9 Shoal.
ハルは立ったまま上を見ていた。空はまるで抽象画のようだ。赤と青が不均等な形で混ぜられている。
足元を満たす水は、頭がぼんやりする温かさを保ったまま、どこへも流れず凪いでいる。このままだと頭の中がどろどろに溶けてしまいそうだ。靴底越しにゴツゴツとした平らな岩盤を感じる。小さな風が吹いて、パーカーの乾いた裾を揺らす。
いつの間にか浅瀬のような場所にいる。右も左も同じ風景が続く場所に、たった一人で立ち尽くしている。
ハルはハッと気がついて両手を頭に当てた。続けて髪、頰、瞼、それから胴体の順番に確認し、それらがいつもと同じ形をしていると悟った途端に安堵の息を漏らした。そして白いパーカーの皺を伸ばし、ついでに背筋も伸ばして歩き始めた。当てが無い、訳ではなかった。目的地は赤鉛筆で引かれたかのような水平線の、その先だった。ハルは本物の水平線を初めて見る。
おとうさんのはなしはほんとうだったんだ、とハルは誰かと話すかのように呟いた。そうでもしないと脳髄が、暖かさで今にも溶け落ちてしまいそうだった。ハルは続けて言った。
「せかいじゅうのひとたちは、あれがせかいのはてだとおもってたんだね」
合いの手のように水音がなる。それ以外何も聞こえなかった。
だが当然のことながら、歩いても歩いても水平線は近づいてこなかった。赤い一本の線は意地悪にも遠ざかっていく。ぼーっとしているハルの頭でもだんだんとそれがわかってきた。小一時間ほど歩き続けたところで、仕方なく引き返すことにした。
ハルはのろのろと回れ右をした。すると視線の先で、天から地へ一本の細い線が引かれているのに気がついた。
ハルはよく見ようと目の上に手のひらをかざした。とても高い塔か何かのようだ。大きさからして遠くにあるに違いない。ただ、前は無かったはずのものである。ハルはしばらく頭に手を当てた後、そちらへ向かって水を蹴り上げた。ぱしゃん、とささやかな音が耳朶を揺らす。水たまりを渡る子供よろしくわざと水を跳ね散らかしながら、ハルはゆっくりと戻り始めた。
塔はまっすぐのまま、ゆっくりと左右に揺れていた。天から吊り下げられ、下に支えがないかのようだ。右へゆらり、左へゆらりと彷徨うそれは、よく見れば塔ですらなかった。さらに言えば、思っていたほど遠くにもないようだった。天から地をつなぐものは、一本の赤い紐だった。絵馬をかけるような、女の子の髪を飾るような、しっかりと太く赤い紐だったのだ。
その端を目にした瞬間、ハルは勢いよく駆け出した。その頰からは血の気が引いていた。抽象画を映した水面を、汚れのない白が渡っていく。赤い紐の末端に何かが吊り下げられている。どことなく、糸が絡まった操り人形を思わせる形だ。両腕を曲がった万歳の形にして、上がらない足は投げ出されている。首が折れそうなほどうなだれている。浮かんだ足元に首輪のようなものが落ちている。
ハルは震えるように走った。嫌な既視感が間違いであるように、頭の中で懸命に祈りながら走りに走った。しかし紐のそばに着いた瞬間、ハルは愕然として膝をついた。その人の肌に血の気はなかった。顔を隠す茶色の前髪は、死者にかけられた白布のようだ。落ちていたのはヘッドフォンだった。
マリオネットのごとく吊り下げられていたのは、ハルが探していた人そのものだったのだ。
「……っ、ふーやさん!」
ハルは息を短く吸って彼に飛びついた。冷たい肩を掴んで揺する。だが答えはない。声どころか、表情さえも動かない。死という単語が脳裏をよぎる。思わず頭を横に振り、紐が絡まったところに手をかけた。解けない。切れるものはないかと辺りを見回す。何もない。
諦めたハルが手を離すと、風也の体が振り子のように揺れた。ハルは数歩後ずさりした。そしてふと空を仰いだ。
赤色と青色の渦に向かって、赤い紐はまっすぐに伸ばされていた。不意に、母の優しい声が頭の中へ蘇った。いつだったか、少し難しいお話をねだったら、仕方ないねと言って話してくれたのだ。お釈迦様が罪人を哀れんで、天国から地獄へ一本の蜘蛛の糸を下ろす。罪人は手を打って喜び、糸を手繰って上り始める。それが切れてしまうまで。
「……」
ハルは一歩、後ずさった。それからもう一歩、一歩と後ずさり、三メートルほど距離をとった。
大きく息を吐き、ぶかぶかな袖をまくる。学校で習った通り、走る前の姿勢をとる。
ふわ、と風也の体が浮き上がった。
刹那、ハルは弾かれたように走り出し、勢いのままに跳んだ。真っ白な影が宙を舞う。風太の頭よりかなり上、片手に触れた紐を掴み、体をぐいっと捻らせながら両手両足で抱きしめる。
は、は、と息を荒げなが、ハルはぶら下がったまま下を見た。お気に入りのスニーカーの下に茶色の頭がある。赤と青の混じった水面に、もう見慣れたヘッドフォンが浮いている。紐は二人分の体重をかけられてもなお、切れそうになかった。
ハルはもう一度風也を見た。
一つ頷くと上を向き、手を限界まで伸ばして頭より上の紐を掴む。腕を曲げると同時に足を上げて紐を挟み、ぐっと伸ばして胴を上へ持ち上げる。連動してもう片方の腕をさらに伸ばす。それを曲げ、足を伸ばし、さらに掴む。動きの流れを一定のリズムに乗せていく。命綱となった赤い紐は、ハルが動いてもまったく音を立てなかった。
ハルの体に、だんだんと活力が湧いてきた。温さで麻痺しそうだった頭の中が、嘘のように冴えていった。
だいぶ登ったところで、ハルは初めて足元を見下ろした。眼下に広がるのはやはり奇妙な色合いの水面だった。真っ赤な水平線が、延々と続いているような浅瀬をぐるりと囲んでいた。温かな水と、空と、ここにある紐と風也以外、この空間には何もないようだった。
何もないのだ。
ぶら下がったまま、ハルの体がぶるりと震えた。
その時、上の方で何かが聞こえた。がさごそと布がこすれあうような音だ。ハルは思わずそちらを見た。ハルの背丈分ほど上の紐が、内側から不自然に膨らんでいた。ハルはそこまでよじ登り、目を丸くした。
一匹の小さな蟹がいる。ぽってりとした楕円の甲羅は滑らかだ。その上から持ち上がった一対の目が左右に揺れている。伸ばされた節足の一つ一つが、まるでからくりの様に蠢いている。体の割に大きな右の鋏を、紐の繊維に絡ませてもがいている。
ハルはあわてて手を伸ばし、蟹のはさみに絡んでいる糸を解き始めた。繊維は鋏の凹凸にまで複雑に食い込んでいたが、ハルが考えていたよりも簡単に解けた。蟹はハルの手にするりと収まった。
口から吐き出された泡が、ぷわぷわと空中へ流されていく。
ハルは思わず微笑み、蟹の甲羅へ頬を摺り寄せた。だがその瞬間、はたと気づいたように目を見開き、蟹を凝視した。こぼれそうなほど開かれた瞳は、大きな鋏へと向けられていた。
蟹は目を伸ばした。そして、何を察したのか甲羅のくぼみにしまった。
あふれた泡が震える手に落ちる。
ハルは唇をかみ締めて蟹を見ていた。だがやがてゆっくりと目を閉じ、開いた。幼子の指が、蟹の胴体を押さえ込む。
次の瞬間、それを口に放り込んだ。
きしゃあああと不快な音が放たれた。対抗して甲羅に思いっきり噛み付く。蟹は節足でハルの頬を蹴り、歯を蹴って暴れだす。ハルは唇を閉じ、両手足の力を緩めた。ハルの体が紐を伝って落ち始める。口の中に腫れるような痛みが広がる。何度も甲羅に歯を突き立てる。広がる浅瀬がどんどん近づいてくる。
突然、舌に鋭い痛みが走る。思わず目をつぶったが痛みはいや増す。鉄くさい味が口の中に広がる。蟹が鋏で挟んだのだ。ううう、と呻きながらハルは甲羅を歯で揺すった。すると、がきんと音を立てて歯から確かな手ごたえが伝わった。すっぱいような苦いような液体があふれかえる。そのままどんどんと下っていく。風也の頭がポツリと見える。ハルは半分なきそうになりながら再び蟹の甲羅に噛み付く。舌にかかる痛みが増える。切られてしまいそうなほどの痛みと鉄の味が口の中を満たしていく。
ハルは目を瞑り、ぎゅっと紐をつかんだ。
その瞬間、硬い甲羅が割れるような破壊音とともに、蟹の鋏が離れた。ハルははっと目を開いて、がりがりとした死骸を喉の中に送り込んだ。小さな首筋がこっくりと動いた。
すると、むくむくと音を立てて右手が肥大した。楕円形に膨らんだところでぱっくりと裂ける。その姿は蟹の大きなはさみのそれだった。
ハルは紐を蹴り、両手両足を離した。真っ白な影が水面に着地し、波紋を作る。
そのまま風也のそばに駆け寄り、背伸びして大きな鋏を振りかざした。まっすぐに垂れ下がった紐へ、ゆっくりと刃を当てる。ごくりとつばを飲み込み、すべての力をこめて挟む。
ぱちんと鋏がなり、音を立てて紐が切れた。風也の体が膝からがくんとくずおれる。
小さい片手で、ハルは風也を抱きとめた。
同時に、二人の体が水中へ沈みこんだ。足場となっていた岩盤が消えたのだ。ハルはきょろきょろとあたりを見回したが、小さな波がいやおうなく頭を引っ張り込む。いくつもの波が沸きあがる。ハルの口から空気があふれ、暗い水が入り込んでくる。息が苦しい。息ができない。ハルは両腕で風也を抱きしめ、必死になってもがく。
水の中で風也が薄目を開いていたことに、ハルは最後まで気づかなかった。
***
一時間ほど歩いても見つからないとなると、流石になすすべがない、ような気がする。
風太は一息ついて、雨に濡れた川原へ座り込んだ。服が濡れることを気にする余裕すらなかった。さしたままの傘を、無数の雨粒がしおしおと覆っていく。こういう時テレパシーなどが使えたらどんなに便利だろう、などと世迷言のような考えすら頭に浮かんでくる。
灰色の天を仰いだ。
その時、川から水音が聞こえた。猫でも溺れたのかと思いながらそちらに目を向ける。川の中ほどで、二つの球体が同じように上下しているのが見えた。両方とも茶色の毛をしている。片方は小さく、片方は一回り大きかった。
いや、よく見るとただの球体ではなかった。
風太は傘を捨てて川に飛び込んだ。川の流れは緩かったが、成人男性一人が潜れるほどの深さを持っていた。風太は軽々と泳いで真ん中までたどり着き、二つの球体の下を抱きしめて引き上げた。
はふ、と息を漏らしてハルが水から顔を上げた。
確認した風太は泳ぐ方向を変え、元の岸辺へ二人を投げ上げた。けほけほと咳き込む子供を尻目に、風太は川から上がって言った。
「……やっと見つけた」
そして二人の名前を呼ぶ。
ハルはすぐさま立ち上がった。小さな両腕をいっぱいに伸ばし、風也かばうようにして抱きしめる。すると風也がゆっくりと体を上げ、数回咳をしてから風太を見、唖然とした。
「……にいちゃん」
風太は緩く腕を組み目を細めた。その時、ハルが小さく呻いて口を押さえた。
「どうした?」
風太が駆け寄るとハルはしばらくためらったのち、おもむろに舌を出した。風也は目を大きく見開いて口を覆った。風太は「おい!」と叫んでハルの肩を掴んだ。ハルの目は涙で虚ろになっていた。
突き出された舌先に、小さな切れ込みが入っていた。
流れ出た血が舌を伝い、草の上に落ちて消えた。




