7 his Brother.
図書館の中を覗き込んだ瞬間、ハルは体中を輝かせて駆け出した。
「おいおい転ぶなよー」
後ろから控えめな声をかけるが、それすらも届いていないらしい。白いパーカーがあっと言う間に姿をくらます。風太は父親と顔を見合わせて一つうなずき、図書館の中へ入っていった。本の匂いが彼を迎え入れる。過去の風景を呼び起こす匂いだ。
幼い頃、まだ兄弟姉妹が三人そろっていたとき、この図書館にはよく来ていた。夏休みの宿題のとき。本が読みたくなったとき。本棚は手を伸ばしても届かないほど高く、学校の図書室とは比べ物にならないくらいに本がそろっており、幼心にも世界で一番広い場所に見えていた。
それがどうだ。今は棚の一番上に軽々と手をおくことができる。
偶然手に着いた本を取る。表紙が埃っぽくて、題名がすぐにはわからなかった。仕方なく戻しながら、あの子だったら埃を払って中を覗くだろうと考える。そいつの後を見守らなければならない。
手を見ると、糸のような埃が張り付いていた。払い落として歩を進める。調べ学習のためならば、地理などのコーナーにいるはずだと見当をつける。
しかし、そこについても子供の姿は見えなかった。あるのは壁際に整列する本棚だけだ。それならばと歴史のコーナーへと足を運ぶ。が、そこにもいない。サボっているかもしれないと子供向けの本が置かれているところにも立ち寄った。ハルと同い年くらいの子供数人が、怯えた目で風太を見た。
市松模様のカーペットの上で、風太は小さく舌打ちをした。そこでようやく、カウンターに行ったかもしれないと思い至り、大股で本棚の間を引き返した。厳しい後ろ姿から子供達が目をそらした。
果たして、役員カウンターの前では白いパーカーの裾が揺れていた。ハルはダボダボの袖をいっぱいに伸ばして机に腹を載せ、何故かその下を覗き込もうとしている。
風太は駆け寄ってその背中を引っ張った。
わっ! と声を上げて、ハルはするりとカウンターから落ちた。しばらく背中をさすっていたが、やがて立ち上がって伸びをする。そして風太を見て、ぱっと背中をカウンターに押し付けた。
「何?」
仏頂面で声をかける。するとハルは怯えたような、怖がっているような表情を浮かべて「なんでもない」と口を動かした。続けて、
「なんでもないからふーたさんはかえって」
「……」
目を細めてハルを見る。ハルも風太をにらんでいる。
風太ははあっと息を吐き、カウンターの裏を覗き込もうと近づいた。その瞬間。
「あああああああああああああ!」
突然、飛び上がるような悲鳴が図書館中に響き渡った。誰かと目を見開いたがその主は目の前にいる子供だ。ハルは目口を大きく開き、雄鶏のように腕をばたばたとさせている。なぜか風太にはそれが威嚇にしか見えない。
「おい、どうしたんだよ! 落ち着けって……」
さすがに心配になって側に駆け寄る。だがその手は白い袖にはじかれる。
「きちゃだめ!」
「はあ!?」
ざわざわと図書館の中がざわめきで包まれ始める。ハルはびくっと体を震わせて、もはや笑いに近い表情を浮かべながら、果敢に声を絞り出そうとしている。
「え、あ、ああああ……あ、そうだ! さかな! きれいなおさかなさんがおよいでる! ふーたさんのうしろ!」
「……」
嘘だとすぐにわかった。
「嘘だろ」
「う、うそじゃないよ! ……たぶん、そ、そうだよ! ほんとだよ!」
嘘だろうと思う。そもそもハルはこの手の話をするときにこんな風に笑わない。それでもハルは懸命に言い続ける。
「だから、だめ! ふーたさんがここにきちゃだめ! う、うしろで、おさかなさんがいっしょにあそぼうって……あそぼう、って……」
だがだいぶ限界が近づいてきていたらしい。ハルはくしゃりと顔を歪ませ、その瞳がどんどんと潤んでいった。
「……わかった。離れればいいんだな、そうだろ?」
さすがの風太もこれには参る他に無く、ハルと同目線にしゃがみ込んで頭を撫でることしかできなくなってしまった。同時に、こんなにも嘘をついて何がしたいんだろうと言う考えも禁じ得ない。
唇を噛み締めて泣くのをこらえる子供を見て、風太の心は次第に暗くなっていった。
***
じゃあ、12時くらいに入り口で。
と約束を交わし、風太は本棚の隙間へと戻っていった。ハルはほっと息をついて彼を見送った。色とりどりの本が詰まった棚の群れに、魚は一匹も泳いでいなかった。
黒い服の一片までが見えなくなったことを確認し、ハルは白い袖でゴシゴシと目をこすった。そしてカウンターを振り返り、小さな声で話しかける。
「……よかったの?」
するとがさがさと音がなり、カウンターの下から茶髪の青年が顔を出した。
「……兄ちゃんもう行った?」
「……いっちゃった」
よしっ! と声を上げて青年、風也は拳を握る。そして、先ほど広げていた帳面とは別のファイルを手に持って立ち上がり、カウンターをよじ登ってこちら側にすとんと降り立った。目を丸くするハルを見下ろし、腰に手を当てる。
「で、この市の地理と、歴史の本だっけ?」
ハルも、カウンターに置いてあった赤金色の本をとって胸に抱き、頷いた。風也は朗らかに笑う。
「オッケー、それじゃあ行こっか。子供向けの古いやつが二階にあるから、入り口から裏手に回ろう。あと、絶対におれの側から離れないでね」
絶対に離れないで。
言葉ひとつひとつにはっきりとした発音を与え、風也は念を押した。ハルがどうしてか尋ねる前に、彼は歩き出しがてらこう付け加える。
「最近、居なくなる人が多いから」
踏み出した足が一瞬凍りついた。ハルは生唾を飲み込み、慌てて風也の背中を追う。
横から見上げた風也の顔に、先ほどのような笑みはなかった。
図書館のドアから出て裏手に回り、金属製の階段を上ると小さなドアがあった。風也がポケットから鍵を取り出し、何か複雑な開け方をした。
「どうぞ」
招かれるままハルは中に入った。
二階も一階と同じく、深緑色のカーペットを優しい日光が照らしている。だが本棚は天井に届くほど高く、所々にはしごが立てかけてあった。風也は入り口のすぐにあったはしごに軽々と昇って、うなり声をあげながら本を探し始めた。ハルは忙しく動く青年を、じっと見つめていた。
「あ、あった! これこれ。これならだいぶ読みやすいと思うよ」
やがて青年が一冊の本をかかえておりて来た。さほど分厚くなく、女の子が道を歩いているかわいらしいイラストと、ポップなフォントが年齢層を明確に示していた。「たのしいまちがくしゅう」と題された本は、少なくともハルには楽しげに見えた。ハルは赤金色の本の上にそれを重ねて、きらきらとした瞳で風也を見上げた。
「ありがとう!」
彼は親指をぐっと突き出し、「じゃあ次は歴史ね」と部屋の一番奥へと歩き出した。ハルもそれについていった。
だが本棚にたどり着いたそのとき、ふと風也があごに指を当てて口に出した。
「そういえばさ、ハル、民族伝承に興味はある?」
「みんぞくでんしょー?」
難しい言葉に目を白黒とさせる子供を見て、青年はすぐ「言い伝えのことだよ」と言い直した。
「この町ではね、子供達のみんながみんな昔話を聞きながら育っていくんだよ。おれもいくつか覚えているのがあるから聞かせてあげようか?」
ハルはびっくりとして両手を開いた。ばたばたと本が床に落ちる。だがそれも気にせず、胸の前で手をぎゅっと握りしめ、ぶんぶんと上下に振った。
「ききたい!」
そうこなくっちゃね! と風也は近くにあるはしごの段に腰を据えた。ハルはカーペットに正座し、膝の上に本を置いて風也を見上げた。彼は一つ咳払いをして、ぱっと両の手を広げる。
「では第一回、秘密のお話会を始めましょう。話し手は私、橘風也。聞き手はいとこのハル!」
ぱちぱちと小さな拍手が書庫に転がり、続いて伸びやかな声が語り始めた。
そして数分後、風也は目元を真っ赤にさせ、腕で顔を覆って男泣きしていた。
「なぁあ? 泣けるだろー! 不思議なものが見えるって差別されてた村娘が、村の為に生贄になったんだぞおお! 意地悪をしていた村の為にぃぃ! これ以上に清い話があるかね!」
ハルはこくっと首を縦に動かしたが、決して頷いたわけではなかった。手をふるふると震わせて口元に当て、問いかける。
「ふーやさん」
「うっぅう……あ、ごめんね、取り乱しちゃった……。もう平気。何?」
ハルははくはくと口を動かし、再び息を吸い込んだ。
「いまでも、かみさまにいけにえをささげているの?」
風也は一瞬きょとんとして、次にけらけらと笑いだした。
「まさか! するわけないじゃんか、警察に捕ま……」
しかし言葉の途中で声が止まる。同時に、ちゃぷっと何かが跳ねる音がした。ハルは思わず床を見下ろした。足元が、水で満たされている。緑色のカーペットを、少し水色がかった液体がひたひたと覆っている。布や肌越しに、ジワリと冷たさが染み込んでくる。
「……不思議なものが見える人、今でも居るみたい」
平坦な声にハッして前を向く。青年は光が射す窓へと目を向けたまま話している。
「たまにね、あちこちで結構な人がいなくなることがあるんだ。でも、ある日を境にぱたっと戻ってくる。なんでだろうと思ってたんだけどさ」
小さく音を立てながら、水の量が少しずつ増して行くのがわかる。風也の靴がぽちゃりと水の中に沈む。腹の辺りを水がつつっと撫で、ハルは少し身震いする。
「兄ちゃんに、変な友達がいたんだ」
二の腕あたりまで水が登る。
「不思議なものが見えていたみたいで、よくおれたちに話してくれた。優しい人だったよ。でもある日急にいなくなったんだ。そして、多くの人が戻ってきた」
沈んだ本棚から中身が溢れ、ぷかぷかと水中を漂い始める。ハルが自分の本を抱きしめると、かぽんと音を立てて頭が水に浸かる。
「おれ、あの人は生け贄になったんじゃないかって思ってる。今でも」
魚が目の前をを通り過ぎ、風也の声をゆらゆらと揺らした。
ハルはざばりと立ち上がり、ふと思い立ち窓に目を向ける。と同時に水が流れを作り出し、ハルを窓まで導いた。
「ん? どうしたの?」
風也が声をかけてくる。それを無視して窓を開ける。ざあざあという音と、水の粒が室内に飛び込んでくる。かなり多い。
「……あめ」
唐突に降り出した夕立を前に、ハルはぽつりとつぶやき、振り返った。
***
雨が降るとは聞いていない。
入り口から空を見上げて風太は小さく唸った。すると、白い人影がふらふらと入ってくる。ハルだ。
「どうした? まだ十一時前なのに」
風太が言うと、ハルはふるふると頭を振って風太の服の裾を掴んだ。怯えた目だ。
「ふーたさん、ふーたさんっ……!
次の言葉に、風也は二重の意味で目を見開いた。
「ふーやさんが、居なくなっちゃったの」
***
道路を、ヘッドフォンを首にかけた青年が歩いている。降りしきる雨の中、垂れ流される水が青年の服を濡らす。
やがて目の前に大きな水たまりが現れる。青年はそれに気づかず、水たまりを踏む。
ちゃぽんと音を立てて、青年の姿が水に沈む。
水面に一つの波紋が広がり、静かに消えた。




