追いかける女
9/6.2411
マヤは目覚ましのアラームで目を覚ました。すぐ起き上がろうとしたものの、結局ぱたりとベッドに突っ伏した。
「今日仕事ないじゃん……」
『いい加減起きようよって合図だよ』
「あと十分……」
『そう言って十時過ぎまで寝てるでしょ』
「ほんとちょっとだけだから……」
ミルクが頭上をぴょんぴょんと跳ねているのは承知の上で、マヤは枕に顔をうずめた。
『今日はジムに行くんじゃないの? 先月から予約してるでしょ?』
「あー……」
ようやくマヤは起き上がった。部屋のキッチンから物音がし始める。調理マシンが自動で朝食を用意しているのだ。
『マヤ、朝食のメニューはシリアルとハムエッグだよ。飲み物はフルーツジュースと野菜スープとどっちがいい?』
「おなかに優しいほう」
『もー。曖昧な選択はPAIRを困らせるって言ってるのに』
「はいはい、野菜スープがいいです」
マヤが立ち上がると、それまで寝ていたベットが起き上がり、透明なカプセルのようなもので覆われた。そして淡い光が点灯し、滅菌処理を開始する。そのままベッドは天井付近の壁へと収納されていった。
一般的に、ノア・ドーム内の住居は手狭なものが多い。中流層では1DK程度の住居が標準だが、各部屋は十~十五平米といったところだ。これは居住スペース以外の生活補助機能が「見えない空間」を占領しているせいである。それらは普段、壁面や床に格納されている。主なところではベッドや調理レンジ、クローゼットなどの収納スペースだ。キッチンの設備については利用者の好みによるところが大きい。洗面所やトイレ、バスルームといった水回りの設備は排水や建築の都合上動かないものの、それ以外の家電はほとんどが壁面に内蔵される。これらは現代社会において人目につくのを嫌われる類のものだ。
ミルクはすでにキッチンに移動していた。マヤは大きく伸びをして、それからキッチンへと向かった。壁に備え付けられたオーブンレンジのようなドアを開けると、朝食のトレイが出てきた。マヤはトレイを持ってテーブルにつき、シリアルを食べ始めた。ミルクがホロジェクターを通して今朝のニュースを流し始める。
『来月予定されている日米ノア・ドーム間会議で議題となる、有事において万能作物デメテル・ウィートを融通する計画に対し、外交省のハヤト・バンバ大臣と、総務省食糧局のナツキ・コノミ局長が報道陣に懸念を示しました。米国ノア・ドームはDウィートの生産拠点を多く有しており、現在生産力の低い日本への政治的影響が強くなることを懸念するものです。また、コノミ氏、バンバ氏ともに農場経営一族の出身であり、注目されています』
さっそく小難しい話題が放り込まれてきた。マヤは難しい顔をしつつも、記事に軽く目を通していった。
ノア・ドーム内の食品はおおむねこの万能作物――デメテル・ウィートを原料にしている。生鮮品はきわめて少なく、希少価値がつく。農場経営一族とは、その希少な生鮮品のプラントを有する富豪たちの俗称だ。当然、一般市民はそういった高級品には手が届かない。その代替品として現れたDウィートだが、これを原料とした加工食品による野菜や果物の再現性は高い。味覚中枢の研究が進んだ結果、限りなく「それらしく感じる味」を再現することに成功したのだ。また、Dウィートは安定した価格が支持され、市民生活に浸透していった。
現在、食糧事情はこのDウィートにおんぶにだっこの状態だ。これさえあれば栄養価や味覚の問題もクリアできる。だが問題はそのDウィートの生産だ。古代から変わることなく、食糧事情は国家間でのパワーゲームにも影響を及ぼしていた。
マヤはDウィート由来のシリアルを食べながら、そのニュースを閉じた。勝手に次のニュースが流れ出す。
『昨夜、NIC社は待望の妊婦用バイタルモニタナノマシン、エルピスをリリースすると発表しました。同社は十年前から治験を進めており、生まれてきた乳児への追跡調査も実施。その結果、健康への影響はないと判断したものです。これにより妊娠初期の不調や出産の予兆などを可視化、病院の対応がスムーズになることが期待されています』
「ふーん、便利になるねぇ」
マヤはハムエッグを頬張り、フォークでニュース画面をスワイプした。行儀が悪い、とミルクがたしなめるが、マヤはある記事でスワイプする手を止めた。
「自殺ね……」
モリスエの一件以来、マヤは不審死の記事などを見つけると目を通すようになった。個人情報保護の観点から仔細は記載されないものの、何か手掛かりになることはないかとアンテナを張っている。
『死亡したのは三十代の男性。安定剤を不正に入手し大量服用した模様です。当該者はライフスコア要観察認定を受けていました。PAIRの通報が間に合わなかったものとみられます。現在、治安局が薬剤の入手ルートを調査しています』
「……薬物、か」
マヤがぼそりとつぶやくと、ミルクがすかさず『ヘンなことに興味持ってない?』と突っ込んだ。相棒からの思わぬ指摘に、マヤは苦笑しながら否定した。
もし仮に、モリスエが薬物による狂乱に陥ったのなら、それは身体異常としてライフスコアに記録される。だがそのような痕跡があれば、監察室はただちに事件と断定し、入手経路の割り出しに着手するだろう。それを専門に扱う捜査二課の薬物担当班へも協力要請が出るはずだ。だが局内でそのような気配はない。薬物の線は薄い。
求めていた情報とは違うようで、マヤはテーブルに頬杖をついた。しかし脱力していたのは数秒で、マヤはスープを飲み干し、トレイを持って立ち上がった。キッチンの配膳口へとトレイを片付けると、自動で回収され、洗浄が始まる。
マヤは大きく伸びをして洗面台へ向かった。顔を洗って歯を磨き、壁のクローゼットを開けて服を引っ張り出す。目当てのものを見つけると悪戦苦闘しながらそれを身につけ、上からカーキ色のワンピースをかぶる。そして薄手のカーディガンを羽織り、洗面所の鏡の前で簡単に身だしなみのチェックをした。ついでに棚からタオルを引っ張り出してカバンへ詰め込む。
「それじゃ散歩ついでに行こうか」
『はーい』
チューブトレインに揺られ、マヤは第三歓楽区『アオヤマ』へ向かっていた。
ノア・ドーム内部の区画分けは実に明確で、治安局や役所がまとまった行政区、その名の通りの居住区、そして企業が集まる企業区、娯楽施設などの歓楽区に分かれている。また、広いドーム内を安定的にカバーするため、第一行政区、第二行政区といったようにそれぞれが分散して存在する。基本的に同じ区画内で機能が混在することはない。居住区に企業のオフィスはなく、歓楽区に行政の派出所は存在しない。物販などのサービスは各区に存在するが、すべて自動マシンのため無人だ。区を越えた連携が必要な場合は、まずドローンやロボットが出動し、通信で取り次ぐ仕組みだ。
マヤが向かっているアオヤマは公務員も多く利用するエリアだ。第一行政区カスミガセキや第八居住区エビスともほど近く、別区画からも多く人がやってくる人気のエリアである。マヤはこのエリアの片隅にあるスポーツジムのユーザーだった。大学時代の友人がそこに就職したため、成り行きで会員になった。ほかに行きたいジムがあるわけでもなく、ほとんど惰性で通い続けている。
チューブトレインのアオヤマ五丁目駅で下車し、マヤは駅前を散策し始めた。ジムに行く前になんとはなしに散歩がしたかった。別段店を探すでもなく、ただふらふらと歩きたい気分だったのだ。
マヤが食品や衣類、雑貨を扱う店を横目に歩いていると、ふと見覚えのある背中が目に入った。パッと誰かわかるような印象ではなかったが、マヤはその背格好を見て既視感を覚えた。そしてその人物の後頭部に寝癖を見つけた瞬間、あっと小さく声を上げた。
「トウドウ監察官……!」
思わずマヤは物陰に隠れた。そしてヤスタカ・トウドウの背中を目で追った。幸いマヤに気付いた様子はなく、すたすたと歩いていく。どこか目的地があるような、迷いのない足取りだった。
マヤはそれを見て、そろりそろりと物陰から出た。そして端末のミルクに尋ねた。
「ミルク、私ストーカー扱いにならない?」
『あはは、このくらいではならないよ』
「よっしゃありがと」
マヤは通行人にまぎれ、ヤスタカを追った。時々小走りになりながら、ひょろりとしたヤスタカの背中を追いかける。そしてある一点で彼を見失った。そこには洒落た雰囲気の白い建物があった。看板を見てマヤは首をかしげた。
「……かもめ珈琲館?」