闇を泳ぐ男
夜も深くなったころ、ヤスタカはチューブトレインに揺られ、ある場所を目指していた。
緊急で集められたメンバーは、それぞれがそれぞれの勝手で動くため初動で混乱するのが基本である。当然ヤスタカも一悶着あった。明日は朝一番でタカミネ管理官による編成と割り振りが行われるだろう。
対策本部に招集された面々も、疲労の色を見せつつ退勤していった。それぞれバラバラに局を出ていくため、よほどのことがなければお互いの行方など知らない。帰宅したか、寄り道をしているか、そんなことを詮索するのはプライバシー条項違反になる可能性が高い。
窓から見える景色が娯楽区のものへと変わる。目的地が近づいて来たため、ヤスタカはぼそりとウキョウに言った。
「擬態ホロ準備しといてくれ」
『いつものやつな。利用者の中央値で作ってるから文句言うなよ』
「言わねえよ……」
トレインが停車し、大勢の人々が下りていく。それにまぎれ、ヤスタカの姿は中年の男性に変わった。ホログラフィーを応用した光学迷彩のようなものだ。利用推奨はされていないが、公序良俗に反しない限りは使用が許可されている。特にこの駅に降りる人間は大なり小なり使用している傾向がある。風俗店などはこの擬態ホログラフィー抜きでは商売が成り立たないレベルだ。街頭の監視カメラに対しては無意味だが、人の目を欺くことは出来る。それが重要なのだ。
巨大なシンジュク駅の改札を出て、迷路のような地下通路を突っ切っていく。この日に限ってはあまりふらふらする余裕はなかった。少し怪しい雰囲気のある繁華街へ出向き、登録認証がゆるい場所を通って目的の場所へと向かう。どれだけ管理社会が発達しようとも、規則の穴は存在するものだ。何物にも縛られたくないという気持ちや、規則遵守を怠るずぼらな側面、そういったものは永遠に消せない。反抗心や気のゆるみが制度にゆがみを作り、公然の秘密たる「そういうところ」が生まれる。危険な場所だと認識しながら、それでも人は集う。なんともいえない熱気と闇をはらんだ飲み屋街の片隅で、ヤスタカは雑居ビルの薄汚れた階段を上がっていった。
曇りガラスのドアを三回ノックする。すぐに男の声で返事があって、扉が開いた。小柄な男がヤスタカを見もせずに招き入れる。そして軽く会釈した。彼はヤスタカがホロヴェールを使っていることを知っているため、顔の確認などしない。どうせ無駄だとわかっているから、ウキョウが送ったメッセージの通りに行動している。
「ども。ムッシュー・ブラン」
男の言葉にヤスタカは小さく笑った。
「そのふざけた呼び方も久しぶりだな。元気だったか、ウィーズ?」
「相も変わらず最悪も最悪、クソみたいな毎日ですよ。今日は特にそこらじゅう大騒ぎでほんとにひどいし。出来ればムッシュー・ブランともお会いしたくなかったっすねぇ」
「それは俺もだよ」
薄暗い室内は雑然としていた。古ぼけた合皮のソファには丸めた毛布が置いてあり、近くには文化財のような有線コンピューターが置かれている。ウィーズが拾ってきたジャンクにヤスタカが手を加えた、ほぼ自作のマシンだ。一部のヒューズやファンなど、簡単なパーツはヤスタカが作った。部屋中にコードが張り巡らされ、現代とは思えないレトロ感を醸し出している。これはヤスタカにとってある種の武器庫のようなものだ。結局最後は有線に限る、というのがヤスタカの持論だった。
ヤスタカはこれからアンダーグラウンド世界――シャドウレルムのサーバーにもぐる予定だ。念には念を入れ、自宅からのアクセスを避けたというわけだ。ヤスタカがモニタの前へ椅子を引っ張ると、壊れかけのキャスターからギコギコと音がした。気にせず座り、電源を入れてシステムの確認をする。そうこうするうち、ウィーズはヤスタカに茶のペットボトルを渡した。
「ムッシュー、今日は何にアタックかけるんです?」
「そういうのは聞かない約束だろ」
「たまにはいいじゃないっすかぁ」
「そうだな……お前が昔入りたがってた組織の集会をパパラッチしに行く」
「えっ嘘スペクター!? スペクターの集会行くんですか!? ほんとに!?」
急にうるさくなったウィーズをいなし、ヤスタカはウキョウにペットボトルをスキャンさせた。ウィーズとはそこそこ付き合っているが、それでも渡される飲食物については細心の注意を払っている。結局のところ、ウィーズも限りなくグレーな人間なのだ。信頼と用心は同居しうるものである。
ウキョウがゴーサインを出したため、ヤスタカはボトルのキャップをねじ切って開封した。緑茶の味はDNAレベルで親しみが持てる。ボトルをモニタの横に置き、ヤスタカは今時珍しいタイプのキーボードに手を置いた。このキーボードでタイプしたときのクッション感は絶妙で、ヤスタカは未だにこれ以上のモデルと出会えていない。そもそも現代ではホログラフィーによるキネティクスボードが普及しているため、形あるキーボードというのは家庭用や業務用が多い。それらもスリムでコンパクトであることが重要視される。ヤスタカが好むようなキークッションの感覚や配列を採用しているのは、ほぼヘビーユーザーやマニア向けの製品だ。コストがかかるわりに売れないモデルのため、生産数は下がり続け、今や買い替えが困難となっていた。
さまざまなサーバーを経由しながらオンラインへつなぎ、ヤスタカはカタカタとキーをタイプした。前々から監視していたボイジャーの行動を追跡する。脇からひょっこりとウィーズが顔を出した。
「ねえムッシュー、見ちゃだめですか」
「ダメに決まってんだろ」
「いやーそこをなんとか。一度でいいからスペクターの会合風景見てみたかったんですよぉ。ボスが演説するところとかさぁ」
「ボスが来るかどうかわかんねえぞ?」
「それでもいいです! たぶんアバター見ても誰がボスかわかんねえし!」
ヤスタカは思わず苦笑した。ウィーズのその猪突猛進なところは嫌いではない。
モニタの中ではウキョウがシャドウレルムへの安全な接続を設定している。ヤスタカがVR用のヘッドギアの調子を確認していると、ウィーズが割り込んで食い下がった。
「ねえムッシュー、お願いしますよぉ。ムッシューくらいの凄腕ハッカーじゃなきゃ、スペクターの会合場所とか参加者とか絶対わかんないじゃないですかぁ」
「あのな、こういうのは自分でたどり着けないなら諦めたほうがいい。少なくともシャドウレルムはそういうルールだろ」
「じゃあ今が千載一遇のチャンスじゃないですかぁ! お願いします!」
ヤスタカは深いため息をついた。ウィーズにここまでゴネられるのは久しぶりだった。こうなるとわかっていたらスペクターのことを話したりしなかった。ウィーズを甘く見て口が滑った結果だ。
どう断れば納得させられるか、ヤスタカが思案していると、モニタの中からウキョウが半笑いで提案して来た。
『いんじゃね、見せてやれば』
「さすがにそれは無責任だ」
『そうか? ウィーズは普段からシャドウレルムに入り浸ってるだろ。スペクターじゃなくても違法集団と仲良くしたり重要な情報握ったりしてるし、オレからすれば危険度はそんな変わんないぜ。それにオレとお前を裏切れるほど肝も据わってない』
ひでえ、とウィーズが肩を落とした。しかしすぐに「じゃあ見てていいですか?」と食い下がるくらいには元気だった。
ヤスタカとしても相棒の助言がついたならば無視はしない。ヘッドギアを置き、ホロジェクターの電源を入れた。室内にホログラフィーが投影され、電脳世界のウェルカムサインが現れる。ローディングと同期が終了すると、室内はまるで闇市のような背景に変わっていた。先ほどヤスタカが海外サーバーを経由してつないだアンダーワールド――シャドウレルムだ。
シャドウレルムの空は常に薄暗く、黄昏時から深夜という設定がされている。朝昼は来ない。そんなテクスチャデータが存在しているかも疑わしい。立ち並ぶ建築物のデザインは東洋と西洋のごった煮だが、一貫して古風なモチーフだ。欧州由来と思しき荘厳な城もあれば、中東がモデルらしき土壁のマーケットもある。誰が望んでこんなデザインにしたのかはわからない。だがシャドウレルムはアングラユーザーたちが自分たちでカスタマイズして作り上げている。そのため彼らがなんとなくゲームやフィクションをもとに作ったというのが通説だった。元をただせば妄想から生まれたアンダーグラウンドだが、実際に怪しい連中がログインして取引をしているので、今や想像が本物になってしまっていた。
映像が安定すると、ウキョウが建物のバルコニーから移動を開始した。シャドウレルムにエントランスという概念はないので、利用者たちはいつも好きなポイントからアクセスして来る。そのため、路地裏やマンホールや冷蔵庫から突然ユーザーが出てくることがある。表のワールドと比べるとそのあたりが独特だった。今回ウキョウの指定したポイントは、さびれた食堂のバルコニーだった。
『突撃隣の秘密結社ー』
今日のウキョウのアバターは黒いオオカミだ。PAIRのアバターはユーザーが好きに着せ替えられるので、ウキョウはその時々によって無難な格好をしていることが多い。
音もなく地面に降り立ち、ウキョウはブラックマーケットを闊歩する。露店の軒先にはオリエンタルなランプが吊り下げられていた。行きかうアバターは人間タイプから動物、無機物まで幅が広い。ウキョウ同様、ここでは誰しも本性を偽っているので、アバター自体に大した意味はなかった。
周囲に広がるブラックマーケットを見ながら、ヤスタカは手探りでキーボードに触れた。入力のためにホロを部分解除するのは座標指定が面倒なので、もっぱら手元にキーボードを確保することにしている。何年も使い込んだキーボードなので、配列は見ずともわかる。キーをタイプして追跡プログラムを作動させた。
『ちょっと処理に時間かかるから、適当なとこ入るぞ』
ウキョウがゆったりと道を歩き出す。そのアバターに付属しているふさふさの尻尾を見たウィーズが「もふもふじゃないすかぁ……」と嬉しそうな声を出した。
現代において動物というものはほぼすべて保護区に集められている。ノア・ドーム建設以前にはペットという概念も存在したが、現在は動物そのものが希少となったことや、公衆衛生の信念から、一般人が生き物を飼うことはなくなった。もこもこふわふわしたあの毛皮の感触は、保護区の動物ふれあいコーナーくらいでしか得られない経験となっている。憧れるのも無理はなかった。
マップ移動を繰り返し、ウキョウは『クローゼットクラブ』へ入った。ステージにはショッキングピンクのカーテンがひかれ、派手なライトが用意されている。そして大音量の音楽と、何とも言えない熱気のようなものが立ち込めていた。空気の変化に気付いたウィーズが上擦った声でヤスタカに尋ねた。
「あっまじですか、ムッシューここ入っちゃうんですか」
「いや、どこでもいいんだけど、ここは特に顔知られたくないって人が多いから都合よくて」
「そりゃそうでしょシャドウレルムでも指折りのストリップクラブですからね……! ていうかここ超高いんすよムッシュー!」
財布の心配をしつつも、ウィーズの顔は期待に輝いている。一方のヤスタカは冷淡にキーをタイプし、ボイジャーの行方を探っていた。彼はいつも通り自分のカジノエリアにいるようだ。『集会』へ移動するにはまだ早い。
シャドウレルムのエリアにも様々なグレードがある。このクローゼットクラブは、違法カジノエリアなどには劣るものの、比較的機密度は高い。これはアダルトコンテンツ特有の選択的盲目である。こういう場においては、居合わせたほかのユーザーたちのことは詮索しないのがマナーというものだ。それに、ここへの接続がバレると困るような人間も大勢いるため、運営側も客同士のプライバシーには配慮している。だからコソコソと何かをやるには適していた。
ヤスタカがキーをタイプするのに合わせ、周囲にいくつか半透明のウィンドウが表示される。マップ画面は多層表示されており、特定のユーザーIDをマークして表示している。いずれもヤスタカとウキョウが今までに突き止めたスペクター関係者だ。構成員までいかなくても、何らかの形で援助をしている人間も含まれている。
『さっきボイジャーの通信ログあさったけど、あいつら集会の開始時間は決めてないみたいだ』
「ああいう連中はゲリラ的な集会になりがちだからな……」
『あれだけの事件起こしたあとの夜だから、警戒して集会は避けるかなとも思ったんだけどな。ボイジャーのやつは結構慌ててるみたいで、ちゃんとボスから話聞けるのかってほかの連中に聞いて回ってた』
「マジか、あれだけのことやるのに意思疎通してねえのかよ」
組織としてどうなんだ、とヤスタカはぼやいた。とはいえ、スペクターというハッカー集団に組織としての成熟性を求めるのも土台無謀な話ではある。オンラインのみで活動する組織というのは、現実世界に根を下ろす組織とは勝手が違うのだ。
ヤスタカは椅子にもたれ、ボイジャーが動くのを待つことにした。あちらが動かない以上、こちらも出来ることが限られてくる。
ステージではダンサーたちがショーを始めており、隣にいたウィーズはさっきから謎の歓声を上げている。
露出度の高い衣装をまとった豊かな肢体が躍動し、一枚また一枚と衣装を脱ぎ去っていく。観客たちがはやし立てると、ダンサーたちがショールを片手にステージ上を練り歩く。あちこちで仮想チップが飛び交い、ダンサーがそれを受け取ってはファンサービスをしていく。ウィーズはヤスタカの隣で食い入るようにそれを見つめていた。
「う、うおおおおおお……!」
「ウィーズ、お前スペクターの集会に興味あったんじゃないのか?」
「えっあっはい」
「目が泳いでるな」
『許してやれよ相棒。普通はテンション上がるもんだ。お前が冷めすぎなだけ』
ウキョウが呆れつつもフォローを入れる。ヤスタカもここへ初めて来たときのことを振り返り、自分も最初は作業に手がつかなかったことを思い出した。当時まだ高校生だったので、クローゼットクラブが定める年齢制限に違反していたのもいい思い出である。
ダンサーたちがヤスタカたちのいる座席のそばまでやって来た。そのうちのひとりが蛍光色にきらめく髪を揺らし、ショールをひらひらさせながらひざまずいた。裸の胸を見せつけるように体をくねらせ、悩ましく視線を伏せる。下腹部には鮮やかなピンク色のタトゥーが光っていて煽情的だった。
ウィーズがばっと立ち上がった。
「ちょ、ちょっとオレ、便所に」
ヤスタカは吹き出し、「さっさと行って来いよ」と答えた。そしてペットボトルの緑茶を飲みつつ、追跡プログラムが動くのを待った。
ダンサーはチップが出て来ないことを悟ると、機能性皆無のピンヒールをカツカツ鳴らしながら歩いて行った。やたらと左右に揺れる尻を見送りながら、ヤスタカは苦笑した。ウキョウがユーザーへの報告回線で話しかけてくる。
『あれ全部CGモデルをAIが動かしてるだけだって知ったらどんな顔すんのかな』
「それでもいいんじゃねえの」
『いいの?』
「想像力の問題だよ。別に生身の女性が目の前にいなくても、映像なり画像なりで盛り上がることは出来る。必ずしも実物じゃなきゃいけないわけじゃない」
『それって極論、想像力さえあれば家電とか食べ物にも興奮するわけ?』
「するんじゃねえの? 連想ゲームみたいなとこあるからな」
『はぇ……やっぱ人間の生殖本能は難しいわ』
ウキョウの返答にヤスタカはくつくつと笑った。生殖本能などAIには存在しない。この先も永遠に必要ないだろう。だが人間と生きていくうえでは避けて通れない概念でもある。
ウィーズが戻らないまま五分が経過した。ヤスタカは懐からキャンディの包みを引っ張り出し、それを舐めながら張り込んでいた。ダンサーたちのことは半目で見ている程度だ。退屈なのでサブウィンドウでマインスイーパを始めたところ、案外楽しくなってしまい、場の空気そっちのけで地雷マスにマークをつけ始めた。どれだけVRが進化しようと、古典ゲームが駆逐されることはまずない。
もう少しでクリアというところで、ボイジャーの探知シグナルが移動を開始した。ヤスタカは一瞬ためらってからマインスイーパを消し、ウキョウに追跡を命じた。すぐにウキョウがトレースを開始する。周囲の風景がゆがみ、ローディングのためにブラックアウトした。
『ボイジャーの視界を投影する』
ロードが完了すると、視界は一面の夜空に変わった。足元は小さな木造の小舟があり、その下には鏡のような水面が続いている。周囲にはほかの小舟が何艘か浮いているが、岸や港などは見えない。見渡す限り空と海だけがある。どうやらスペクターのメンバーたちはそれぞれ小舟に乗り、この海域に集まっているようだった。
ヤスタカは思わず口笛を吹いた。
「意外とロマンチストォ」
周囲に一艘また一艘と小舟が増える。スペクターはそれなりにメンバーがいるようだった。ヤスタカも今までスペクターの具体的な規模を把握していなかったが、この場だけでざっと三十人以上が確認できた。
集まった誰も言葉を交わさず、じっと何かを待っている様子だ。言わずもがな主催者待ちだろう。ヤスタカはフルーツキャンディを舐めながら、小舟に乗る数名のスペクターメンバーを見ていた。見た目に関してはアバターを着替えられた時点で追えなくなるが、どこかと通信しているならそれをキャッチするのもやぶさかではない。
『――やあ、諸君』
瞬時にその場の全員が耳を澄ませた。どう考えてもボスという雰囲気の話しぶりだった。
一艘の小舟から人影が立ち上がる。ヒューマンタイプのアバターだ。頭にはフードをすっぽりかぶり、流浪人のような見た目をしている。話し声は合成だ。オンラインではよくある偽装の一種だった。
『今日のことについて話を聞きたいという者も多いだろう。まずはそれについて話そう』