人には愛が……12
機密情報の宝庫と呼べるプリンタードーム。常駐している医師などが居るはずもなく医療設備も存在しない。仙台ルイスが最寄りの病院まで移送されるまでに長い時間が掛かった。執刀医が弾丸の摘出に掛かった時には手遅れの一歩寸前だった。
それでも手術は成功し、十時間も経過すれば心拍数も安定の兆しを見せ始めた。
けれど彼の意識レベルが快復に向かうことはなかった。
安らかに瞳を閉ざしたまま、身じろぎすることもなく、白いシーツの上にその身を横たえていた。
三人の少女たちは嘆いた。自分たちの我儘がルイスを醒めない眠りに誘ってしまったのではないかと。
駆けつけた上役はそれらを叱り飛ばし、鼓舞した。
「おまえたちに出来ることなど信じることだけだ。それすらも出来ないと言うつもりか? まったく不憫な監督生だよ、仙台ルイスは。なあ?」
少女たちは祈る。
少年と迎える穏やかな日々を。
***
少年の瞳に飛び込んできたのは痛みすら伴うほど眩い白一色だった。まぶたをきつく閉じると分泌した涙が溢れ出る。いくつもの筋となって、ぽろぽろと止めどなく零れた。
聴覚が声を捉える。「安心していい」少年に向けられたはずの言葉。女性のものだった。けれど少年にはなんと言っているか判らない。少年にとって声とはただの音であり、まだ意味を成す『言葉』ではなかったのだ。けれど。「安心していいよ」何度も続けられる声色に滲んだ親愛の情を、少年は受け取ることができた。少年の緊張をほぐそうと優しく穏やかに語りかけている声……
瞳を開く。
声の持ち主は、髪の長い女性だった。
女性の手が伸びてくる。少年に向かって。少年には伸びてくる手を警戒する判断力はない。なにせその手が自分の体に触れるという想像すらできない。生まれたばかりの赤ん坊よりも無防備な少年の肩に女性の手が触れた。驚きのあまり肩を震わせる少年に「大丈夫」とつぶやかれた。
手には温度があった。生きてるということだ。自分以外の生き物に触れられている……その事実に深い動揺と微かな安堵を抱くのと同時に、女性の手が小刻みに震え続けていることに気づいて、そのことを不思議に思った。けどその震えもどこか心地よく、少年は瞳を閉じる。
「よしよし、いい子だ」
……その声を聴いていると動揺は薄れ、後には安堵感だけが残った。
安堵は眠気を誘う。
少年は意識を手放す。
センダイ・フラーレンにある保護区画。
少年はそこで生まれて始めて心を許した。
女性の名を、キャロルという。
キャロルは異なるフラーレンの官公庁H.A.C.O.のP部に属する少女だった。彼女はセンダイ・フラーレンで開かれるP部の勉強会の一環として保護区画に訪れていた。
保護区画ではドーム型都市での生活に馴染めるよう教育が施される。保護されるまでの境遇によってその内容は変わる。生み出されて間もないようなクローンたちは専門の職員のもとでゆっくりと言葉を覚える。重要になるのは『この人になら心を委ねてもいい』という信頼関係を築くこと。心理学用語でいう『ラポール』というものだ。これがなければ、いくら言語聴覚士に臨床心理士などを始めとした無数の資格の取得を義務付けられている職員とて、無垢なクローンたちと心を通わすことは叶わない。
保護されたばかりの少年と心を通わせることに成功したキャロルだったが、しかしその少年は以来彼女以外には心を開けないという。まるで生まれたばかりの雛が始めに目にした相手を親鳥と慕うような、ある意味では理不尽とも呼べる信頼を向けられたキャロルは、滞在の日々の中、勉強会を終えるとその足で少年のもとへ向かうようになった。
「これが紙。言ってごらん、か、み」
「……ぁ、み」
「それは本。ほ、ん。ほら、口の動きをよく見て」
「……ぉ、…………ん」
全身全霊を以って伝えようとする意思。何も分からぬ少年に、言葉より先にキャロルの想いが伝わったのだろう。少年は熱心に言葉を学び、情緒を育んでいった。
「これは巫女。どうだ、赤いだろう、白いだろう」
「……、……み、こ」
「これはガスマスク。物騒だな、物々しいな?」
「……がぅ、ますく……」
「これはジャージ。運動しやすい。休日に着る服でもあるぞ」
「……じゃー、じ」
タブレット端末に表示された画像を指差して、背後に腰を下ろしたキャロルに上半身を預けながら、少年は数多の言葉を知る。
少年少女のクローンは『オリジナル』から失った分の知識を吸収するかのように、赤子に言葉を教えるよりも遥かに早く、学んでいく。
センダイ・フラーレンへの滞在は二週間。キャロルは毎日少年のもとを訪れた。滞在期限が迫る頃には、少年とは言葉によって意思の疎通が図れるようになっていた。
キャロルは滞在の終わりを告げ、そして尋ねた。
「ついてくるか?」
少年は答えた。
「いく」
……そして少年は辿り着く。
自分の属する都市――
「オダワラ・フラーレンへようこそ」
連なるドーム型都市郡。
それを見上げながら、
――だからあなたはきっと、世界で一番、完璧な人間よ――
声を聞いた気がした。
声のした先を見る。
背後には小田原城の天守閣が見えた。寂れた遊具が半透明のドーム越しに射す日の光に照らされている。少女の頬もまた、照らされていた。
クローンハザード。
その元凶を作った天才の、複製の人間……
「アリス」
少年が口にした瞬間、辺りが白一色に包まれる。
思わず眩さに目を閉じる。
閉ざしたまぶたの裏に数多の景色を見る。
それは記憶だった。ひとりの少年が過ごした半生の記憶だった。
――じゃ入り口で鳩みたいな顔してないで、入ってきたらどーです?――
――あんまり見ないでほしいの――
――足を引っ張らないように気をつけてください、サー――
数多の思い出の像は少年の輪郭を形作っていく。
――ば、バカにすんなよっ……もうっ――
――お好きなように呼んでいただければ、と思います、サー――
――わたしの名前を後に続けて呼んでみるの――
……わかった気がした。
自分が誰なのか。
――いつもより紅白が足りないね――
――イエス。優秀だったら上層部や六課に睨まれたりしないです、サー――
――走り回って、ここがどこだか、わからないの。……ここはどこなの?――
少女たちに呼ばれた名。
他の誰でもない、自分だけの名前。
思い出すことができる。
――その命を、直接受けたわけではないので――
――残る者も必要なの。……しょうがないから、わたしが見てるの――
「おれの名前は、仙台、ルイス」
眩さに灼かれたまぶたを、恐る恐る開く。
上役に連れられてドーム型都市に向かう仙台ルイスが居る。二人の姿を俯瞰しながら――あれは仙台ルイスではないと確信した。
同じ顔。同じ身体。けれど別の誰か。
この場所はそんな生命を許容している。
つまりあれは。
「おれの……クローン」
ああ、そうなのだ、と気づく。
ここはルイスの居た場所ではない。
ここはルイスの居るべき世界ではない。
本物の仙台ルイスは眠りの中にいて、ここは意識が迷い込んだ虚像の世界なのだ。
臨死体験……あるいは想像力が上映している夢の世界か。
珍妙な話……そうは思うも、いずれにしても一笑に付すことはできなかった。
予感がある。
これはきっと、自分が目を覚まさない未来の光景なのだ。
アリスは言っていた。仙台ルイスは人間であると。
ならば――クローンを、造れる。
いついかなる形かはわからない。けどきっと、造られる。仙台ルイスと呼ばれた人間の複製が。そして上役の目に留まり、彼女ははじめ悲痛な顔で、けれどすぐに穏やかな顔で接し、オダワラに連れて帰る。
そこで彼は出会うのだ、三人の少女に。仙台ルイスのその代わりに。
……そんなのはごめんだった。
絶対に、嫌だった。
仙台ルイスとは、自分だ。
だから……
――行こう、センパイ!――
かつてのキッカの声を聞いた気がした。
オダワラ・フラーレン風紀委員、ルイス班の監督生、仙台ルイスは応える。
ああ。
今、行くよ。
そうして仙台ルイスは、目を覚ます。
苦悩の世界で。




