転落する女
9/2.2411
ノア・ドーム・トーキョー中心街、地上三十階建ての治安局の十一階で、マヤ・コトブキは街並みを眺めていた。
いつもより早く出勤してきたため、まだ彼女の上司も到着していない。マヤはがらんとしたオフィスを歩き、壁面のパネルへと近づいた。すると人感センサーが反応し、瞬時に立体ホログラフィーが展開された。ドリンクサーバーの選択肢画面が現れる。白を基調としたシンプルなレイアウトの画面を見つめ、マヤは無数の候補からハーブティーを選択した。するとパネルから小さな受け取り口が現れ、温かいハーブティの入ったコップが出てきた。
マヤはコップを手に、階下を見下ろす大きなガラス窓のほうへと戻った。このビルは全面ガラス張りなので、どこの部署からも外が見える。マヤはコップにふーっと息を吹きかけた。ハーブティーの香りに気分を良くしていると、腕につけている端末がほのかに点滅した。続いてナビゲーション音声が南画れる。
『マヤ、今日は夕方から雨の予定だよ』
「そういえばそうだったっけ。まあでも今日はそんな遅くならないつもりだし……。ありがと、ミルク」
『どういたしまして!』
端末から小さな白いウサギの立体アバター――ミルクが飛び出す。空中をぴょんぴょんと飛び回ったあと、ミルクは端末の上にちょこんと座った。
『あとマヤ、今週は友達とお茶しに行く約束があるでしょ。予約したメニューを考慮して、今週の食事メニューを調整しておいたよ。一応四つプランを作ったから、好きなの選んでね』
「はいはい、ありがと。ほんとになんでもやってくれるよね、ミルクは」
『わたしたちPAIRはパートナーの生活のすべてをサポートするんだから、当然だよー』
ミルクからキラキラとした星のエフェクトが飛ぶ。そして数秒のうちに、先ほど言った食事メニューのリストを表示した。マヤはリストの中からビタミンB群強化メニューを選択した。
ノア・ドーム・トーキョーにおける市民たちは、ほぼ例外なくPAIRと呼ばれる人工知能を保有している。マヤにとってはミルクがそうだ。PAIRは長期にわたってパートナーを観察し、情緒や行動を学習して生まれる。その性質上、観察したパートナーのサポートに特化した性能となる――いわば「ユーザーと一緒に育つAI」である。現代において、ドーム内で生まれた子どもたちは、おおむね六歳前後で「赤ん坊」ともいえる未分化人工知能を与えられ、それとともに育つ。未分化時点での人工知能はホワイトヴェセルと呼ばれるが、パートナーと成長し、社会認証をクリアすることで晴れてPAIRとして承認される。そしてユーザーは、個人情報や公共サービス利用など、社会で生きていくのに必要なことはすべてPAIRを通じて管理するようになるのだ。
PAIRはパートナーが選んだアバターをまとい、装着型端末に常駐する。そしてノア・ドーム管理ネットワーク、アークシステムと連携し、パートナーが必要とするであろう情報を収集、提示する。また、個人情報の番人として、給与明細や社会保障、健康診断結果まで多様なデータを一括管理する。いわばネットワーク社会における分身、専属代理人である。
ミルクはマヤとともに育ち、彼女の身体的特徴や思想傾向、効果的なストレス解消法などすべてを知っている。ゆえに食事メニューを提案したり、あれこれと先回りしてお世話を焼くのだ。
「そういえばミルク、14日にモリスエ先輩と出かける話なんだけど――」
『はいはい、洋服の候補はこれ。チューブトレインの時刻表はこっち。あと目的地周辺でマヤとモリスエ先輩が好きそうなお店はこんな感じだよー』
瞬時に多数のブラウザを展開したミルクに苦笑しつつ、マヤはクローゼットのデータを詳細表示した。ミルクはそれを眺めながら後ろ足で耳の後ろをかいた。マスコットのような外見だが、そういう仕草はウサギらしさを持っている。
『モリスエ先輩ってスタイルいいよね。ノア・ドーム・トーキョーの同年代女性の中でも上位5%には入りそう』
「わかる。私もああなりたいなぁ」
『じゃあマヤもジムで鍛える? 身長はどうにもならないけどウエストやヒップラインは矯正可能だよ。ライフスコアも上がるし』
「そこはマジにならないで。ただの願望だから」
『はーい学習しました』
ミルクが端末の中へと姿を消す。
『もうすぐ班長も出勤してくるころだよ』
「じゃあそろそろお仕事始めます……」
ハーブティを飲み干し、マヤはもう一度ガラスの向こうへ目を向けた。この町の朝焼けは、巨大な天蓋に映し出された映像にすぎない。だがマヤにとって空とはずっとそういうものだったし、天蓋の向こうがどうなっているかも想像がつかなかった。多くの市民はそれに疑問すら抱かない。天然ものではないが、少なくとも人類は小さな美しい空を手に入れたのだ。それで満足していた。
整然とした建築群の向こうに、ひときわ大きな電波塔が見える。バラルタワーと呼ばれるその高層建築は、このノア・ドームの通信の要であり、ランドマークだった。その周囲の街並みを形成する無数の建物には、ちらほらと人影が見える。マヤはこの風景を見るのがなんとなく好きだった。多くの人間が暮らし、働いていることを感じると、漠然と「今日もがんばろう」という気になるのだ。
よし、とマヤがつぶやいたその瞬間、ガラスの向こうを何かがよぎった。窓辺に立っていたマヤは、落下していった影の正体を克明に見ていた。
――人間だった。
一瞬何が起きたのかわからず、マヤは手を伸ばし窓に触れた。そしておそるおそる下をのぞき込み、血の気が引くのを感じた。
『マヤ、心拍が急に上がったけど大丈夫!? 急激な血管収縮に発汗もしてるし急性のストレス反応じゃない!?』
ミルクの矢継ぎ早の問いかけに、マヤは答えられなかった。その場にふらふらとうずくまり、マヤは目を閉じた。
彼女には地上の惨状が見えてしまった。人間だったものがいびつな形で地面にたたきつけられている光景は、強烈なインパクトをもってマヤの心を揺さぶった。
落下したのは若い女性だった。長い頭髪と細見で女性らしい体格くらいは遠目でもわかるものだ。そして服が治安局の制服であることもはっきりとわかってしまった。あの人物はマヤにとって同じ組織の、おそらくは同年代の人間なのだ。それがわかってしまうと、マヤは手が震えるのを止められなかった。
『ストレス数値の急速な上昇を確認。規定により緩和処置を開始します』
ミルクの音声がやけに遠くに聞こえて、マヤは深呼吸した。すると周囲に家族の動画が浮かび上がった。PAIRによる精神的ショックを緩和する措置だ。マヤは両親の顔をぼーっと見つめる。そのうち学生時代の画像などが出てきて、マヤは少しずつ動悸や冷や汗がおさまっていくのがわかった。マヤにとって家族や友人の記録はポジティブなものであり、心を落ち着けるのに適していた。
マヤがよろよろと立ち上がると、慌ただしく駆け込んでくる人物の姿があった。腕には治安局の局員腕章をしている。彼はマヤの上司、金融犯罪対策班の班長、アラタ・シンドウだ。シンドウはマヤを見るなり「大丈夫か」と声をかけた。彼の端末からクマのようなPAIRが飛び出す。
『アラタ。先ほどマヤ・コトブキ捜査官のライフスコアが急落してイエローゾーンを記録した』
「イエローって――コトブキ、お前まさか直に見たのか!?」
「は、はい……」
「おおうそれは……とりあえず緩和処置はしたのか。あとでちゃんとケアプロ受けとけよ。まあひとまずそこ座っとけ、な?」
シンドウはフロアに格納されているデスクユニットを起動し、マヤを座らせた。次いで壁面のドリンクサーバーからココアを持ってきた。ハーブティを飲んだばかりだったが、マヤはそれを受け取った。甘い香りとコップの温かさが身体にしみるようだった。
ガラス窓を見たシンドウが眉を顰め、「スモーク処理」とコールした。すぐにガラス窓がスモークに覆われる。
デスクのホロジェクターにシンドウのPAIRが現れる。端末から移動したPAIRはすぐさま治安局の下の様子を中継し始めた。シンドウは腕組みしながらPAIRへ尋ねる。
「阿蘇、現段階でわかってることは?」
『アークシステム・イザナミより公式記録を確認。八時三十七分、治安局屋上からミオ・モリスエ捜査官が転落した。録画記録によれば屋上にいたのは当該捜査官のみだ。自ら柵を乗り越え転落したとみられる』
その言葉にマヤは愕然とした。ミオ・モリスエの名前には嫌というほど聞き覚えがあった。なにせ今度一緒に出掛けることを約束した、職場の先輩なのだから。
「あれは、モリスエ先輩なんですか……?」
マヤの言葉に振り返ったシンドウの表情は険しかった。前髪には白いものがちらほらと見える。そのときマヤは唐突に、シンドウは数多の過酷な現場をくぐり抜けてきたベテランなのだと再認識させられた。
「あの、間違いですよね……?」
「……モリスエのPAIRが死亡を報告した。それにあの高さから落ちればまず間違いなく即死だ」
「そんな、そんな……!」
「ああ、これはまだお前さんにはキツい。――マヤ・コトブキのPAIRに対し、人事管理者権限で要求する。ユーザーの精神的健康保護の観点から、以降の会話音声遮断を要求する」
『緊急措置として承認されました。本PAIRパートナー、マヤ・コトブキを音声遮断により保護します』
「シンドウ班長!? ちょっと待ってミルク……!」
次にシンドウの口から出た言葉はマヤの耳には届かなかった。すでに彼女の耳にはヒーリングミュージックが流されている。端末によるノイズキャンセリングと骨伝導で、音声をシャットアウトされてしまったのだ。心身保護や機密保持といった正しい名目があれば、管理職は部下に対してこのような措置をとることが出来る。
マヤは目の前でシンドウが何か指示を出し、難しい顔をしているのを見ているしか出来なかった。聞こえなくても動くことは出来るが、今度はシンドウが視界ジャミングを発動するだけだ。管理職には部下の健康を守るという重い義務が課せられている。ショックに耐えうる人材の育成、そして選定も仕事のひとつだ。もし未熟な部下を過酷な任務に放り出し、その健康を損なわせた場合、管理職は厳しく責任を問われる。
マヤは歯噛みしてこぶしを握り締めた。シンドウはこの件に関して、マヤが知るには早いと判断したのだ。ミルクがマヤの膝の上で申し訳なさそうに縮こまっている。
『まだ情報が錯綜してるみたい。でも現場が落ち着いたらマヤにも話してくれるみたいだよ』
「……そう」
『ごめんね、イザナミが承認したことにPAIRは逆らえないから……』
「わかってる。PAIRが勝手に命令に逆らったらそれこそ大混乱になるよ」
マヤはため息をつき、シンドウの背中をにらんだ。そしてヒーリングミュージックを聞かされながら、モリスエのことを思った。
ミオ・モリスエはマヤからみて三年先輩で、治安局の中でも美人で仕事の出来る女として知られていた。さっぱりとした性格や凛とした立ち振る舞いで交友関係も広かった。入ったばかりの新人を上手くサポートするモリスエは、マヤにとってあこがれの存在だった。同時にモリスエもマヤを妹のようにかわいがり、プライベートで買い物に出かけるなど、特別に目をかけていた節がある。だからこそマヤは彼女が死んだという事実を受け入れられなかった。
マヤはしばらくそうやってミオ・モリスエとの思い出に浸っていた。何分放置されるのかと思っていたが、案外早いうちに変化があった。来客があったせいだ。シンドウはすぐにその客人を迎え入れた。黒いコートに腕章をつけた客人は、シンドウよりもだいぶ若く、マヤより少し年上の印象だった。その人物はシンドウと会話したあと、マヤを見て何か言った。マヤの耳に急に音声が戻ってくる。
「――過保護なのは存じていますが、若い局員をあまり仲間外れにするものじゃありませんよ。シンドウ班長」
シンドウがわざとらしく肩をすくめ、苦い顔をした。
マヤは慌てて立ち上がり、客人に敬礼した。彼の腕章はただの局員章ではない。緊張した面持ちのマヤに対し、客人は小さく会釈を返した。そしてシンドウへと話を振る。
「なかなか頼もしそうな方じゃないですか」
「あのな、トウドウ監察官。コトブキ捜査官はまだ二年目だ。こんな身内の案件を担当させるのは早すぎる。大体、彼女が一番モリスエと仲がよかったんだぞ、本来ならすぐ療養とらせるところだ」
「そうでしたか。じゃあ聴取の優先度は高いですね」
トウドウ監察官は淡々と答えた。お堅い事務的口調の割に、雰囲気はどことなく抜けた感が漂う。マヤはその違和感が気になり、トウドウ監察官をそれとなく観察した。そして彼の後頭部に髪の毛がはねている箇所を見つけた。
コーヒーの入ったコップを片手に、シンドウは嫌そうな顔をした。そしてトウドウへと話しかける。
「聴取、ってことはこの件の担当は……」
「私です。イザナミから監察室案件としてお達しが出ました」
「勘弁してくれ……」
「ははは、シンドウさんも当然聴取対象ですからどうぞよろしくお願いしますね」
トウドウの端末から結晶のようなアバターのPAIRが現れ、管制モジュールへ移動していった。そしてすぐにデータのロードを開始する。トウドウはそれを一瞥したあと、マヤへと声をかけた。
「マヤ・コトブキ捜査官。まだ状況が呑み込めていないかと思いますが、聴取にご協力いただけますね?」
「はい」
「ありがとう。では――ウキョウ、聴取を開始する」
『オーケイ監察官、機密モード準備完了』
PAIRの音声とともに、床からテーブルとリクライニングチェアがせり上がってきた。周囲にはホログラフィーのパーテーションが現れ、外の情報が遮断される。マヤがシンドウを見ると、「まあ座れ」とうなずきが返された。
トウドウは二人と向かい合う位置に座り、PAIRに記録開始を告げた。そしてマヤとシンドウに向き直り、規則に従って説明を始めた。
「では改めて。本件調査を担当します二等監察官、ヤスタカ・トウドウです。これよりミオ・モリスエ捜査官の転落死についての聴取を行います。この聴取の記録は捜査のため、監察官のみが利用し、外部に漏れることはありません。また、プライバシーに関する情報は提供拒否することも可能です。それによってあなたがたが不利益を被ることはありません。リラックスして、誠実な回答を心がけてください」
マヤとシンドウがうなずくと、中空に同意文書が表示された。PAIRがすぐに内容をスキャンし、マヤたちに署名欄を示す。サインが済むと、文書はトウドウのPAIR――ウキョウに提出された。トウドウは相変わらずPAIRには目もくれず話を始めた。
「では簡単な情報共有から始めましょう。今朝……というかまだ三十分ほどしか経っていませんが、この治安局の屋上からミオ・モリスエ捜査官が転落死しました。PAIRによる死亡証書が発行されたのは転落直後。鑑識ロボットによると即死だった模様です。死因はまあ……多数の臓器破裂や骨折、脳挫傷等ですね。頭蓋骨が半分ほど完全に潰れてます」
ここ三十階ありますからね、とトウドウは言った。まるで算数の問題を相手にしているかのような淡白さだった。マヤはそれを聞くだけで胃のあたりがむかむかしてくるようで、何度か深呼吸しなければならなかった。
「監視カメラの映像記録によれば、モリスエ捜査官は八時ごろに出勤してきて、三十分ほど独自の調査を行ったあと、屋上へ向かって飛び降りたということですが……」
「独自調査ってなんだ」
すかさずシンドウが食いついた。マヤも言いたいことはあったのだが、シンドウのほうが思い切りがよかった。
トウドウの手元にログが表示される。それにはアドレスとアクセス時刻が記録されていた。
「彼女は違法ハッカー集団『スペクター』について調査していたようです。閲覧記録が残っています。これはシンドウ班長が与えた仕事ではないですね?」
「当たり前だ。あー、確かにクレジットの不正操作については金融犯罪だしうちのヤマだが、スペクターはほかの部署が専門で追ってるとこがある。微妙っちゃ微妙なラインだが……連携してるとはいえ主導権は向こうのもんだ」
「対策チームがある以上、それが自然な流れですね。シンドウ班長やコトブキさんは、普段モリスエ捜査官と話す中でスペクターについて聞いたことはありますか?」
シンドウは首を振った。マヤも右に倣った。
ハッカー集団スペクターは、ノア・ドームを管理するアークシステムへの反逆を掲げる組織だ。市民すべてを登録管理するアークシステム・イザナミへの不信感や、管理されることへの抵抗を主張している。主な攻撃手段はサーバー攻撃やウイルス拡散など、一般的なハッカー集団と変わりない。ただしスペクターは他の三流組織に比べて構成員のスペックが明らかに高く、なかなか捕まらない。彼らそれぞれが自身のPAIRに巧妙な偽装と改造を施し、通報を防いでいるのだ。それが治安局の組織犯罪対策部を悩ませている。
モリスエは少なくともマヤにそんな話をしたことはない。確かに治安局の中では「いかにしてスペクターを検挙するか」の熱が高い。だがマヤたちにとっては部署違いだったし、モリスエは雑談に仕事の話を持ち込むタイプではなかった。
マヤはトウドウのPAIRをちらりと見た。鉱物の結晶のようなアバターは、動きに合わせて時折色や形が変わる。幼少期から一緒に育つ相棒としては、少々変わった部類のデザインだった。マヤがPAIRに気を取られているあいだに、トウドウは次の質問に移っていた。
「最近のモリスエ捜査官の行動で、何か気になることはありましたか?」
「俺はないな。モリスエはいつも通りだったと思うぞ。ライフスコアにも問題はなかった。自殺を考えるほどメンタルに異常をきたしていれば、上司の俺にも通知が来る」
「ちゃんと部下のライフスコアを見てらっしゃるのはさすがですね。それ以外の……数値に出ないような変化に心当たりはありませんか?」
「そうは言うがなぁ……本当になんの違和感もなかった」
「それはそれで大事な証言ですね」
トウドウの言葉は無味乾燥としていた。ある意味では非常に監察官らしい態度だ。
段々と重くなる空気に耐えかね、マヤはおそるおそる口を開いた。
「あの、直接的な関係はないかもしれないのですが、よろしいですか」
「どうぞ、コトブキ捜査官。遠慮なさらず」
「モリスエ捜査官は結婚を控えていた、と思います……」
それを聞いたトウドウはぱちりと目を瞬いた。まるで曇った空に雷が閃くような、そんな輝きがマヤには見えた気がした。
「コトブキ捜査官、詳しく聞かせてもらえますか?」
「はい。モリスエ捜査官には学生時代からお付き合いしているパートナーがいて、そろそろ結婚を考えていると、何度か聞いていました。ご両親へのあいさつに行ったとか、私にもいろいろ話してくださったので。それで私、モリスエ捜査官と今度――11日にも、相談というほどではないのですが、会う約束をしてました」
「あー、なるほど、恋愛相談……まあ同性同士ですし、気軽なおしゃべりというやつですね? そういうことは何度かあったんですか?」
「はい。月に一回か二回」
「貴重な情報をありがとうございます。PAIRを解析するにしても、そういうところはプライバシー条項に引っかかりやすいので、証言があると本当にありがたいです。ちなみにお相手の名前はわかりますか?」
「タイチ・ヤマノヤさんとうかがってます」
「どうも。名前があれば記録照合ですぐ割れるでしょう」
トウドウのPAIRがものの数秒で結果を表示した。そのデータを抽出することの煩雑さやセキュリティレベルのことを考えると、マヤはぞっとした。監察官というのはそれなりの権力を持っている。個人情報ひとつ開示させるのも所轄の捜査官よりよほどたやすく、素早かった。
作業を見ていたシンドウは腕組みし、「交際相手とトラブルになったとか?」と尋ねた。マヤは思わず首を振った。
「そんな雰囲気はなかったと思います。すごく優しい人だっていつものろけてましたし」
「でしょうね。もし本当にトラブルがあれば、気心の知れた後輩に愚痴のひとつでもこぼしてるでしょう」
トウドウのPAIRがぐるりと回転した。そしてビスマスの結晶のように七色に変色する。
「ではこちらの案件は私のほうで預かります。ほかに何か気がついたことはありますか?」
その後トウドウはマヤたちに勤務中の出来事などを尋ね、十五分ほどで聴取を終了した。終盤あたりでトウドウは若干眠そうにしていた。見るからに覇気のない様子はマヤを落胆させるに十分すぎた。隣にいるシンドウからもかすかな苛立ちを感じ取れたくらいだ。
聴取用の規制線が解除され、トウドウが立ち上がる。マヤとシンドウも立ち上がって敬礼した。流れで敬礼を返して立ち去ろうとするトウドウに、マヤは声をかけた。
「監察官。モリスエ捜査官は自殺なんてする人じゃないです」
トウドウは振り返り、不思議そうな顔で言った。
「その判断は私にもあなたにも出来ませんよ」
マヤは一瞬何を言われたのか理解できずに固まった。それに気づいたトウドウは、ゆっくりと子どもに説明するかのように言った。
「あなたの知るミオ・モリスエは、彼女の一部分にすぎない。彼女はあなたに打ち明けていない悩みがあったかもしれないし、実はまったく違う性格の持ち主だったかもしれない。初動捜査の時点で主観と憶測を持ち込むのはご遠慮願いたい」
「なっ……!」
「では失礼。有意義な時間でした、どうも」
黒いジャケットをひるがえし、ヤスタカ・トウドウ監察官は出て行った。
外では予報よりも早く雨が降り出していた。
タイトルの時点でお察しですが、主人公は監察官です。