8 Flowed into the Water.
乾いた緑のカーペットから、ハルはゆっくりと目を上げた。
従兄の背中とカウンター越しに、役員の女性がいる。細く美しい形の眉が、ひそめられて蛇のように歪んでいる。その下にある銀色の丸眼鏡が中指で押し上げられ、しばらく瞳が閉じられたのち硬質な息が漏らす。
すると、「駄目です! どこ探しても……どこに行っても……!」と入り口の方から誰かが走りこんでくる。見れば短髪の女性が、乱れたエプロンもそのままに息を荒げていた。女性は早口で続けた。
「今、みんなで、手分けして、図書館中探したんですけど、全然見つかんなくって……。先輩どうしよう……!」
真っ赤になった目元を隠すように、小さな両掌が顔を覆う。眼鏡の女性はカウンター横の小さな仕切りをぱたんと開けて、短髪の女性に駆け寄りその背をさすった。寄り添う年頃の女達を前に、叔父と従兄は気まずそうに顔を付き合わせ、互いの目と向こう側を代わる代わる見あっている。
ハルは垂れた真っ白な袖を、胸の前に持ってきては下ろし、上げては下ろしと彷徨わせた。床の上へ置かれた本の上を、赤黒い影が行き来する。
そのうち短い髪の女の人がひくひくと肩を震わせ、うめくように泣き始めた。風太が近づこうと右手を前に伸ばす。その時、眼鏡の女性の口が開かれ、そこからため息のような声が溢れて落ちた。
「どうして……」
ラッパ形の影が動きを止めた。
次の瞬間、ハルは白い裾をぱっと翻し、全速力で駆け出した。迷わず本棚の間へと飛び込み、走りながら大声で風也を呼ぶ。だが返事はない。色とりどりの背表紙達が、映画フィルムのように次々と後ろへ流れていく。ハルは体の奥底まで空気を送り込み、全身を震わせて再び叫ぶ。
「ふーやーさぁぁぁあ――」
ちゃぷ、と足元で小さな音がなった。
立ち止まって床を見おろす。平たい魚が身をくねらせて通り過ぎる。水色の液体が、膝の下くらいまでをひたひたと満たしている。
ハルはあたりを見回した。本棚の群れがぐるりと回転する。水面がキラリと反射しながら、ゆっくりと上がっていく。かぷかぷかぷ、と足元から泡が立ち上る。笑っているかのようだ。
「ハル!」
空気を切り裂くような声が自分を呼んだ。はっとして後ろを見た。黒い服の青年が走ってくる。風太だ。
「ハル……! おま……何して……っ!」
その後ろ、入り口のドアの前に、もう一人いた。
高校生くらいかもしれない。ジーンズを履き、半袖の背中にはエプロンの紐が揺れている。そして、茶色の髪を包むがごとく、首にヘッドフォンが掛けられていた。
かちゃん、とドアが開けられる。
ハルは迷わず風太に突進し、思い切り突き飛ばした。蹴り上げられ、はね上がった水が花火のように咲く。水滴が飛び散り、真っ白な布へ次々と飛び込んでいく。誰かが何か言った、とハルは思った。どんどんと近づいてくるドアが、青年の姿を吸い込み、閉まる。視界に映るのはそれだけだ。誰が何を言ったのかわからない。
ハルは西洋風の扉を、体当たりするように開けた。遮断されていた空気が耳に飛び込んだ。雨音が耳朶を打つ。水に濡れた道路へ飛び出す。
手を伸ばした風太の目の前で、ドアが音を立てて閉まった。
雨の道路は川のようだった。アスファルトやコンクリートに水滴が弾け、流れの一部となって去っていく。どれほど走ったのかわからなくなったところで、ハルは蹴り上げていた足を止めて周りを見た。
黒々と濡れた道路の真ん中に立っていた。あたりは静かで、生き物の息一つ聞こえない。両側を、白くて少し錆びたガードレールが挟んでいる。仕切られた向こう側は緑色に鬱蒼とした林だった。
ハルは濡れた髪にフードをかぶせた。真っ白な布地もまた水を含んでいた。フードの縁に手を添えて前を見たが、やはり誰もいない。大きな水たまりが一つ、寂しげに口を開けているだけだ。
ハルは水たまりの近くに寄り、しゃがんだ。降りしきる雨水が、道路と小さな背中を濡らしている。にもかかわらず、その水面は鏡のように静かだった。雲で真っ白な空と、同じ目の色をした子供を、くっきりと映し出している。首を傾げたハルの髪から、小さな雫がいくつか滴った。雫はまっすぐ水たまりへと落ちていき、波紋も残さずに吸い込まれ、同化した。
「……」
水面に指先を伸ばし、そっとなぞる。さわさわとさざ波が立ち、ハルの指へと絡みつく。
変化は唐突だった。
突然、体がバランスを崩して前のめりになった。目の前に自分の顔が迫る。ハルが目を閉じるよりも先に、子供は水中へ音を立てて落ちた。巻き込まれた空気が小さな泡となって、可愛らしい音を立てながら上へと昇っていく。
水の中でハルは目を見張り、海の中、と口を動かした。かぽかぽと泡が立ち上る。
確かにそこは海のようだった。見渡す限りが、灰色がかった薄青色の液体で満たされていた。冷たいような温かいような温度の中を、ハルはふわふわと浮いている。上は一面、ちょうど水中から上を見上げた時と同じように、ゆらゆらと歪みながら鏡のように反射していた。
ハルは浮いたまましばらく考え込み、バタ足の容量で足を動かした。流れに乗れていないものの、ハルの体はのろのろと前進した。
ハルは満足げに頷くと、まっすぐに下を向くように体制を変え、静かな水中に潜り始めた。
海の中、と言っても魚の姿は全くと言っていいほど見えなかった。そのかわり、よくわからない形をしたクラゲのようなような生き物がぽつぽつと、その体をそれぞれの色に光らせながら漂っていた。赤、青、黄色と瞬くそれはまるで道しるべだ。海の中にも道があるのだとハルは思った。それが見えなかったとしても。
ハルはクラゲを横目に、下へ向かってゆっくりと泳いでいく。水の抵抗がかすかにハルを押し返すが、少し心地よく感じる程度で妨げにはならない。クラゲのうちの一つを悠々と通り過ぎようとしたその時、横から声ともつかない音が聞こえた。少し長かったが、最後までよく聞き取れない。ハルは足を止めて、クラゲ、のような何かをじっと見つめた。
生き物ーー歪んだ球形で透明、縦に通っているいくつか通る血管のような筋を、青い光が断続的に走っているーーは、ふわふわと漂いながらバイブレーションのように体を揺らした。その振動が水中を伝わり、ハルは聞こえた言葉、らしきものを鸚鵡返しした。
「……こきゅうするせいぶつこれすなわちれっとうである?」
難しい、と呟くハルの口からぽこぽこと泡が漏れ、天上へ消えた。ハルはクラゲをそっと撫でて、さらに深みへと潜っていった。撫でられた球体は一瞬痙攣し、青かった筋を赤信号のような赤い光でいっぱいにした。
***
はあ、はあ、と息を切らしながら道を歩く。ビニール傘の柄を持つ手がぬるぬるとした汗でまみれている。濡れた地面は黒光りしていて今にも滑りそうだ。風太はふう、ともう一度大きく息を吐き、錆びたガードレールにもたれかかった。ここ数年体力も減ったこの大学生にとって、走ることは苦痛以外の何物でもなかったのだ。
ハル、と掠れた声で呟く、風太の目線は、木々の先端で覆われた空へと向けられていた。だがそれはすぐに下がり、足元にある大きな水たまりへと投げ出される。ぎりり、と噛み合わされる歯。
「どこ行ったんだよ」
風太の両の目が、八つ当たりのように水たまりを睨みつけた。水たまりは、何かを隠蔽したがっているかのように、いくつもの波紋を浮かび上がらせながらじっと沈黙していた。
***
それにしても風也さんはどこにいるんだろう、と下に向かってバタ足を続けながらハルは考えた。ハルの記憶は少し曖昧だった。図書館で話をし、本を探してもらったことは覚えている。少し怖い昔話を聞いたことも、自分が変な質問をしたことも覚えている。そしたら水が出てきて、外を見てみたら雨が降っていて、気づいたら居なくなっていた。だがドアの前で見つけ、追いかけてきたけれど見失った。そこまでは覚えているのだが。
なんかちがう。ハルの唇がはっきりと動いた。だが違和感の正体がわからない。わからないまま下へ下へと潜り続ける。潜れば潜るほど青色は深く沈んでいき、光るものたちはその明るさを増していく。いつの間にか数も多くなっていたらしい。遠くで近くで光が瞬く様は、宝石箱の中身を宇宙に向かって開け放ったかのようだった。あの子達が光るのは、暗闇の中で、自分がそこにあることを忘れないようにするためかもしれない、と理由もなくハルは考えた。すると目の前を、くの字に光った生き物が、アンテナのような長い髭を震わせながら通り過ぎた。
あ! とハルは声を上げた。その生物は紛れもなく小さなエビだったのだ。知らない場所で友達を見つけた時のように、たちまち嬉しい気分になったハルは、目を輝かせながら小さなエビを追い始めた。だがすぐに、後ろからやってきた光の群れに抜かされた。
クラゲのような生き物たちだ。丸いもの、三角のもの、ウニャウニャとしているもの、緑、桃、橙、赤、青、紫。様々な形に様々な色の光を閉じ込め、群れ全体をサメのようにうねらせながら、たった一匹でふらふらと彷徨っている小エビに勢いよく襲いかかった。
ハルが小さく声を上げた。言葉の途中で時間を止められたかのようだった。
次の瞬間、硬い甲羅が割れるような破壊音と共に、生き物たちがもみくちゃになって落ちていった。
ハルの心臓を、冷たい手が撫でた。体が沈みながらも動き続ける心臓が、どく、どく、と足音を立てる。同時に、忘れていた風也の言葉が一言一句違わず全て脳裏に姿を現した。
――たまにね、あちこちで結構な人がいなくなることがあるんだ。でも、ある日を境にぱたっと戻ってくる。なんでだろうと思ってたんだけどさ。
いなくなった風也。いなくなった、風太の友達。光の塊が目まぐるしく色を変える。
――兄ちゃんに、変な友達がいたんだ。不思議なものが見えていたみたいで、よくおれたちに話してくれた。優しい人だったよ。でもある日急にいなくなったんだ。そして、多くの人が戻ってきた。
不思議なものが見えた、風太の友達。彗星が見えたその人と、ハル。混ざっていく光の色。
小さな小さな、青いエビ。
――おれ、あの人は生け贄になったんじゃないかって思ってる。今でも。
生き物たちは混じり合い、やがて真っ白な光を放ち始めた。その姿はまるであの彗星だ。白い彗星。食べられた青いエビ。あの人の服の青。白い彗星に食べられた――
ハルは水を飲み込んだ。冷たい手が、あざ笑うかのように心臓を弄ぶ。
進む方向に、彗星のような光がある。本物ではないことはわかる。彗星は水中にはない。だが、それは確かに彗星を示唆している、ということをハルは言葉とは別の場所で知った。ハルの体は吸い寄せられるように沈んでいく。目の前に光の塊が迫る。
あれに触ったら、どうなる?
ひゅ、と再び水を飲み込んだその時、ハルは誰かに操られるようにして、彗星に手を伸ばし、触れた。
真っ白な光が溢れ――




