーメンスープの風味が調和する。しばらくそのうまさに浸ったあと、ヤスタカはふとウキョウに声をかけた。
「なあウキョウ。なんでスペクターはこのタイミングでそんなことを言い出したんだ。この25世紀にノストラダムスごっこか?」
『さあな。支持者獲得でも狙ってんじゃねえの。陰謀論ってのは案外いつの時代でも強いし』
ヤスタカはラーメンの器を持ち上げ、スープを飲み干した。ノア・ドームが出来る前はラーメンスープが健康に及ぼす影響についての議論も盛んだったが、現代ではそのような問題はない。ユーザーが食べたいものを我慢しなくても、PAIRは要望を守りつつ適切な食品を提示できるからだ。数万に及ぶ食品物質すべてが製造過程で調整され、PAIRが成分表示をもとにユーザーの健康を守っている。
皿を空にすると、ヤスタカは水を飲んでひと息ついた。そこで普段よりも相棒が静かなことに気付き、ウキョウへと視線をやる。結晶のアバターはテーブルの上で静かに回転していた。
「どうしたウキョウ、考え事か」
『ああ、まあ。なんか、スペクターってこんなちゃっちい組織だったかなと』
「ちゃっちい……いや結構前からこんなんだろ」
『お前が入局したときにはもう今みたいな感じだったからな。だが記録を見ると、ここ五、六年くらいで急速に組織の劣化が進んでいる印象だ。結成されたのは十年くらい前だけど、そのときは少数精鋭の凄腕クラッカー集団って感じだった。褒めるのは癪だが、当時としちゃ画期的で鮮やかなやり口だったよ。襲うのは公営機関や金融企業のシステムってあたりも徹底してた。全体的に謎めいてたけど思想犯っぽさがあったな』
「今みたいにSNSで怪文書流す集団じゃなかったってわけか」
『おう。まあ組織ってのは変わるもんだし、メンバーが変わったんだろうとしか言えねえけど』
ウキョウが端末へ戻り、決済画面を表示する。ヤスタカはそれを確認し、会計を済ませて立ち上がった。テーブルの間を縫うようにして店を出る。
空はからりと晴れていた。ヤスタカはふとマヤのことを思い出し、ウキョウに尋ねた。
「モリスエさんもスペクターを調べてたな。コトブキさんもそれを気にしているようだった」
『ああ。なんかいろいろ揃い過ぎてる感がある』
「PAIRが人間を殺す、ね……。そう考えるとモリスエさんの自殺に対する犯行声明みたいにも思えるな」
『それにしちゃ日が空き過ぎてるだろ。まあでも……タイミング的にそんな気がするのもわかる。ちょっと潜ってスペクターの動きを探るか?』
「ほどほどに」
『曖昧な概念はやめろ』
「はいはい。家に帰ったら俺も参加するから、とりあえずさっきの……なんだっけ、宇宙船みたいな名前のやつ」
『ボイジャー』
「そうそいつ。そいつの動向観察しててくれ。あと、スペクターのほかのメンバーの連絡先がつかめそうなら頼む」
『あいよ。あいつセキュリティ甘いからたぶんいける』
ヤスタカは空を見上げた。その空にそびえる巨大な電波塔を見つめ、目を細める。まだぬるい秋風を受け、なんとなく感傷的な気分が去来する。ヤスタカは息を吐き出し、ゆっくりと歩き出した。
チューブトレインの駅へと続く階段を下り、明るい駅構内へと足を踏み入れる。駅構内には基本的に販売店などはなく、せいぜい飲料と軽食の自販機がある程度だ。改札をくぐる際にはPAIRによる認証が行われる。券売機という概念はノア・ドーム内には存在しない。入場記録と出場記録をもとに料金が精算されるだけだ。学生などであればPAIRがその情報を有しているため、料金は自動で割引される。
車両が来るのを待っていると、高校生くらいの少女のグループがヤスタカの後ろに並んだ。この時間帯に出歩いているということは、テスト期間だろうかとヤスタカは思った。彼女たちは自分の前に立っている男のことなど気にもせず、おしゃべりを始めた。
「なんかさっき障害復旧の報告出てたよね」
「あー、変なポップアップ出たんだってね。PAIRが人を殺すーとか」
「えーこっわ。つかPAIRが人殺すとかどうやんの? AIが包丁持って追っかけてくるとかありえなくない? なに、端末から感電とかするの?」
「なにそれやっば。テロじゃん、EMPじゃん」
「でも実際無理っしょ、安全装置あるし。ま、確かにPAIRいないとかマジ詰むけど」
「わかるー。チューブ乗れないし買い物も出来ないじゃんね! あれっ、マジ死んだも同然じゃん、無理ー」
笑い声が上がる。まもなくトレインが到着するというアナウンスが流れた。ホームドアのランプが点滅する。
女の子たちはまだおしゃべりを続けている。声からしてグループは三人だった。
「ねえ、それで――ユリ?」
ホームにトレインが入って来た。その音にかぶさるように、ゴッと鈍い音がした。
「ちょっと、なに――」
怯えたような少女の声に、ヤスタカはとうとう振り向いた。そして目を見開いた。
黒髪の少女が、壁に頭を打ち付けていた。誰かにそうされたわけでもなく、自分で壁に手をつき、勢いよく頭を打ち付けている。壁にぶつかるたびに鈍い音が響く。どう見ても正常ではなかった。同行者の少女二人は何が起きているのかまるでわかっていない様子だ。戸惑ったように友人の奇行を見つめていた。
ヤスタカは二人を押しのけ、壁に頭を打ち付けている少女の手をつかんだ。少女の額は真っ赤になっていた。前髪の間から一筋血が滴り、シャーベットブルーのブラウスに染みを作っていく。少女の黒い目はうつろで焦点が定まっていなかった。ヤスタカは背筋を冷たいものが駆け上がるのを感じた。
「落ち着いて。自分が何をしてるか、わかりますか?」
ヤスタカの問いかけに少女が口をはくはくと動かした。声は聞こえているようだ。だが答えと呼べるような言葉は出て来なかった。奇妙なうめき声とともに、少女はヤスタカを振り払って再び壁に頭を打ち付けた。今度は血が飛び散った。
「だめだ! それ以上やったら本当に死ぬぞ!」
『ヤスタカ、ヘルスプログラムの規定により緊急通報した。およそ三分で救急メディクロイド隊が到着する。それまで押さえてろ』
「マジかよ――誰か手を貸してくれ!」
トレインから出てきた人たちも、騒ぎを聞きつけて何事かと集まっていた。しかし誰もが怯えた目でヤスタカと少女を見ていた。少女の友人たちはようやく理解が追いついたのか、その場に座り込んでしまっている。人ごみの中から勇敢な男性がひとり飛び出し、ヤスタカと一緒に少女を押さえにかかった。成人男性に二人に羽交い絞めにされる格好になりながらも、少女はもがき、うめいていた。気でも触れたのかというほどの狂暴性だった。
構内は騒然としていた。係員詰所には呼び出し申請が殺到し、イザナミへも緊急通報が複数届いていた。情報はすぐに発信され、尾ひれがついて拡散される。大混乱と言って差し支えないレベルだ。そんな中、ウキョウがつとめてほがらかな声を出した。
『オーケイ悪い報せだヤスタカ、ストレスハザードが起きる。備えろ』
「備えろって……ッこういうストレス耐性がねえんだよ現代は!」
周囲でいっせいにPAIRたちが『ストレスハザードを検知』とアナウンスを始めた。それぞれがそれぞれのパートナーを守るために緩和措置を実行する。次々とホログラフィーのオーブが現れ、ユーザーを隔離していく。切羽詰まった現場にもかかわらず、多くの人間が自分とPAIRのシェルターへと逃げ込んでしまった格好だ。ヤスタカは歯噛みし、一緒に少女を押さえていた男性に「すいませんあと少しがんばってください」と告げた。幸い相手は力強くうなずいてくれた。
精神的強度には個人差がある。だからこそPAIRは自身のパートナーを最優先する。これは社会的に正しい判断なのだ。システムの存在意義をまっとうしているともいえる。ヤスタカはそれを理解しつつもやるせない気持ちになった。そして唐突に気付いた。
「なんで彼女のPAIRは緩和措置をとらないんだ……?」
ヤスタカは暴れる少女の腕を見た。端末は正常に作動している。だがPAIRからの応答はない。ヤスタカがなんとか端末に手を伸ばそうとすると、ウキョウが『よせ』と警告した。
『今は触るな。ちゃんと緩和措置は実行されてる』
「じゃあなんで――」
そこで警報音とともにメディクロイドが到着した。ヤスタカの胸のあたりまでの高さがある巨大な卵型のロボットだ。脚部には四つのボールタイヤがついており、さまざまな地形に対応している。それが列をなして走ってくる。ストレスハザードを検知した治安局のロボットも駆けつけていた。
ヤスタカがほっとしたのもつかの間、少女がヤスタカにつかみかかった。
「う、ぅぅああああ、ああぁぁ――」
「ッ、落ち着いて!」
意味不明の叫びをあげながら、少女はヤスタカの服をつかんで叫んだ。焦点の合わなかった目が一瞬光を取り戻し、少女が首を振る。苦悶の表情を浮かべ、声を詰まらせた。そして喉の奥から絞り出すような声が漏れる。
「ち、が……いや、ぅう……っ!」
少女は強くヤスタカの服を握り締めた。拳が白く浮き上がるほどだ。ヤスタカは引っかかれないように少女の腕をつかみ返した。視界に入った端末は赤い警告色の画面を表示し、ウキョウの強い警戒を伝えている。
『――ライフスコアレッドゾーンの市民を確認。ただちに医療機関へ搬送します』
メディクロイドがアームを伸ばし、ヤスタカから少女を引きはがし、拘束した。非常時の緊急拘束はアークシステムが公式に認めている。数体のメディクロイドが展開し、エアマット付きの担架を作る。そこに少女を寝かせて固定すると、すぐさま淡いグリーンのホログラフィーが少女を覆いつくした。傷病者のプライバシー保護のための措置だ。ホログラフィーにまぎれて一瞬PAIRらしきアバターが見えた。メディクロイドはなめらかな動きで走り出し、早々にホームから出て行った。
ヤスタカは協力してくれた男性に向き直り、礼を言った。相手はいかにも好青年といった風貌で、ヤスタカにも「無我夢中だったので」と答えた。ライフスコア高そうな子だな、とヤスタカは内心失礼な判断を下していた。
周囲の緊急保護オーブも徐々に解除されていく。治安局のロボットが緩和措置を実行したPAIRたちからログを収集し、乗降客たちに「インシデント証明書を発行します」とアナウンスしている。インシデント証明書は、何らかの事件、事故が起きた際、巻き込まれたユーザーのPAIRに対して発行される。いわゆる遅延証明書である。
ヤスタカは壁に寄りかかってため息をついた。シャツが皺だらけだ。そこに治安局のロボットが一体やって来た。
『お疲れ様です、監察官』
「どうも。ログは提供します」
『休日にもかかわらず治安維持への協力、感謝します』
ウキョウが端末から飛び出し、粛々とログを提出する。そしてロボットが去っていくのを見送ったあとで悪態をついた。
『なぁーにがインシデントだクソが。今SNSどうなってると思ってんだあいつら』
「お前そのうちアークシステムから矯正指導入りそうだな。それでなんだっけ?」
『治安局は明日から大変だってお知らせだよ』
中空にウィンドウが現れる。そこに表示されるSNSはよくない意味で盛り上がっていた。事件に関するワードが泡のように湧き出る。ここに居合わせていたユーザーたちが撮った動画も出回り始めていた。いくらPAIRが諫めたところでこういう動画は必ず出てくる。どうにかして驚きや衝撃を共有したいという人間の欲求は、PAIRでは押さえきれない。その代わり、健康省の精神衛生局が有害と判断してすぐ削除する。
ホロウィンドウを流れていく情報を見ているうち、ヤスタカはぎくりと身体をこわばらせた。
「……ここだけじゃなかったのか!」
『おう。同時に複数個所で発生したんだよ。急に自殺企図するやつが。しかも今さっきご丁寧にスペクターが犯行声明を出した』
「は?」
『犯行声明だよ。PAIRは諸君の魂の片割れなどではなく、搾取されることへの反感を知ったんだと言い出した』
「…………」
ヤスタカは額を押さえた。頭痛がしてきそうだった。
「SFの見過ぎだ……」
『そういうコンテンツが根強く支持されてるってことは、そうなるかもしれないっていう不安や疑念があるからだろ。おまけにこんな事件まで起こった。スペクターが首謀者かどうかなんてこの際どうだっていい。このタイミングでこの言説だぞ。最悪だ。どっかで信じる馬鹿が出る。PAIRへの不信を評議会にでも送られてみろ、オカルトサイトよりはるかに厄介で有害だ』
「どこまで面倒なんだ……。大体、さっきの女の子たちだって言ってただろ、俺たちはPAIRがいなくちゃなんにも出来ないんだぞ。そういう時代なんだ。文明社会で生きてる人間が今更洞穴に戻れないのと同じだ。給与の管理も税金の支払いも、トレインの乗降やSNSのアカウント、果ては食事メニューまで全部お前たちに丸投げして管理してもらってる。PAIRが怖くなったからってPAIRを排除できるか? 出来るわけないだろ」
『でもお問い合わせフォームに、このままで大丈夫ですかってご意見が絶対入ってくる』
「ああ……クソ」
ヤスタカは悪態をつき、天を仰いだ。もうどこかへ出かけようなんて楽天的なことを考えられる空気ではない。
チューブトレインはすでに定刻通りの運転に戻っていた。