5 Time is Coming.
ハルは息をのんだ。と同時に、ノイズでとぎれとぎれの声が受話器から流れ出した。
『……ら、ス……ハル……聞こ……ま……か……』
ハルはぱっと受話器を取り、しかし何を言えば良いのかわからずに固まった。相手はそれを察したらしく、優しげな声で話しかけてくる。
『……りで、いいから……教え……きみは……ハ……だね……?』
「ハル! ハルです!」
異形達の声に負けじと、大声で叫ぶ。すると相手は安堵したように息を吐いた。
『そう……わかっ……あれ、電……、悪……待っ……』
ガーガーと何かを調整するようなノイズが受話器から流れる。そして、
『……れで、良いはず。ハル……聞こえるかい?』
急に鮮明になった声がハルの名を呼んだ。声色からして十五歳ほどだろうか。落ち着いていて大人びているが、性別はよくわからない。ハルが「聞こえるよ!」と返事をすると、電話の向こう側で小さな間があった。
『わかった……。ハル、この質問に正直に答えて』
ハルがうなずく前に、相手が尋ねる。
『電車の子から聞いた。君は、彗星を見たんだね?』
突然、ハルの体を軋むような感覚が襲った。背筋が凍りつき、電話の向こうに広がる暗闇を見た気がした。得体の知れないものと話しているのだと、今更のように感じたのだ。しかし、
「……見た」
絞り出すような声で、しっかりと答えた。
思い出されるのはあの白い物体だ。電車から落ちて来るとき。夕焼け空の境目。花火のときにも、空に流れていた。もしかしたら、トンネルの中で見たのもそれだったのかもしれない。
思わずせき込んで問いつめる。
「あなたは誰? あれがなんなのか知っているの?」
声は細い息を吐いて、言葉を練っていたようだ。だが、
『……あの彗星は、君以外には見えていないよ。それ以上は、今は教えられない。ごめんね、君はこれからとても難しいことをしなくちゃいけない』
優しい声が『よく聞いて』とハルをいさめる。その厳かな雰囲気から、これから話されることの重大さがにじみ出ていた。ハルがゆっくりと頷くと、電話の向こうの相手は大きく息を吸って、告げた。
『五日後、あれが北の山に落ちる』
ハルはこくんと頷く。真剣味がハルの背筋をピンと伸ばす。
『いいかい、五日後だ。五日後にあれが北の山のてっぺんに接近する』
声は神様のお告げのように、ハルのするべき事を述べていく。
『そのときに……壊すんだ』
がんがんがん、と音が響き続ける。だがハルの耳にそれは届いていなかった。相手は冷静な声で続ける。
『……どういうことか、不思議かもしれない。だけど時間がないし、できるのは君以外にいないんだ。……本音を言うなら、君にはこんなことをさせたくない。でも、あれが落ちたら、町が大変なことになってしまう』
まちが、たいへんなことになる。
もしハルが普通の子供だったら、これらの意味も訳も分からなかったに違いない。伝わるのは、ことがどれほど重大かと言うことだけだっただろう。
だがハルがゆっくりと言葉を飲み込み、選び出したのは次の言葉だった。
「……どうやって」
電話の向こうで相手が息を飲んだのがわかった。そして『……君は本当にいい子』と優しく笑う。
『ちょっと触るだけでいいよ。それだけであれは割れてしまう。大丈夫、君ならできるから』
きみならできる。その言葉を頭の中で反芻し、ハルは、この仕事が自分にしかできないような気がしてきた。
「……わかった」
ハルは言葉とともにうなずいた。
だがゆっくりと顔を上げて、異形達を見た。扉をたたきながら、異形達もハルを見下ろす。
ハルの顔が恐怖に染まり、首を横に振りながら、「やっぱりむり……」と口を動かした。声が困った風に尋ねる。
『無理そう?』
「……いま、化け物達に囲まれてる」
無意識のうちに自分の声が震えている。それを察したのか、電話口の相手はあえて冷静さを装い、一言一言噛み締めながらハルに言い聞かせた。
『大丈夫だよ。僕の、言う通りにして』
「どうやって!?」
『落ち着いて。声は、小さく』
扉をたたく音がさらに大きくなる。ガラスにぴしりとひびが入る。
「ひっ!」
『大丈夫……。ハル、机の下をよく探して』
怯えて体を縮こませるハルへ、相手は優しい声で指示を出した。
ハルはあわてて机の下に目を向けた。服の中で鍵がかしゃんと音をたてる。それを取り出して片手に握り、反対側の手で机の下を探ると、ふわりと柔らかなものが手に触れた。
ハルはそれを拾い上げた。
それは一枚の尾羽だった。白く輝く羽毛が、風を受けふるふると震えている。
「……あった! 白い羽!」
思わず声を上げるとよっし! と電話越しから嬉しそうな声がした。そして、
『その調子だよ。それを食べて!』
「えっ!?」
『いいから早く!』
声に促されるまま、ハルは躊躇なく羽を飲み込んだ。羽はほのかに甘い味がして、口の中でほどけるように消えた。
同時にがしゃんと音をたてて、電話ボックスのガラスがすべて壊れた。破片が飛び散り、異形の手がハルに迫る。その瞬間。
『ハル、飛んで逃げろ!』
切迫した声が合図でもあったかのように、子供の背中から一対の翼が生えた。
戸惑うよりも前に翼がはためき、ハルの体がふわりと宙に浮く。
そのまま囚人の群れの中を、猛スピードで滑空する。不気味に冷たい手がハルの体をかすめたが、引き止めることはできなかった。
あっという間にエレベーターの中まで到着し、ハルは一度着地した。
化け物の群れを見やる。化け物たちは雄叫びをあげ、もつれるようにしながら狭い廊下を走っている。
ハルはゆっくりと息を吸い込み、地面を蹴って再び飛び立った。羽がはためき、小さな体がエレベーターの天井を突き破る。破片を追い越すと歯車だらけの天井がぐうんと近づき、通り過ぎていった。一度翼を動かす度に、見覚えのある風景がどんどんと下へ流れていき、小さな体は上へ上へと導かれていく。
気づけば最上階の、屋根裏部屋のような部屋にたどり着いていた。
ハルは木の床に音をたてて着地し、大きな声で鳩に呼びかけた。
「来たよ!」
鳩はぱっと顔を上げ、ぴょんぴょんと扉に近づいた。南京錠をずいずいとくちばしでつつく。
ハルはⅦと書かれた鍵を差し込み、回した。かちゃり、と音をたてて南京錠が下に落ちる。
なぜか、嫌な焦りが心を包んだ。
下の方から、不気味な雄叫びが聞こえる。
考えすぎだと頭を横に振り、ハルは続けて一番の鍵を探し出した。鳩に向かって手招きする。
鳩は素直に尾羽をあげ、足に括り付けられた南京錠を見せた。それに鍵を差し込む。
かちゃかちゃ、と動かす。だが、どこかが噛み合っていないのかなかなか外れない。
近づいてくる大きな声。ぺたりぺたりと何かが壁を這い上がってくる音がする。
かちゃかちゃ、と鍵を動かす。鳩の瞳に、青ざめた子供の顔が映る。
はやく、と祈るようにハルが口を動かした。その瞬間、かちゃ! と音をたてて鎖が外れた。
ハルはぱっと顔を輝かせた。だがそれと同時に、でろでろとした不気味な音がエレベーターの方から聞こえた。
鍵束が手から落ちた。
エレベーターの前に、囚人達がいた。汚れた水をちたちたと体からたらし、体に響くような大声を上げながら、這うようにして迫ってくる。
ハルは思わず目をつぶった。
刹那、地響きのような鐘の音が鳴った。
囚人たちが動きを止めた。再び鳴る鐘の音。鐘と鐘の合間の静けさで、ハルは何かが変化していることに気がついた。
鳥かごを見る。そこに鳩はいない。
鳩は窓辺にいた。窓の外を、まっすぐな眼差しで見つめている。
三度目の鐘の音が鳴り響き、音もなく窓が開いた。
鳩はおもむろに翼を開き、パタパタと外へ飛び立った。翼を月光が照らし出し、その姿を神々しく見せる。ハルは状況も忘れ、見とれた。
四度目の鐘の音。
突如、大声が轟いた。断末魔のようにも思える、つんざくように低い声が耳の中で回り始める。
見ればエレベーターの前で、異形たちがのたうちまわっていた。助けを求めるように、天井へ手を伸ばすものもいた。
だがそれも虚しく終わった。
五度目の鐘と同時に、囚人たちはドロドロと溶け始めた。茶色の液体がどちゃっと床に散らばる。ハルは思わず後ずさった。助けることはしなかった。
そして六度目の鐘が鳴り、全ての囚人たちは溶け去った。後には茶色の液体だけが残った。
ハルはへなへなと床に座り込んだ。同時に、淡い光を上げて翼が消えた。
その後何回鐘が鳴ったのか、ハルは覚えていない。
かちかちかちと歯車の音が聞こえて、ハルは我に帰った。
うつむかせていた顔を上げる。同時にチーンと綺麗な音が響いた。エレベーターの音だ。
音の方向に顔を向けると、かなりぼろぼろなエレベーターが見えた。ドアと天井は、突き破られたせいで見る影もない。が、床だけは無事なようだった。
いつの間にか汚れの消えた床を歩き、ハルはエレベーターに乗った。チーンと音がなり、エレベーターはゆるゆると下降する。
一番最初に来た場所で、エレベーターはその動きを止めた。
ハルはエレベーターから降りて、それを見上げた。
「……ありがとう」
小さく微笑むとエレベーターはひゅん、と音を立て上へ上へと昇って行った。
ハルは大きな柱に背を向け、元の道を戻り始めた。
ランプはいつの間にか黄色に戻っていた。歯車も動いている。だが壊れたような音ではなく、一定の秩序とリズムを持った、程よい大きさでかちかち、かちかちと回っている。
両開きのドアを開き、薄明かりのついた廊下を進む。足元で、可愛らしい音を立てながら歯車が回っている。
やがて目の前に大きなドアが見えて来た。時計の裏側に取っ手をつけただけの、装飾もない木の板だ。だが、何処と無く懐かしい色をしていた。
ハルは取っ手に手をかけ、開いた。生ぬるい空気が流れ込んで来る。
息を殺して覗き込むと、時計の目の前に空っぽの布団があった。その左隣の布団では、風太が寝相悪く息を立てていた。
ハルは足音も密やかに、布団の上に降り立った。
音も立てずに時計が動き、元の位置で止まった。
静かになった。
ふーっと大きく息を吐き出すと、途端に眠気がやって来る。ハルはふわふわと欠伸をして、布団の中に潜り込んだ。
眠りに落ちる少し前、脳裏をよぎったのは電話越しに語られた事だった。
「……彗星」
ハルは呟いた。途端に口が動かなくなる。
今、ハルが思い出しているのは花火をしていた時の風景だ。
ふと何かに呼ばれた気がして顔を上げると、夜空のてっぺんに真っ白なほうき星があったのだ。手元の花火も忘れ、ぼうっとして口を開ける。
ほうき星はしゅんしゅんと光を上げて、夜空を悠々と飛んでいた。まるで何かの前兆のように、どこかへ向かって飛んで行っていた。
***
ごーん、ごーんと鐘の音がする。
差して来る光に目を細めながら、風太はうなり声と共に体を起こした。誰がこんなにうるさいアラームを鳴らしているのだろうか。
とそこまで考えたとき、彼はハッとして古時計に目を向けた。
かぽん、と音を立てて文字盤の下の扉が開いた。そして、ばたばたした機械の音と共に、羽を広げた白い鳩――正確にはその彫刻が出てきた。
「……」
風太が見ている前で、鳩はゆっくりと扉の中へ戻って行った。がちゃんと閉まり、後には歯車の音だけが残される。
風太は目を大きく見開き、そしてなぜかハルの方を見た。
時計のすぐそばで寝息を立てる、不思議な子供に目を向けた。




