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コーヒーをたしなむ男

 マヤは珈琲館の前できょろきょろと周囲を見回した。ヤスタカの姿は見えない。隣の店の売り場をのぞいてみても、それらしき姿は見つけられなかった。

 しばらく考えたが、マヤは思い切って珈琲館のドアを開けた。ドアベルがカラカラと音を立てる。その音にマヤはぎょっとした。入店時にPAIRによる個人認証がなされる時代に、こんな古風なものがあること自体が驚きだった。

「いらっしゃいませー」

 カウンターに立っていた初老の男性がほほえむ。男性は、マヤからすると父親より少し上の世代といったふうに見えた。印象的な茶色いエプロンにはカモメらしき鳥の刺繍が入っている。

 淡いオレンジ色の照明に照らされた店内には、アンティーク調の置時計やカップボードが置かれていた。全体的にレトロ感を意識した、落ち着いた雰囲気の店だ。あふれ出る高級そうな香りにマヤは少し面食らった。カジュアルな格好で来るには少々抵抗がある。

 さらに、店内の客はカウンターにいるヤスタカだけで、マヤはしくじったことに気付いた。これではあとを尾けてきたことが丸分かりだ。実際ヤスタカは怪訝な顔をした。

「コトブキさん?」

「あっ、き、奇遇ですねトウドウ監察官」

「ええ、そうですね」

 店主らしき人物が「知り合い?」とヤスタカに尋ねた。ヤスタカが濁すように返す。話しぶりからして店主とヤスタカにはそれなりの面識があるらしかった。マヤはますます焦りながら、引くくらいなら当たって砕けろとばかりに進み出た。

「よければお隣よろしいですか」

「構いませんが……。むしろいいんですか、せっかくの休日なのに。気を遣うから職場の人とは会いたくないって人が多いでしょう」

「いえいえ全然。一度お話ししたいなと思ってて」

「ああ……そうでしたか。どうぞ」

 何か得心がいったという顔でヤスタカは隣の席を示した。マヤは椅子を引き、そこに座った。椅子はデザイン性重視でやや高さがあり、マヤが座ると足が地面から浮く。パンプスを履いた足がぷらぷらと頼りなく空を掻いた。

 腕の端末からミルクが顔を出し、ドリンクのメニュー表を表示した。マヤはそれを眺め、なかなか強気の価格設定を確認した。そしてフードメニューのページを見て目を細める。そうしたところで値段は変わらないのだが、ある程度の覚悟が必要ではあった。黙っているマヤを見て、悩んでいると勘違いしたのか、ヤスタカが声をかける。

「コーヒーお好きなんですか?」

「いえ、なんとなく雰囲気が素敵だから入ってみようかなと思っただけで、そんなに詳しくはないです……。トウドウ監察官は詳しいんですか?」

「詳しいというほどではないですね。……あとオフなので『監察官』じゃなくていいですよ」

「す、すみません」

「謝らないでください。休みの日にそう呼ばれるのが好きじゃないというだけで……こっちがお願いする立場です。それに、オフでも役職名で呼ばないと怒るって人も結構いますし、コトブキさんは間違っていない」

 ヤスタカは儀礼的な慰めをよこした。それでも第一印象よりは相当マシな対応だったので、マヤはヤスタカの評価を上方修正した。

 二人が話している間に、店主はサイフォンを準備していた。マヤは実物を見るのは初めてだったので、目を丸くしてその様子を見ていた。火でフラスコを熱して湯を沸かしつつ、ドリッパーとコーヒーの入った漏斗を設置し、ゆっくりと抽出していく。香ばしい香りが店いっぱいに広がる。フラスコから漏斗に上がった熱湯がコーヒー粉と混ざっていき、店主がヘラでそれをかき混ぜる。湯の上昇が止まると、しばらくして店主は火を止め、コーヒーがフラスコ内に下りてくるのを待った。そして具合を見ながらコーヒーをカップへと移し、ヤスタカの前へと出す。

「お先にこちら」

「どうも」

 湯気の立つコーヒーカップを前に、ヤスタカの端末から青緑色のPAIRが飛び出した。

『今日のブレンドはコロンビアコーヒーがベースだな。いい香りだ』

 PAIRは感覚器官を持たないため、パートナーが記録した数値をもとに反応する。店主はウキョウに対し、気さくに笑いかけた。

「こんにちは、ウキョウくん。ちなみに何をブレンドしたかわかりますか?」

『香りの数値は微妙だが、マダガスカル系?』

「当たりです。さすがですね」

 店主が賞賛を送る。ウキョウはキラキラのエフェクトを散らしたあと、ヤスタカの端末へと引っ込んだ。それを見ていたヤスタカはカップに手を伸ばしたが、熱かったのかすっと手を引っ込めた。

 マヤは店主と目が合った。ずっと店主の動きに見入っていたが、そろそろ注文をしたほうがいいタイミングだ。はっとしてメニュー表を見るが、コーヒーの種類などてんでわからない。店主はそれを察して助け舟を出してくれた。

「女性のお客さんはカフェラテやカプチーノを頼む方が多いですね」

「じゃあカフェラテで……」

「ホットとアイスがありますが、どちらにしますか?」

「ホットで」

「かしこまりました」

 店主がカウンターの奥でカフェラテの用意を始める。マヤはちらりとヤスタカのほうを見た。ぼーっとコーヒーの表面を眺めていたヤスタカが口を開く。

「仕事の話はナシで、と言いたいところですが、そちらが本題ですよね」

「はい。監さ――じゃない、トウドウさんからモリスエ先輩のことをお聞きしたくて」

「おわかりだと思いますが、あまり詳しいことはお話しできません。機密保持の観点から、ここで言えるのは当たり障りのなさそうな情報だけです。それでもいいですか」

「もちろんです。トウドウさんは、自殺か事故か、それとも事件か、どうお考えですか」

「現段階では……いえ、記録上は衝動的行動、自殺としか考えられないですね。PAIRの解析も終わりましたが、改竄や不正アクセスの痕跡はありませんでした」

「ライフスコアもですか」

 マヤの指摘を受け、ヤスタカが首を傾げた。それから不思議そうに尋ねる。

「モリスエさんのライフスコアに手が加えられているとでも?」

「健康省の件で前例があるわけですし、疑ってもいいかと思いまして」

 ヤスタカは「はあ」と困った様子でうなった。

「記録に残っているモリスエさんのスコアはほとんど正常値でしたよ。コトブキさんの主張通り、『死にそうもない数値』です。それでも改竄を疑っているんですか?」

「自殺直前の突発的な数値変動はやはりおかしいです。何か異常があって、それを隠すために手が加えられたのではと」

「そうでしたか。それは失礼しました。しかしライフスコア改竄の可能性はこちらとしてはあまり考えていないところですね。えーと、細かいことは私が説明すると長いので……ウキョウ、簡単にまとめてくれ」

『了解』

 装着型端末から青緑色の結晶が浮かび上がる。そしてマヤに向けて健康省スキャンダルの資料を提示した。

『健康省によるライフスコアの改竄は、あるハラスメントのもみ消しのために行われたものです。外部からの攻撃とはまったく別種で、上司が管理者権限を悪用して部下のライフスコアに手を加えた――これは健康省の持つクローズドな構造が災いした問題と考えられます。今回のように他局の職員のライフスコアにまで手を出せるような、万能なやり方ではありません』

 よどみない説明に、マヤはただうなずいた。そのついでに、事件発覚当時はニュースで同じような内容が延々と流されていたことも思い出した。各省庁はスキャンダルについて、あくまでも健康省内輪での問題とし、「うちではそんなこと出来ません」と繰り返し主張していた。それと同時に、少しでも怪しい動きは即摘発するくらいの勢いで内部調査が行われていた。同じ轍を踏むことになったら敵わないという思惑も強く働いていたのだろう。

 健康局だけでなく、あらゆる企業や公共団体において、上司は部下のライフスコアを目にする。それは管理者の責任ゆえだ。だが普通は改竄までは出来ない。ヘルスプログラムが提供したデータを利用するだけだ。だがヘルスプログラムのお膝元である健康省では一部アナログの作業が認められており、抜け穴があった。どちらかというと人為的なミスの側面である。

「健康局はあれだけのスキャンダルになりましたし、イザナミのセキュリティレベルも大幅に更新されることになりました。このタイミングでライフスコアの改竄を試みるというのは、なかなか命知らずな選択だと思いますよ」

 ヤスタカがそこで言葉を切った。店主が近付いてきたのを察しての行動だ。

 店主はマヤの前にカフェラテのカップを置いた。一緒にレーズンサンドの乗った小皿を置いて行く。マヤが店主を見ると、「おまけです」と茶目っ気たっぷりの返事が返って来た。二人で食べろということらしい。マヤがヤスタカのほうを見ると、彼は短く「どうぞ」と言った。

 マヤはカフェラテを一口飲み、ほうと息を吐いた。そしてレーズンサンドに手を伸ばす。ひとくちかじれば、洋酒の香りが漂うクリームと、やわらかくしっとりしたクッキーの風味が広がる。生地は甘さ控えめで、レーズンの味がより際立つ。甘すぎることもなく絶妙な加減だ。糖分が全身にいきわたり、マヤは少しリラックスした。そしてミルクを一瞥し、ヤスタカへと目を戻す。

「では外部からの攻撃はどうでしょう。モリスエ先輩はスペクターを調べていましたよね?」

 優秀なハッカーがそろったスペクターならば、ライフスコア算出にかかわるイザナミへの攻撃も可能かもしれない。マヤの主張を聞いたヤスタカは目を細め、考えるような仕草を見せた。

「スペクターによるライフスコア書き換えの可能性ですか。それについては……まだ言及は控えさせてください。確証が何もない」

「トウドウさんの個人的な考えでいいのですが、技術的に可能だと思いますか?」

「それは……。ライフスコア改竄なんてイザナミへの――社会システムへの挑戦のようなものですよ。本気でやるとなると相当の技術者と設備が必要です。潤沢な資金も必要だ。それだけの条件をそろえられる組織なら、なぜモリスエさんの死を自然な形にしなかったんですか? 今にも自殺しそうな数値に改竄するだけでいいのに、やっていることが正反対ですよ」

 核心を突かれ、マヤは返答に窮した。ウキョウがひらひらと光の粒子を散らし、ヤスタカの端末へと戻っていく。

 結局行き詰まってしまうのだ。モリスエがなんらかの陰謀に巻き込まれ、消されたのなら、その死に際はもっと自然なものになるはずだ。疑いの目を向けられないような理由づけもされるだろう。それこそが陰謀のとるべき姿である。だが今回はすでにおかしな点が多々ある。こうして疑われてしまっている時点で、犯罪組織のやり方としては三流だ。

 モリスエは自殺ではないとマヤは信じて行動している。だが他殺の確証も得られていない。ヤスタカと話すうちに、スペクターが関与しているとしても不自然すぎることもわかった。八方ふさがりの現実に、マヤはうなだれた。

「監視カメラの映像も、PAIRの記録も、改竄の痕跡はなかったんですよね……」

「ええ。当然監視映像なども分析しました。改竄の痕跡はなかったです。事件性は限りなく低い。念のため言っておきますが、監視記録は私だけでなくほかの監察官、分析官もチェックしています。もし疑わしければ開示請求をしてください」

「いえ、そこまでは……」

「そうですか」

 マヤがヤスタカにレーズンサンドの小皿を勧めると、彼は遠慮しつつひとつ取った。そしてもぐもぐやったあと、マヤに礼を言い、店主に向かって「おいしいです」と月並みな感想を送った。店主は笑いながらうなずいた。

 マヤはカフェラテを飲みながら、昨夜のアバターのことを考えていた。あの炎のアバターが言った通り、モリスエのライフスコアが改竄された可能性は低い。そして監視映像やPAIRの記録からして、誰かがモリスエを突き落としたという可能性もない。なぜスペクターを調べていたのかについてはまだ不明瞭だ。

 テーブルの上で、ミルクがウキョウをじっと見ている。PAIR同士はMirageと呼ばれる独自言語を使用するため、人間の知らないところで勝手に情報交換をしていることがある。おそらく何らかのやりとりをしているらしい二体を眺めながら、ヤスタカが口を開いた。

「コトブキさんが教えてくださった、モリスエさんの交際相手の方ともお話ししました。確かにモリスエさんとはそろそろ入籍を考えていたそうです。PAIRの記録にもそれが残っていました。ですが事件と断定するのはなかなか……状況証拠があまりにも堅い」

 ほぼ手詰まりという回答だ。シンドウの言うように「根拠のある推理をただの勘で覆すのは難しい」ということに尽きる。

 ひとりで考え込み始めたマヤに対し、ヤスタカはカップを手にぼそりと言った。

「――コトブキさんからすればもどかしいでしょうが、無茶なことはしないでください」

 釘を刺され、マヤはうっと言葉に詰まった。

 ヤスタカはコーヒーをすすり、ゆったりとした空気のまま、マヤに告げた。

「見方を少し変えてみてください。コトブキさんが大切な人を亡くしたように、シンドウさんだって部下を亡くしたばかりです。その上コトブキさんにまで何かあったら困るでしょう。ただでさえあの人は今度のことで管理責任を問われかねない立場です。あまり軽率な行動はしないように」

「はい……」

「コトブキさんのPAIRも相当心配しているようですから」

 マヤは目を瞬き、それからテーブルの上に座っているミルクを見た。後ろ足で耳のあたりを掻いている。特段いつもと違う様子はない。マヤが不思議に思いながらヤスタカのほうを見ると、彼はどこか穏やかな顔でミルクを見ていた。

「PAIRはパートナーの心を映す鏡のようなものです。彼らはパートナーから世界を学び、育ちますからね。家族として大切にされていればすぐわかる。コトブキさんのPAIRはパートナー思いの善良なPAIRだ。あまり心配させないであげてください」

 ミルクが耳をぴくぴくさせた。ちょっと照れている様子だ。

 マヤはまじまじとヤスタカの顔を見た。得意満面というような雰囲気ではない。むしろ以前と同じく、やや眠そうなくらいの、何を考えているかわからない顔だ。

「どうしてミルクが心配してるってわかったんですか?」

「それはPAIRに直接聞いてみては?」

 意地悪く問いを返し、ヤスタカはかすかに笑った。そして空になったコーヒーカップを置いた。

「では私はそろそろ」

 端末を通じて中空に決済画面が表示される。ヤスタカが二名分の会計を手早く済ませた。

「え、あの――」

「では失礼」

 店主にあいさつすると、ヤスタカは席を立った。マヤは慌てて追いかけようとして、残っているカフェラテを一気に飲み干した。その間にカランカランとドアベルが鳴る。しまったと思ったときにはすでに店内にヤスタカの姿はなかった。ミルクがマヤの端末から顔だけ出して『行っちゃったね』と言った。

『あの人、マヤが追っかけてきたこと知ってるみたいだったよ。だからコーヒー代出してくれたんじゃないかなぁ?』

「は!? え、バレてたってこと!? なにそれ口止め料!?」

『あー、それはね……たぶんマヤがメニューの値段見ないで飛び込んで来たって気づいてたんだよ……』

「そ、それはそれで恥ずかしい……」

『もー。考えて行動しなよー』

 ミルクが端末へと引っ込む。話はそこで終わりのようだった。

 マヤは脱力してうなだれた。会計を持ってもらったこともそうだが、行動の理由が筒抜けだったというのも情けなかった。マヤは情報を手に入れたが、それは彼女自身のスキルや努力で勝ち取ったというより、ヤスタカの裁量で与えられたものだ。お目こぼしの慰めに近い。

 とはいえそれで気落ちするほどマヤも繊細ではなかった。ならここから巻き返そうとこぶしを握り、マヤは立ち上がった。店主がカウンターの奥から見送りに現れる。

「ありがとうございました。またお待ちしてます」

「ごちそうさまでした」

 カウンターを離れる直前、ふと気になってマヤは店主に尋ねた。

「あの、トウドウさんってここの常連さんなんですか?」

「ヤスタカくんですか? よく来ますよ。たまには()()のコーヒーが飲みたいそうです」

 ホンモノ、とマヤはつぶやいた。そしてようやくこの店の価格設定に合点がいった。

 現在ノア・ドーム内で流通しているコーヒーは、そのほとんどがDウィート由来の調整コーヒーだ。コーヒー豆の成分はほとんど含まれていない。これは現存するコーヒーの木が希少で、保護種に指定されているためだ。本物のコーヒー豆由来のものは高級品である。マヤは思わず自分が飲み干したカフェラテのカップを見た。高級品だとわかると、もっとしっかり味わっておけばよかったという後悔のようなものが押し寄せる。

 マヤはもう少し話を聞こうかとも思ったが、あまり詮索するのもはばかられたので、会釈して店を出た。カラカラとドアベルが鳴る。そろそろジムに行くのもちょうどいい頃合いだ。


 駅前まで戻り、そこからジムに向かう。ジムが入っている建物はさして大きくないが、清潔感はある。エントランスを通った瞬間にPAIRを通した認証が行われ、会員ゲートが開いた。マヤはいつも通りロッカールームへ直行した。何かとプライバシーにうるさい時代のため、ロッカールームも個室がデフォルトだ。手狭なロッカーに荷物を突っ込み、ついでに服を脱いでクロークボックスに乱雑に放り込む。入れておけばジム側のサービスで自動洗浄、乾燥してくれるのだ。下に水着を着てきたので、着替えはすぐに済んだ。

 それから装着端末をジム用のものに付け替える。こちらは日常で使用するものと比べ、耐衝撃、防水などの機能が搭載されており、ユーザーの激しい運動にもついてこられるように設計されている。そのぶん情報処理能力は見劣りするところがあり、大容量の通信を必要とする一部サービスは受けられない。

「ミルク、ちゃんとこっちにいる?」

『移動したよー』

 PAIRはユーザーの指示によって、アクセス可能な端末を渡り歩くことが出来る。マヤは端末のバンドを締め、水着の位置を軽く直すと、プールに向かった。

 白と青を基調にしたプールは広々としていて、二十五メートルプールの奥に競技用の五十メートルプールが設置されている。温水プールも併設されており、疲れたらここで休めるようになっている。プールは空いており、利用者の姿はまばらだ。マヤはシャワーを浴び、軽くストレッチをしてから手前のエリアへ入った。ここは水に慣れるためのレーンで、タイムを測ったり競技練習をする人はいない。マヤが水に浸かると、端末からミルクの声がした。

『じゃあしばらく黙ってるね。ごゆっくりー』

「うん」

 ざぶざぶと水をかき分け、水中へと潜る。音の聞こえ方が急に変わり、心地よい浮遊感が身体を包んだ。プールの底で光がゆらめいているのを眺め、それから軽く壁を蹴って泳ぐ。

 しばらくウォームアップをしたあと、隣のレーンへ移動し、クロールで泳ぎ始める。タイムは測らず、ゆったりと泳ぐことにした。二十五メートルのプールを一往復し、いったんプールサイドへと上がる。

『ライフスコアが71に上昇したよー』

 ミルクが事務的な報告を述べる。ライフスコアはその性質上、運動をすると伸びやすい。そのため現代では一時間程度のスポーツ活動を週二回以上行うことが強く推奨されている。企業ではそのための早退や遅出などが認められているほどだ。マヤはもっぱら水泳かランニングをこなしている。

 周囲の利用者たちもPAIRとライフスコアについて話している。PAIRにとっての最大の仕事は、ユーザーのライフスコア向上と言っても過言ではない。利用者同士でも、雑談の主な話題はどの程度ライフスコアが向上したかということだ。

 今度はミルクにタイムを測ってもらいながら泳ぐ。休憩をはさみながら二、三回も往復すれば、程よい疲労感がやってくる。マヤはプールサイドのベンチに座り、ミルクと話しながらのんびりとしていた。

「泳いだらなんかお腹空いてきた……」

『あはは、水泳はカロリー消費激しいからね。チョコバーでも食べる? フロントに手配するよ?』

「ううん、いい。もうすぐお昼だし、ひと泳ぎしたら切り上げるよ」

『りょーかいー』

 再びプールへと飛び込み、泳ぎ出す。泳いでいる間は無心になれた。

 この世界では、身近な誰かが死んだとしても、その悲しみはなるべく早く癒されるべきものと判断される。喪失感は手厚いケアプログラムによって埋められ、対処される。健全であれば死に拘泥せず、迷っても必ず前へ進めるとされるからだ。充実は美徳であり、心身ともに健康にあることこそ、死者への手向けである。

 それがある種の思想支配であることを、マヤは一度として意識したことはなかった。


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