探る女
9/5.2411
「……なんなんですかね監察官って」
「おーおー、あんまり怒るとライフスコアが下がるぞコトブキ」
にやにや笑いながらシンドウが言った。
モリスエの転落死から三日が経った。捜査が進展したかどうかの情報はまったく届いていない。当日こそ「この状態では仕事にならない」と一部職員に帰宅が命じられたが、その後は通常の業務体形に戻っている。ライフスコアに問題がなければ出勤を促すという流れだった。マヤはケアプログラムを受け、ライフスコアが平常に近い数値に回復したため、出勤している。
ライフスコアはこの社会において絶対的なものさしだ。心身の健康度合いがリアルタイムで記録され、100点満点で数値化される。PAIRはそれをもとにユーザーの欲求傾向を分析し、サポートしている。心身ともに健康であることこそが社会的に「望ましい」とされ、就職や結婚にすら多大な影響を及ぼす。
マヤが腕につけた端末をちらりと見ると、自身のライフスコアは69と表示されていた。グリーン帯と呼ばれるセーフティーゾーンだ。50以下になるとイエロー帯となり、心身に不調が見受けられる状態と定義されている。イエロー以下のスコアを記録した場合、PAIRはユーザーに対して必ず医療機関への受診を勧める。逆に80以上になると一般に優秀とされる部類に入る。これは管理職登用などでは重視されるポイントだ。マヤの数値は普段より少し低いが、数日前に同僚を亡くしたことを考えると驚異的な回復を見せていた。
ミルクが端末の上に現れ、ちょこんと座った。そしてマヤを見上げる。PAIRであるミルクからすると、マヤのライフスコアはまだ要観察扱いだ。マヤはそれに少しうんざりしながらシンドウを見た。
「シンドウ班長はモリスエ先輩の件、何か聞いてないんですか?」
その問いかけに、シンドウはやる気なさそうに答えた。
「今回の件は監察室が担当だからなぁ。監察官殿はそうペラペラ機密をしゃべらないし、あんまり期待しないほうがいい」
「でもどのあたりを調査してるとか、漏れ聞こえてきたりしません? シンドウ班長ってどこからともなく情報つかんでくるじゃないですか。三ヵ月前の健康省スキャンダルとか、直前に知ってましたよね」
「ハハハ、そんなこともあったかなぁ。まああれだ、おっさんになると妖精のささやきが聞こえてきたりするのさ」
「妖精……」
「今回のこともまあ、ちょっとだけなら妖精さんが下りてきてる」
「やっぱり何か知ってるんじゃないですか!」
マヤが勢いよく立ち上がると、シンドウは「そう焦るなよ」と両手を挙げた。そして深いため息をついた。
「まあ教えなかったら教えなかったで荒れるだろうしな……。監視映像で見る限り、モリスエはあの日ずっとひとりでいたみたいなんだ。誰かと話してた様子もないし、通話の記録もない。本当にスペクターのことを調べた後ふらっと屋上へ行って、それで手すりを乗り越えて飛んだ。状況から言って自殺としかとれん」
「そんな……!」
「一応ひっかかる点もあるんだ」
シンドウが手元に置いていたコーヒーを飲んだ。そして白髪交じりの頭を軽く掻く。
「モリスエのPAIRが重篤なメンタルクライシスを記録したのは、飛び降りる寸前の数分だけだった。衝動的な行動としてもあまりに突発的過ぎる。自殺を考えるやつってのはそれなりに長期間にわたって傾向が出るもんなんだ。気分が落ち込みやすいとか注意力散漫とか、あとは刺激に対する過敏性とか。とにかくそれは絶対ライフスコアに反映されるはずだ。だがモリスエにはその兆候がなかった」
「システム上は『直前まで健康そのものだった』、ということですか?」
「まあそういうことだな。ライフスコアは嘘をつかない。ストレスってのはホルモンバランスや血中成分の濃度ですぐバレる。それすらなかったって言われるとな……」
シンドウは腕組みし、椅子にもたれた。クマのマスコットのようなアバターのPAIRが机の上で丸まっている。ユーザーがユーザーならPAIRもPAIRだ。マヤは思わず脱力した。
「コトブキには残念な報せになるが、この状況証拠じゃあ上は自殺で片付けるだろう。再発防止策としてはまあ……管理職が部下のライフスコアを注視するってところ止まりだな。それ以上に出来ることなんて思い当たらん」
「本気で言ってるんですか? モリスエ先輩が自殺したなんて。シンドウ班長だって信じてないでしょう?」
マヤの言葉にシンドウはうなった。彼のPAIRがのそのそと起き上がり、あくびをした。そして気まぐれにファイルを展開し、承認作業を片付けていく。
「モリスエは自殺じゃないってのは、個人的には同意だよ。だがコトブキ、何か証拠でもあるのか?」
「それは……」
「お前さんの言ってることはあくまでお前さんの推測止まりだ。願望とすら言える。それに対してライフスコアの記録や監視映像はれっきとした物証。上はどっちを重視する?」
子どもに言い聞かせるような物言いに、マヤはうなだれた。
治安局という巨大な組織の前では、入局二年目の職員など、赤子に等しく無力な存在だ。何を主張したところでさしたる影響力は持たない。発言に確かな根拠がなければ、ただの戯言とみなされるのが当然だ。わかりきったことだが、改めて突き付けられると無力感にさいなまれるものである。
落胆するマヤに対し、シンドウは少し慎重に声をかけた。
「こればっかりはなぁ……。しんどいと思うが、今は待つほかない。お前さん明日休みだろ、どっかうまいメシでも食いに行きな。真実が明らかになる前にぶっ倒れちまったら元も子もない」
マヤは力なくうなずき、ミルクを見た。すぐさま評判のいい飲食店のリストが表示される。ウィンドウを持ってきたミルクはどこかそわそわとして心配そうだ。マヤはミルクに「ありがとね」と声をかけた。
「待ってることしか出来ないなんて嫌になっちゃうけど……」
『ミルクはマヤが元気でいられるようにがんばるからね』
「はいはい、ありがと」
どんな時でも変わらずユーザーを第一にするPAIRの姿勢は、ときに人間側に影響を与える。家族の一員であったり、いわゆるペットのような愛着を覚えるのだ。それによって心理的安らぎを得られる人間もいる。マヤはどちらかといえばミルクを大切に思っているほうだ。自分のために健気に奔走する小さなマスコットを見ると、なんとなく元気が出る。
マヤは天井を仰ぎ、モリスエのことを頭から締め出した。
その日の晩、マヤは液晶の前で真面目な顔をしていた。仕事は何とか終わり、帰宅して食事をとった。風呂も済ませた。寝支度は整っている。だが彼女はまだ眠っていなかった。
モニタの中でぴょんぴょんと跳ねるミルクを見つめ、そして小さなため息をつく。マヤは諦めてミルクに打ち明けた。
「ねえミルク」
『ピーピングはおすすめしないよ』
「そこをなんとか……」
『ミルクはマヤの希望を正当な理由なく拒否したりしないけど……気を付けてね? 時期が時期だし』
「わかってる」
『ほんとかなぁ……。まあ、とりあえずミルクは黙ってるね。ピーピングモード・オン』
ミルクが引っ込み、ブラウザが変化する。
ピーピングモードとは、アークシステムが公式に認めた「のぞき見」モードである。今ではどんな公人や有名人でも使用する、ちょっとした心のプライベートモードとして見られている。ただこの機能が開発された経緯は実に世俗的で、ある優秀なシステム屋が、PAIRに知られることなくアダルトコンテンツを閲覧したいがために作った。それがユーザー間で急速に広まったため、アークシステムはやむなく、ユーザーの行動を「閲覧のみ」とすることを条件に、PAIRに記録の追跡・報告をさせないシークレットモードを提案した。閲覧しか許されないため、ネットショッピングや飲食店の予約等の売買契約はもちろん、掲示板などへの書き込みもできない。こちらの理由は単純で、犯罪やその教唆などに使われてはかなわないからだ。情報発信はすべてPAIRが監視する。だが受信だけなら、というわけだ。
マヤは深呼吸し、つるりとしたキーボードに指先を乗せた。そして猛然とキーをタイプし、電子の海へと飛び込んでいった。ピーピングモードで真っ先に出てくるいかがわしい候補サイトたちを押しのけ、マヤは公官庁のサイトへともぐりこんでいく。まだ浅い職歴の中で得たハッカーたちのテクニックを、付け焼刃ながらも実践していった。
「上の調査なんて待てるわけないでしょうが……」
治安局のサーバーに入り込み、マヤは一直線に管理官名義の機密文書を探した。
三ヶ月前、治安局は空前のスキャンダルを摘発した。市民健康計画『ヘルスプログラム』を運営する健康省の幹部が、自身と部下のライフスコアを改竄したという証拠が出たのだ。アークシステムによって厳正に管理されるライフスコアの改竄。それはいわばこの社会システムへの挑戦だ。世間の関心も非常に高く、長らくニュースをにぎわせる話題となった。そしてその疑惑を摘発したファイルは、なぜか十五人いる管理官の連名で提出されていた。
マヤはその詳細を記録した原データにアクセスしようとしていた。複製ファイルは公共記録保管庫にもあるのだが、それはあくまでもオープンウェブで公開できるように検閲処理された後のものだ。マヤは元データにしか記されていないであろう情報が知りたかった。二重三重のセキュリティをくぐり抜け、少しずつ閲覧レベルの高い領域を開けていく。
これは当然違法行為だ。だがそれでもやらずにはいられなかった。このままではおそらくモリスエの調査は打ち切られ、事故として片付けられてしまう。マヤはそんな確信があった。シンドウは「妖精さんのささやき」などと茶化したが、彼の仕入れてくる情報はいつも実に正確だ。シンドウはバリバリ仕事をこなす職人タイプではなく、飄々とした態度で人の懐に入り込む商人タイプである。彼が局内情勢に絡んだ予測を口にするとき、それはほぼ当たる。そのことがマヤを余計に焦らせていた。
かれこれ一時間近く格闘した後、マヤは機密文書フォルダ内に当該のファイルを見つけた。やった、と思いながらファイルを展開する。そして文書を読み始めて三秒と経たない間に、画面がブラックアウトした。
「…………」
画面にはPITFALLと表示されていた。