6 Let's Research!
こち、こち、と長針が、十二時を目指して少しずつ動く。四人の大人が頭を揃え、大きな古時計をじっと見守る。
やがて針はⅫの字と重なり、短針が重い音で七時を指した。ごーんごーんと鐘の音がなりだし、風太の父親の目の前の扉から、真っ白な鳩が飛び出す。
気絶しそうなほど目をひんむく夫の横で、その妻がぽつりとつぶやく。
「……動いてる」
***
ハルと風太が寝ていた部屋は、突然なおった時計のことで大騒ぎになっていた。それをよそに、ハルはのんびりと朝の歯磨きに精を出していた。子供であるハルがあの騒ぎに参加させてもらえなかったというのも理由の一つだ。だがハルはもともと、あの時計に興味を示すのはもう止めようと決意していたのである。あの中で起きた出来事を、誰かに話すのは少し気が引けた。
しゃこしゃことブラシを動かす。口の中に細かな泡が立つ。歯の全体を磨いたところで、白い液体を流しに吐き出す。
口の中を水ですすぎ、ふと鏡の中を見た。子供の口端から小さな雫が伝って落ちていく。ハルは流しっぱなしだった水を手のひらに受け、ぱしゃぱしゃと顔を洗った。
タオルで顔を拭く合間、頭をよぎったのはやはり彗星のことである。今日の夜からずっと同じ事を考え続けているのである。
「……あと五日」
顔をタオルで覆う。目の前が真っ白になる。ぐにゃぐにゃと顔を抑える。どうやって行こうか。山のことについてもよく知らなくては。
しらべがくしゅー、しらべがくしゅーとハルはくぐもった声で遊んだ。だがふと唇が止まった。
思い出されたのは風太の過去の物語だった。
そうして再び顔を上げたそのとき、鏡の中に自分以外の青年が映り込んでいるのを見た。黒いTシャツとゆったりしたズボン。髪は茶色い。ハルの肩がぴたりと固まる。
「……おはよう」
ふーたさん、とハルは舌足らずな声で言った。風太は挨拶に答えず、鏡越しにハルをじっとにらんだ。そして、
「お前、何を見た?」
まるでそれを確信しているかのように、ハルに向かって問いかけるのである。
***
ハルが嘘をつけないということは昔から知っていた。例えば駅で聞かされたようなあり得ないことであろうと、ハルは洗いざらい本当のことを話すのだ。だから風太はハルが「見るもの」を病気だと判断し、話を聞いてできる限り何かしようと思っていた。
だが今回、ハルは珍しく嘘をついていた。
「……で、電話の言う通りにしてどうにかなったと」
ハルは断定せず、そっと口を閉ざして目をそらした。見るからに怪しい。
「……他に何も言われなかったのか?」
今度は顔まで逸らされる。風太はハルの手からタオルを取り、ハルの顔に当てながら更に問い詰めた。
「本当に、それだけなんだな?」
「……うん」
だがハルにも話す気はないらしい。風太は諦めてタオルを洗濯機に放り込んだ。今された不思議な冒険の話でさえ飲み込めていないのだ。これ以上のことを聞くのは自分にとっても酷だろう、と風太は考えたのだ。
「わかった、もう聞かない」
きっぱり頷きその場を離れようとする。すると「まって」とハルが風太の背中の布を掴んで尋ねた。
「……しんじてくれるの?」
遠慮がちな期待に満ちた声。何を、振り返ろうとして、風太ははたと気がついた。ハルが時計の中に入った話を、彼は疑うことも責めることもなく聞き続けていたのである。それどころか、時計が動き出した原因をハルに見出そうとしていたではないか。
なんという都合の良さだ。風太は少しの自己嫌悪を覚えた。
その後の朝食の間、風太の父親はとにかく騒いでいた。彼の頭は突然動き出した時計の謎で満たされていたのだ。彼はしゃもじを右手、空の茶碗を左手に演説を始めた。
「俺たちは図書館に行かねばならない!」
風太は味噌汁を飲み干してだし巻き玉子に取り掛かった。ハルは納豆に箸を刺したまま、上の空でどこか別の方向を見ている。父親は続ける。
「図書館に行って、あの時計が直った原因を調べねばならんのだ! ついでにハルと風太は宿題を――」
「あんたはいい加減にしなさい」と母親がしゃもじと茶碗を取り上げた。すると祖母が「そうよぉ」とのんびりした声で笑う。
「爺さんの時計が直ったのが、一番いい事」
手渡された山盛りの米を両手で持ち、父親は一応口を閉ざした。が、その唇は何かを言いたげにブルブルと痙攣している。
図書館行き、と風太は頭のスケジュール帳に書き込んだ。車で四十五分。運転をするのはおそらく自分。そのかわり、思う存分レポートに専念させてもらうとしよう。そんな事を考えながら納豆ご飯を腹の中へ納め続ける。
ハルがだらだらと納豆をかき混ぜ始める。間延びした音が食卓に流れていく。
風太は納豆の最後の一粒を嚙み潰し、ご馳走さま、と箸を置いた。そして家族三人分のコーヒーと、二人分のお茶を準備し始めた。
それぞれがご飯を食べ終えたところで、父親がリモコンを手に取った。テレビで流れる地域ニュースは、昨日の地震について報道していた。風太も思い出した。確か午前9時あたりに、北の山からくる電車が全て運転を見合わせのだ。火山性の地震かもしれないというキャスターへ、父親が静かな悪態をついた。
風太がふと顔を上げると、ハルは目をまんまるにしながらテレビを凝視していた。なぜかそれが印象に残った。
***
思い出した、とハルもまた心中で呟いた。そうだ、電車が止まっていたのだ。本来なら迂回しなければここに帰ってこられなかった、筈なのである。
まくっていた袖を戻し、布ごしに湯呑みを持つ。ふうふうと息を吹いて、お茶をすする。その間にも心臓がどきどきなっている。
ふーたさんにきづかれたら。
頭の中を嫌な想像がよぎる。そのとき祖母が何気無い調子でこう言った。
「そういえば、風花と風也はいつ帰ってくるのかねぇ。出て行ったっきりとんと音沙汰がない」
途端、ばちっと音を立ててテレビ画面が消えた。
叔母が目を閉じてリモコンを置く。それきり誰も何も話さなくなる。
「……」
ハルはお茶を残して部屋を出た。
***
「ふーたさんふーたさん」
荷物をまとめていると、横から小さな声が聞こえた。
「ハル? どうした」
手元を止めて応じる。ハルは遠慮するように俯いたが、その姿勢からなにを聞きたいのかすぐにわかった。
「風花と風也のことか?」
口元に白い袖を当ててこくりと頷く。
風太はため息をつくことすらできずに、結局端的に答えることにした。
「風花は留学した」
「りゅーがく?」
「そう。高校の三年で奨学金をとって、ヨーロッパにピューンと」
しょーがくきん、とぼやきながら目を白黒とさせる幼子。「頭がいい人がもらえるお金」と風太は付け足し、続ける。
「それで風也はなあ……」
「ふーやさんは?」
風太はぼりぼりと頭を描きながら面倒臭げに答えた。
「家出した。中卒で」
「……いえで? どこ行っちゃったの?」
ハルは心配そうに尋ね、無邪気な声でこう言った。
「それをとしょかんでしらべるの?」
風太はぴくっと目を見開く。そして、それがわかればね、と弟のことで久しぶりに笑うことができた。
本当にそうだ、と風太は思った。
いなくなった人について、本でわかればどんなに良いだろう?
***
図書館もまた田舎にあった。山道の途中にポツンと建っている西洋館がそれだ。ハルはシートベルトを外して車を降りた。
「街中にも図書館はあるがな」
結局ついてきた叔父は言った。
「この市の文化だの地理だのを調べるには断然こっちだ。街の連中は古い本なんぞすぅぐ捨てちまうもんだから」
豪快に笑う父親の横、風太は無言で運転席を降りた。
ハルは先頭に立って西洋館の重たいドアを開け、そっと中を覗き込んだ。見渡す限りに広がる本棚の森と、古い紙の落ち着く匂いがあった。窓から差し込む光が、深緑色のカーペットを柔らかく照らす。
後ろを守る二人の大人をそっちのけで、ハルは中へと転がり込んだ。ハルの瞳は星を封じ込めたように輝いていた。学校の図書室よりうんと広い。並べられる本も、一冊一冊がまるで生きているみたいだ。それが両側の本棚へ沢山詰められて、読んで読んでと言わんばかりに静かな引力を放っている。
ハルは試しに一冊手に取ってみた。赤金色の装丁で、金の文字でタイトルが書かれている。中を開けて見ると、緋色の文字で物語が綴られている。
ハルはすぐさま本を胸に抱いた。だが同時にはたと本来の目的を思い出した。
「……」
名残惜しいが仕方がない、調べ学習のための本を探そうと頭の中の天使が言った。だが悪魔が子供じみた声で言い返す。おもしろそうなほんなのに、よまないでどうするの?
ぐるぐる悩みながら歩き続ける。そうするうち、いつのまにかカウンターの前についていた。ちょっと背伸びをして本をカウンターに置く。少し迷って呼びかける。
「すみません」
はいはーい、と朗らかな声。男の人だ。ハルは意外に思った。やがて奥の方から若い人が出てきて、ハルが置いた本を手に取った。
「お、『はてしない物語』か。すごいね! この歳でこれを読むんだ。今から貸出手続きしますねー。あ、そうだ他に読みたいものある? この時期だと自由研究とか忙しいよね。いろいろ探してみようか?」
カウンターに出てきた青年は首にヘッドフォンをかけている。髪は茶色いが怖い印象はない。朗らかな声に似合う楽しげな笑顔で、大きな帳面に向かっている。表情は全く似ていないが、どことなく風太を思い起こさせる。
ハルは息を飲んだ。と同時に青年はぱっと顔を上げてハルの顔をまじまじと見た。大きく見開かれた瞳は、風太と明らかに同じ色だ。
廊下で手を引っ張って走った男の子が、大きくなったらこうなるのではないかという予想に、ぴたりと一致している。
ハルは驚愕のこもった目を一度瞬かせた。
青年はしばらくハルを見たまま固まっていた。だがやがて帳面のページに両手を置き、確認するようにゆっくりと声を漏らした。
「ハル……だよね?」
ハルはぱくぱくと口を動かしながら頷き、やっとの事で言葉を形にした。
「ふーや、さん?」
耳が痛いほどの静寂の中、青年はこっくりと頷いた。




