蛇口
蛇口から水が垂れている。見えはしないけれど、確かに蛇口から水が垂れている音がする。ポツ、ポツ、と不定期に水滴が落ちる音がする。
簡単なことからやらなくてはいけない、と友人は言った。面倒ごとを早く済ませるためというだけじゃない。簡単なことすらやらずにおくと、自分はこんな簡単なこともできないのかと思って、余計に気が滅入るからだ。友人はそう言った。
だけどその友人は、床に虫のように這いつくばっている僕の代わりに蛇口を締めてはくれない。それに、僕にそんなことを言う友人はいないのだから、これは僕の妄想だ。
なので、僕は蛇口から水が垂れるのを聴いている。
ポツ、ポツ。
優しい友人の助言が妄想だと判明してしまったので、なおさら僕は動けなくなった。廊下の冷たい床に頬を擦り付けて、踏み潰された鳥のようにジッとした。この廊下は僕の家の廊下だ。正確に言うと、賃貸であるし愛着も無いので、僕の家ではない。だけど僕の住んでいる家の廊下だったはずだ。これを這わずに、真っ直ぐ立って歩けば、十歩とかからず寝室に通じる。しかし蛇口から水が垂れているせいで僕は部屋に戻ることもできない。水が垂れているのはどこの蛇口だろう。キッチンだろうか、トイレだろうか。きっとキッチンの方だ。あそこは最初から、思い切り力を入れて捻らなければ決して締まらない頑固なやつだった。だけど僕はいつ、キッチンの蛇口なんて捻っただろう。
もしかして、と僕は思った。ひょっとして今僕を冷やしているこの氷の床は、僕の部屋に通じるものじゃないかもしれない。すると、病院の廊下だということになる。病院の廊下は死が染み付いてるので、そして何より冷房が効き過ぎているせいで、いつも冷たい。実際に病院の廊下に口付けるような真似はしたことが無いのでわからないけれど、どうせ冷たいんだろう。つまり僕が虫のように貼り付いてるこの床は、病院の廊下だ。
ポツ、ポツ。
耳障りだと思っていた、水滴が垂れる音は、蛇口ではない。点滴のチューブから薬品が垂れている音だ。この点滴を腕に挿していた患者は、長い入院生活に嫌気がさして、ついに逃亡を図った。勢いよく針を肌から抜いてみると、血と共に黄色がかった薬品が溢れてしまった。だけど逃亡者がそんなことを気にしている暇はないので、チューブと、そこから垂れる薬品、及び血はポツポツ音を立てている。患者は逃げたけれど、しょせんは患者なので体力が皆無、病室を出てすぐに廊下で転倒──まさに今の僕と同じ状況だった。
つまり僕は逃亡中の患者だ。もうじき医者が迎えに来る。僕は固くなっていた身体の力を抜いた。僕は自分で蛇口を捻らなくてもいいということが判明したので、口角を上機嫌に吊り上げて待った。医者には少し怒られるかもしれない。なに勝手に逃げてんだ馬鹿野郎、殺すぞ、殺したら減給だ、どうしよう、と思案する医者をたしなめながら病室に戻って、点滴の針をもう一度腕に挿す。音は止む。
だけど待てども医者は来なかったので、僕は蛇口から水が垂れるのを聴いている。
ポツ、ポツ。
可能性はもう一つある。僕は自分の肩を優しく叩いてやるつもりで前向きに考えた。よく匂いを嗅いでみると、なんだか香ばしい、これはコーヒーの匂いに違いないのだ。この廊下は自分が住んでいる家の廊下で間違いない。そして今は朝だ。朝日が差し込まない朝だってきっとある。
音の出所がキッチンだということは最初の憶測と違わない。けれどコーヒーの匂いがするということはつまり、この音はコーヒーメーカーの、透明なガラスの容器に淹れたてのコーヒーが垂れる音だ。白いインクで目盛りが振ってある、今はきっと「4」と書いてあるところまでコーヒーが溜まっている。少し縁起が悪いけれど、蛇口に比べれば大きな問題ではない。
僕はコーヒーを飲まない。だけど今朝は飲む気分だった。だから古いコーヒーメーカーを出してきて、淹れたてのコーヒーを飲もうと思った。そういえばそうだった。
つまり時間が経てばこの音は確実に止む。僕が惰性的に廊下に寝転がっていて、死体と大差ないほど冷たくなっていても、いつかは止む。僕は好きなだけここで死体ごっこをしていればいい。コーヒーは冷めるだろうが、どうしたって自分の体温よりはきっと温かいだろう。そしたら僕の目もようやく覚める。僕には目覚めの一杯があるんだ。友人と医者がいなくとも。
ポツ、ポツ。
目覚めの一杯というのは、目覚めてからどれだけ時間が経っていれば失格になるのだろう。そのうち鼻が詰まって、コーヒーの匂いもわからなくなってしまった。
待てどもコーヒーは出来上がらなかった。
ポツ、ポツ。
ガチャ
そして玄関が開いた。友人がジャラジャラと飾りがたくさんついた鍵を手にずかずかと入ってきた。大きな目玉がぎょろりと動いて、床に突っ伏している僕を見つけた。
なにやってんだ、と友人は言った。蛇口が、と僕は咳き込むように返事をした。
友人が陽炎のようにゆらゆら揺れながら歩いてきた。玄関の扉を閉める直前に、空に三日月が光っているのが見えた。だけど僕は目が悪いので、あれが朝日だと言い張れるし、実際は街灯かも知れない。
「久しぶりに会うといつもこれ。お前は部屋は片付けないし、夕飯は食べないし、どうせ風呂にも入ってない──」
友人は廊下に来る間にもテキパキと床に散らかったゴミを拾い上げて、大きな袋にまとめていた。
風呂には入ってる。僕はそう言い返した。グイッと力強く腕が引っ張られて、僕は立ち上がった。視界がグルっと回って、一瞬フラついたがなんてことない、自分の家の、家賃を滞納してはいるけれど、一応は僕の家の、寝室へ通じる廊下だ。その右手にある扉を体重をかけて押し開けた。キッチンだ。蛇口から水が滴って、シンクに水が垂れている。Think。考えればわかることだった。
ポツ、ポツ。
「ねぇ、蛇口が」
「簡単なことからやらないと」
友人はそう言って、面倒くさそうに蛇口を捻った。ポツポツという音が止んだ。世界は静寂に包まれた。友人は大きな音を立てて動くので静寂は破られた。
「この家にコーヒーメーカーあったっけ」
「知らねぇよ」
「点滴の針、抜こうとしたことあったっけ」
「知らねぇよ」
友人は僕にチャーハンを作ってくれた。僕はグリーンピースをよけた。ふ、と鼻でわらって友人は食べ続けた。これって朝ごはん?と僕は聞いた。は?と友人は答えた。どうして床に寝転がっていたのか、と友人は聞いた。わからない、と僕は答えた。たぬき。きつね。ねこ。ねんねこ。寝ろよ。
寝ろ、と友人は言った。明日は起きたらコーヒーが飲みたい、と僕は頼んだ。そして僕は蛇口のことを忘れて深い眠りについた。友人は次の朝、コーヒーを淹れてくれた。コーヒーの苦味に顔をしかめる僕に、友人は、蛇口、直しといたから、と言った──
だけど僕にそんな友人はいない。
なので僕は、どこだかわからない廊下に頬骨を押し潰されながら、蛇口から垂れる水の音を聴いている。
ポツ、ポツ。