名もなき警告者
-PITFALL-
無情に表示される文字列。
まずった、とマヤは血の気が引くのを感じた。調子に乗り過ぎた節はあった。うまく行きすぎているという自覚も。だが自分に限っては大丈夫だという正常性バイアスに従ってしまった。人間というのはおおむね、取り返しのつかないミスを突き付けられて初めて、自分が迂闊だったと気づくのだ。
「あああああログアウトログアウト戦略的撤退」
マヤは焦りながらキーを叩くが、接続を切ることすらままならなかった。電源を切ろうとマヤがショートカットを操作すると、無情なエラーコードだけが返って来た。心臓がバクバクと早鐘を打つ。
「ち、治安局の職員がお縄とか笑えない笑えない!」
発覚すれば処分は免れない。最悪免職だ。だからPAIRであるミルクに目をつぶってもらった。だがそれだけでは不十分だという認識が欠けていた。マヤはあの手この手でログアウトしようと試みたが、ピットフォールから出ることは出来なかった。
冷や汗でキーを叩く手が滑る。マヤは手を擦り合わせて再度脱出を試みた。格闘し始めて一分が経ったかというころ、画面に一瞬ノイズが走った。
『こンばんハ』
スピーカーから合成音声が流れた。ところどころイントネーションがおかしいのは音声改変ソフトを通しているからだろう。
マヤはあっけにとられて画面を見ていた。ピットフォールのブラックスクリーンが瞬く間に色鮮やかな背景へと変化していく。
『失礼――あなたはこういった違反行為は初めてでしょう?』
開発エリアの背景に、青い炎のようなアバターが姿を現した。音声がなめらかになる。
『このピットフォールに落ちたということは、あなたは機密文書6535号を閲覧しようとしたということだ』
「え、は……」
『機密文書6535号、健康省幹部によるライフスコア改竄問題。公式記録庫にて複製データが市民に公開されているが、それでも原文に当たろうとするのは、文書提出者や改竄手法の詳細を知るため。わざわざそんなことをする理由は大まかに二つ推測される。あなたが誰かのライフスコア改竄を疑っているから。もしくは――ライフスコア改竄の手法を知り、利用したい犯罪者であるから。だがあなたは前者だ。犯罪者ならこのピットフォールに落ちるとは思えない』
今やマヤは食い入るように画面を見ていた。青い炎のアバターは規則的な揺らめき動作をループしている。
『機密文書を閲覧したところで、あなたの疑惑は払拭されない。現実で破滅するだけだ』
まるで何もかも知っているかのような言い草だった。
ピーピングモードを解除していないため、マヤはコメントを発することが出来ない。それがもどかしかった。彼女にはこのアバターがいったい何者なのかまったくわからない。セキュリティAIなのかオペレーターがいるのかすら不明だ。そしてマヤに対しこんな警告を発するのも不可解だった。さっさとアークシステムに通報してしまえばいいのに、ぐずぐずと説教をしている。
青い炎の揺らめきが止まった。マヤが画面に顔を近づけたその瞬間、炎のアバターは告げた。
『それでも文書を確かめたいのなら止めはしない。だが――ミオ・モリスエにライフスコア改竄の痕跡はなかった』
アバターは背景ごとぷつんと消え、普段通りのウィンドウに戻った。ホーム画面が表示されている。
マヤは呆然としていた。
謎のアバターの言葉がガンガンと脳内で響く。ミオ・モリスエにライフスコア改竄の痕跡はなかった。なかった。では彼女のライフスコアは正常に記録されたということだ。突発的に恐慌状態となり、屋上に上がって自殺した。それが事実であり疑いようのない事実であると――。
『ずいぶん長かったね、マヤ。PAIRにあんまりいっぱい隠し事するのはオススメしないよ』
むすくれた様子のミルクがウィンドウの前に座っていた。
「ミルク……」
『何してたのか知らないけど、マヤ大丈夫? なんか心拍数高いよ? グロ映像トラップでも踏んだの?』
「ふ、踏んでないよ」
マヤは大きく息を吐き出し、椅子にもたれた。
ミルクはマヤを通報してはいない様子だった。ピーピングモードにすればPAIRはユーザーの行動を認識できなくなる。だがサイト側が違法アクセスを確認すれば、ネットワーク経由でプロトコルやIPアドレスがすぐに割り出され、緊急措置として対象者のPAIRが目覚める。そしてただちにユーザーを治安局へ突き出す。ミルクにそれを実行した様子はなかった。
刑務所に放り込まれなくてよさそうだと一安心しつつ、マヤは立ち上がって洗面所へ向かった。歯ブラシに歯磨き粉をつけてシャカシャカと磨き始める。鏡に映る自分の顔とにらめっこしながら、マヤは青い炎のアバターのことを思い出した。
なぜあのアバターはマヤに情報を教えたのだろうか。否、そもそもあれは正しい情報なのか。しかし嘘を教えてどんな得があるのか。あのアバターの主はモリスエの死について何か知っているのだろうか。詮無い問いがぐるぐると駆け巡る。渦を巻いて排水溝から流れていく水を眺めながら、マヤはぽつりとつぶやいた。
「モリスエ先輩は本当に……」
――違う。
マヤは首を振った。数値でも記録でもなくただの勘が、どうしても納得できなかった。正確な裏付けも客観的な証拠もない。それでもただ、パートナーとの幸せな生活を夢想するモリスエの表情が嘘だとは思えなかった。あれは絶対に死を考える人間のものではなかった。マヤにとってモリスエは、仮にショッキングな事実を知ったとしても、それで死に走るような人間ではなかった。ちゃんと現実に対処できる女性だった。
何か理由があるはずなのだ。ポジティブで頑強な人間を一瞬で絶望させるほどの何かが。マヤには到底思いつかないような、とにかくすごい何かが。だが想定できないものにどうやってアプローチするのか。雲をつかむような芸当だ。どうしていいかまるでわからない。無策にもほどがある。
マヤはコップを片手にため息をついた。
「でもそんな簡単に諦められたら、こんな仕事についてないよなぁ」
家庭用ホロジェクターから青い炎のアバターが浮かび上がった。見る見るうちにその炎が引いていき、細身のロボットのような輪郭が現れた。現代アートと機能美が融合したような、SFチックなデザインのボディだ。人間で言えば目に相当する部位から青白い光が漏れる。一見すると神秘的にすら思える光景だったが、アバターはまるで待ち合わせに遅れた恋人を咎めるような声を出した。
『お前なぁ……親切すぎるぞヤスタカ。あの捜査官に感づかれたらどうするつもりだ』
不機嫌そうなその声に、ヤスタカ・トウドウは苦笑した。爪を切っていた手を止め、相棒へと一瞥をくれる。
「あのピットフォールに落ちるような人が、お前の偽装を突破して俺を特定できるのか?」
『そうじゃねえよ、はぐらかすな。オレはAIだから命令を忠実に守る。だがお前は違う。人間はしばしばそういうのをやらかす。お前はあの捜査官に餌をちらつかせて誘導しようとして、いつか与えちゃいけない情報まで漏らす。そういう予感がする』
「ウキョウは心配性だな」
『そういうふうにお前が作ったんだよ、ヤスタカ』
ヤスタカは小さく笑った。そして立ち上がるとゴミ箱を元の場所に戻し、部屋を横切って爪切りを棚にしまった。棚は自動で閉まり、シームレスに壁へと収納されていく。
この部屋自体はそれなりに家賃の高いエリアにあるが、部屋の中は簡素な印象が強い。モデルルームをそのまま使っているような雰囲気だ。現にヤスタカは入居時、ウキョウがピックアップした家具をそのまま特に確認もせず購入、搬入した。ウキョウが提示した完成イメージすら見ていなかったくらいには住居への関心が薄い。家事や掃除はすべて機械任せだ。
ヤスタカはキッチンへ向かうと、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを引っ張り出し、がぶ飲みしながらリビングへ戻って来た。そしてデザイナーズチェアに腰を下ろした。ホログラフィーで空間に投影されているウキョウが前のめりになり、ヤスタカの顔をのぞき込むような姿勢になる。
『いつものことだが、たったひとつのミスが命取りになる。オレはともかくお前の手抜かりなんて、絶対に許さねえからな』
「……わかってる」
『だったらあんな捜査官ほっときゃいいのに……』
「それはもういいだろ。ていうかお前だって気にしてたじゃないか。違法捜査しそうだから網張っとけなんて、お前らしくもない」
『…………』
ウキョウが姿勢を正し、腕組みする。ヤスタカは芝居がかった言い方で「なんだ言い返さないのか?」と尋ねた。ウキョウが首をひねり、不満げな姿勢をあらわにする。それを見たヤスタカは声をあげて笑った。
ミネラルウォーターのボトルをテーブルに置き、ヤスタカは静かに画面を眺めた。彼とウキョウが張った『網』の状況が表示されている。機密文書や健康省機密エリア、個人情報ビューロなど、網はいくつかのサーバーに張られていた。マヤはそのうちのひとつ、非常にわかりやすい場所に落ちてきた。ヤスタカが思わず絶句するほどあっさりと、犯罪などしたことのなさそうな純粋さで罠にはまった。真の正直者というのはうそつきがどんなことを考えているか、想像もつかないのだろう。
この罠も残しておくとバレたとき面倒なので、ヤスタカはさっさと回収プログラムを起動した。あとは規定動作通りで、仕込んでいた網は自動で消去される。進捗を眺めながら、ヤスタカはぽつりとつぶやいた。
「コトブキさんの気持ちは多少わかる」
『同情なんかすべきじゃない。オレとお前はなんのためにここまで来たんだ。まだこの件がサユリの事件と関係あるって決まったわけじゃねえんだぞ。ちっとは後先考えろ』
「そうだな……」
そう言いながら、ヤスタカはホロウィンドウにピン留めされた画像を見つめていた。夫婦と子どもが二人、笑顔で映っている。子ども二人のうち、小さいほうの男の子がヤスタカだった。
「サユリのことを思い出してちょっと動揺したのは認める」
幼いヤスタカの隣に写っている年上の女の子――彼女がサユリだ。ヤスタカにとっては四つ年上の姉だった。
しばらく家族の肖像を見つめた後、ヤスタカは椅子に深くもたれた。そして天を仰ぎ、目を閉じる。まだ眠気はなかった。ベッドに入ってしまえば勝手に眠れる体質だが、そういう気分にはなれなかった。ヤスタカはウキョウへと声をかけた。
「……ウキョウ。少し記録庫に行こう」
『オーケイ、いつものとこか?』
「ああ」
『記録庫番地DR-WCCP-23Bへ』
ウキョウがアクセス宣言をすると、白っぽい部屋が一瞬で電子空間へと変わる。背景の映写が安定すると、広い記録庫が現れた。図書館をモチーフとしてデザインされており、中央の吹き抜けエリアがユーザーの出入り口となっている。その空間をウキョウが飛行するのに合わせ、背景が流れていく。自身も一緒に飛んでいるような気分になれる機能だ。
夜遅い時間帯や、もともと人気のないエリアとあって、ヤスタカ以外の利用者はいなかった。ウキョウがキーワードを検索し、書棚へと近づいていく。何度も同じものを探しているので、操作もスムーズだった。出てきたメディアファイルをウキョウの指が選択し、再生する。大きなウィンドウが立ち上がり、立体映像が流れ出した。
『――ユースクリエイターコンペティション、プログラマー部門最優秀賞を受賞されたリリウムさん、コメントをお願いします』
司会進行の音頭で、一体のアバターが壇上へと現れた。白をベースに、黄緑と桜色のパーツで構成されている。細身のデザインはウキョウと少し似ている。だがこの白いアバター――リリウムのほうがより人間に近い設計だ。
リリウムは集まった観客を一望し、笑顔を見せた。
『まずは壇上で話す機会をくださってありがとうございます。そして膨大なデバッグに協力してくれた友人に感謝を。今回コンペに提出したSTOHAは、ウェブ広告についての議論に一石を投じるためのものです。えーと、正直なところ、私は質の低い広告が表示されることにウンザリしていて――』
ヤスタカは椅子にもたれ、受賞者スピーチを聞いていた。まるで子守唄のように、スピーチの中身は関係なく、ただそのトーンに安らぎを見出す。時間にして二、三分程度の短いスピーチを、ヤスタカはただじっと聞いていた。
この映像を何度見たかわからない。彼にとってこの映像は、姉がもっとも輝いていた瞬間の記録だった。ノア・ドーム内の若手クリエイターの登竜門といわれるコンペで、リリウム――サユリ・トウドウは表彰された。彼女の才能を評価した企業関係者からアプローチを受け、サユリはプログラマーたちとの交流で一気に忙しくなった。だが彼女は楽しそうだった。あの日までは。
「今はとにかくやれることからコツコツと……ってやつだな」
メディアを閉じ、ウキョウが小さくうなずいた。ヤスタカにとってウキョウはただのPAIRではない。家族同然に育ってきたが、今は同じ目的のため、ともに戦う仲間でもある。
この映像を見るのは、ヤスタカにとって戦いに行く前の儀式のようなものだった。
『……まもなくメンテナンス十五分前です。作業中の方は保存などをお願いいたします』
アナウンスが流れてきたため、ヤスタカは時刻表示を確認した。確かにあと十五分で夜中の一時になろうとしている。明日が土曜日とはいえ、あまり夜更かしすればライフスコアに響く。ヤスタカは無意識にため息をついた。なんとなく思い出に浸っていたのを邪魔されたような気分だ。
ヤスタカの指示を待たず、ウキョウが退出を選択する。
『ご利用ありがとうございました』
記録庫の管理者が儀礼的に言った。
接続が解除されたことで背景映写が終了し、普段の部屋に戻る。ヤスタカはのろのろと立ち上がった。机の上に置いていたミネラルウォーターはとっくにぬるくなっていた。それを飲み干し、ボトルをゴミ箱へと放る。
ヤスタカはベッドの上の壁を手で触り、小さなへこみを見つけると、そこを強く押した。蓋が開いて小さなポートが現れる。ヤスタカは装着型端末の裏面から爪の大きさほどの記憶装置を引き出し、ポートへ押し込んだ。そのまま壁に手のひらを当てる。生体認証でキーボードが表示された。ヤスタカがパスワードを入力すると、やっと画面が出てきた。
そこには白を基調としたアバターが眠っていた。記録庫の映像と寸分たがわぬ姿だ。今はもう稼働していないそのPAIRを見つめ、ヤスタカは悲しげに声をかけた。
「おやすみ、サクラ」