人には愛が……10
ルイスにはアリスの口にした言葉の意味がわからなかった。
「人間の記憶を洗浄して……クローンとして保護させるって……」
理性がそれをゆっくりと認識し、感情が理解を拒んだ。
だってそれは、あまりにも、罪深すぎる。
クローンの中に人間を潜り込ませることで、人間に都合の良い状況を作るように画策させる――そこまでは理解できない話ではない。そのみにくさは如何にも人間らしい。
しかし人の記憶を奪ってクローンの中に送るという行為には、底のない悪徳に対する嫌悪の予感を抱くことしかできなかった。
いや……待て。
記憶がないのであれば。
「そんなことして、何になるって言うんだ……ドームの中で暮らして……クローンとして育つ……だけじゃないか」
人間としての記憶がないなら、人間に都合の良い振る舞いをするはずがない。
そう言うルイスに向けて、アリスはちいさくうなずく。
「そうね。だから人間特有の弱点を使う」
「弱点だって? それは」
「家族よ」
「――――――」
絶句する。
家族。
なんて聞き馴染みのない言葉だろう。
なんて羨ましい言葉なのだろう。
「潜入させた人間に、本当の家族の情報を与える。本来の居場所のことを教える。
クローンには存在しない、受け継がれてきた血の存在を、命のバトンを、自覚させる。するとね、知らない家への帰属本能とでも言うべきものが芽生える。会ったこともないはずの家族の夢を見るようになる。母の夢。父の夢。兄弟や姉妹の夢をね……」
アリスは言った。人間は、みにくいと。
度し難い行為。それは決して荒唐無稽な試みとは思えなかった。
記憶を洗浄した人間をクローンに紛れこませ、成熟した者に外の世界の居場所を与える。血の繋がり、帰属本能……それがどれほど強力な物なのかはわからない。けど有栖川が生んだクローン種という生まれながらにして孤独な生命にとって……その自覚を持つ者にとって……孤独に生まれ落ちてきたわけじゃないという希望は、誰かに望まれて生まれたという事実は、どれほど大きな存在になるだろう?
その希望とは、心の麻薬に他ならないように思えた。
「………………………………」
アリスが語ってきたこと、現実味を帯びて聞こえる。
その上で――ふたつの疑問があった。
「……どうして、それをあんたが知っている?」
「他のアリスが仕組んだことだから」
なんてことないように言う。姉妹の仕業であると。
記憶を洗浄した人間をクローンとしてクローンの都市に紛れ込ませる……最悪の企み。七八人の姉妹たちの誰かが描いた絵図なのだ、それは。
ルイスは息を吐く。それからふたつめを尋ねた。
「もうひとつ。どうして、それをおれに教える」
「記憶を洗浄された人間のひとり――それがあなただからよ」
アリスと名乗った少女は、あまりにもあっさりと、そう言い放った。
「………………、………………」
……人間の記憶を洗浄してクローンとして保護させる。
おまえはその悪魔の所業の成果であると、そうアリスは言った。
――予感はあった。彼女がその話をした時から、あるいはと思っていた。
記憶を洗浄されてクローンたちの都市に、クローンとして投げ込まれ……
いずれ立場を得ていった暁には、忘却した記憶を人質にされる運命にある……
どうしようもなく哀れで無力な人間……
そのひとりが、ルイスなのだ。
ルイスは手のひらに視線を落とす。
生命線の短い、借り物だったはずの、手のひら。
「……この銀の髪は? 傷んだテロメアのせいで、老いて白髪になったわけじゃ」
「ただの遺伝よ。――親からのね」
遺伝。
遺伝だって?
なんだ、それは。
足元が揺らいだような気がした。視界が遠くなったような気がした。
「あなたには、家族がいる」
ルイスは瞳を閉じる。強く強く、暗闇の世界を睨めつける。
「あなたには、帰れる場所がある」
両手で握りこぶしを作る。ぷるぷると震えるほど力強く握る。
「あなたには、傷んでいないテロメアが、長い人生がある」
「よせ……」
「あなたには、子を持つ資格がある」
「やめろ……」
黙ることなく、彼女は言った。聞きたくなかった言葉を。
「あなたは――――苦悩する子羊ではない」
瞬間……深く閉じられた瞳の中、よぎった顔があった。
自分を監督生と慕う三人の少女の顔。上役の顔。リーヴァの顔……
ルイスにとって短くはない時間を過ごして築いてきた絆。
ルイスが人間だと言うなら、それらは――まるで茶番じゃないか。
だってルイスは、苦悩する羊では、ないから。
望まれて生まれ落ちた生命だから。
望まぬまま造られた彼女たちと……何を分かち合うことができるというのだろう。
今日まで分かち合えていたことは全部、偽りの上にあったのだ。
虚飾の絆。そう思った。
そしてそれは、きっとルイスに限った話ではないのだ。
(……そうか。都市に投げ込まれた人間は……人であることを教えられた者は……みんな、こんな苦しみを抱くのか……)
クローンの中で心を培った者が抱く、共通した苦しみなのだと判った。
それはまるで彷徨える子羊の苦悩のようで……けれど違っていることを知ってしまった。
「……苦悩する子羊でないなら、おれは一体、なんだ……?」
答えを期待した問いではなかった。つい発してしまっただけの言葉。
それに、アリスの声が返ってきた。
「差し詰め――みにくいアヒルの子ね」
アヒルの群れに紛れ込んだ白鳥の雛。
皮肉の効いた答えに、ルイスは、そっと瞳を開く。
表情のないアリスが目の前に立っている。
「どうして! ……どうしてそれを、おれに……教えた!」
さっきと同じ言葉。
さっきとは違う意味で尋ねた。
アリスにはそれが伝わった様子だった。
「他の誰よりも先に、あなたの力になる」
「力だって?」
「家族のことを教える。探してみせる。必要なら面会の手筈も整える」
本来のルイスの居場所。
帰るべき場所のことを、彼女は見つけると言う。
「…………その見返りにあんたは、なにを求める?」
長々と語ってきた、彼女のその真意。
シンプルな解答が返ってきた。
「この場を見逃してもらう」
用意周到にプリンタードームに潜入したアリス。彼女にとってイレギュラーになったのが、たまたま居合わせて行動を起こしたルイス班だったのだ。
「飲むと思うか? そんな条件」
ルイスは懐のテイザーガンに手を這わせる。
「おれは、風紀委員、仙台ルイスだ」
「鏡に向かってそう言える?」
「……、……第一、あんたの話を信じてやる理由もない」
テイザーガンをアリスに向ける。
アリスはしかし、動じない。
「信じる信じない、ではない。受け入れるか投げ出すか」
身を切るような言葉を浴びながら狙いを定める。仕損じる距離ではない。
けれど……
風紀委員としての役目。
それを果たそうとする自分。
(……本当にそれで良いのだろうか?)
良いはずがない。でも、だったら、どうすればいいというのか。
キッカたちの期待を裏切って、アリスの逃亡に手を貸せばいいのか。
キッカたちの期待はしかしルイスが同族――クローン種であるから抱かれたもので……その身が記憶の洗浄を受けた人間だというなら、はじめから裏切っているのと同じことだ。
アリスの言葉に惑わされずに風紀を執行するべきなのか。思考を停止し彼女の言葉を毒だと耳を閉ざして。この世界のどこかにいるという、家族の存在に目を背けて。
人差し指をテイザーガンの引き金に掛ける。
――受け入れるか、投げ出すか。
聖なる罪深き二者択一は、ルイスの人差し指にとって、あまりにも重かった。
「どうする? 仙台ルイス――――いいえ、×××××」
人名。
本来の自分の名前を呼んだのだと判った。
知っている……?
彼女は人間・仙台ルイスの本名を知っている……?
どうやって。いつ。きっとその答えは彼女が手にしている端末にあるのだろう。自分を追っていたルイスの素性を知ったから、立ち止まって対話を決めたのかもしれない。
×××××。
まるで赤の他人の名前のように、その響きはルイスの耳を通り過ぎていく。
けれどルイスの心に、残る。
×××××……
同じ姓の中に、血の繋がった家族が……
「……惑わすな…………!!」
テイザーガンを強く握りしめ、そして――




