4 In the Clock.
かちかちと。がちゃがちゃと。時には鐘のような低く響く音。あるいはキリキリとネジが回る音。世界中の時計を全て分解し、全ての歯車が噛み合うように組み立て直したらこんな音がするのではないか、と思えるくらいの音、音、音。
廊下を進むにつれ歯車の音は大きくなり、がんがんとハルの鼓膜を叩いていった。割れそうな頭を必死で押さえつけながら、ハルはガラスの床を歩いている。どれほど歩いたのか、ハルには見当もつかない。
廊下の果てはまだ見えそうになく、前の様子を薄明かりだけで窺い知ることはできなかった。
床は歯車の音によってかすかに振動すらしていた。それが伝わって、ランプの炎もゆらんゆらんと揺らぐ。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れて、よろよろと歩き続ける小さな子供の影を映し出している。
はあ、とハルは息を吐いた。続いて小さな呻き声を上げた。膝ががくんと曲がり、その場に手をつき四つん這いの姿勢になる。
ガラスの床を透かして、光に照らされた歯車がちらちらと脳裏に揺れている。自分たちはこんなにも働いていると誇示するかのごとく急速に回転し、あからさまな音をたてながら反射光をハルの目に焼き付ける。
目が痛い。めまいがする。きもちわるい。
「……ううう」
ハルの腕からふっと力が抜け、小さな体が床に倒れ込んだ。
次の瞬間、ランプの炎が一斉に消えた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ハルが目を覚ましたとき、廊下は嘘のように静かだった。あれほどうるさかった歯車の音が、全くしない。
ハルは体を起こして辺りを見回した。いつの間にか、ランプの炎も青色に変わっている。
ガラス越しに下を見てみると、青く染まった歯車達が見えた。大きな物も小さな物も、すべて動きを止めている。
みんな寝ちゃったんだ。
密やかな声でつぶやきながらハルは壁に手をつき、立ち上がった。
近くのランプの青い炎が、ハルのため息でゆらりと揺れた。
やがて静かな空間に、小さな足音だけが聞こえ始めた。裸の足にガラスはひやりと冷たかったが、ハルが通った後には足跡の一つも残っていなかった。
背筋を伸ばしてゆっくりと歩く子供の姿が、両方の壁に照らされている。
青い光の方が視界が良くなるのだろうか。歩いていく先に何があるのか、今度は知ることができる。どうやら大きな扉があるらしい。両開きで、銀色のノブが付いている。
ハルは歩き続け、そこにたどり着いた。ドアには花と蔓をモチーフにした彫刻があしらってあり、いかにも古めかしい雰囲気があった。
両方のノブをわしづかみにして、ゆっくりと押し開ける。
ドアの向こう側で茶色の壁は左右に広がり、青いランプとともに大きな広間をぐるりと囲んでいた。広間の床も廊下と同じくガラス製で、いくつもの歯車が見えていたが、今はすべて動いていなかった。
ランプとランプの間には格子のはめられた丸窓があり、そこからも歯車を見ることができる。もちろん、停止している。
天井は何かの機械が一面を覆い尽くしており、おそらく上の階から歯車達を見ることができるのだろう。青い光に照らされてぼうっと映し出されたパイプやカムなどは、どこか幽霊のようであった。質量のある幽霊。
ハルは大広間の中央に向かった。
円形の部屋の中心には四角いガラスの柱があり、ハルが見ている側にエレベーターを思わせるドアがあった。中には四角いおもりのような物と歯車があり、ドアの横には三角のボタンがある。
エレベーターの前に着いたハルは暫く柱を見上げ、きゅっと目をつぶり当てずっぽうでボタンを押した。
すると、ささやかな音をたてながらエレベーターの歯車が回転し始めた。おもりがするすると下がっていき、水色の照明が付いたガラスの箱が下からあがってくる。
チーンと音がなり、ガラスのドアが開いた。ハルは迷わず中に入った。
内部には何もなかった。普通のエレベーターなら壁に階数のボタンがあるはずだが、側面はつるりとしたガラス以外何もなかった。
再び音がなり、ドアが閉まった。
さりさりと歯車が噛み合い、エレベーターが上昇し始めた。歯車の床が遠ざかり、機械がぐんぐんと近づいてくる。
ハルは思わず目を閉じた。そのとき、上からぐんと押し付けられるような感覚が体を襲った。エレベーターが加速したのだ。
エレベーターは機械の間にできた穴をするりと通り過ぎ、二階で停止した。
ドアが開いた。
ハルは少し驚いた。というのも、二階は一階と違って草花が生えていたからだ。草花と言ってもさすが時計の中というべきか。茎と葉は時計の針、花の部分は歯車が代用していた。
床はつるりとしているが黒水晶のように暗く、所々が蛍のように青く光っている。周りをぐるりと囲む壁も同じような素材でできており、窓もランプもなかった。
ハルは興味ありげに目を輝かせ、広場を見回した。しかし残念そうな顔でエレベーターの天井を見上げ、首を横に振りながら言った。
「……一番、高い所に」
チーン、と音をたててドアが閉まった。そして、ゆるゆると上昇し始めた。
スピードをゆるめ、エレベーターは止まった。
ドアが開くとハルはこくりとうなずき、エレベーターを降りた。ささくれた木の床がぎぎっと音をたてる。
天井までがハルの身長ほどしかない、屋根裏部屋のような場所だった。とても近いところに梁がある。灯はないが、正面にある両開きの大きな窓から薄明かりが差し込んでくる。
目の前に鳥かごがある。天井からフックでつり下げられ、錆び付いている。扉には南京錠がかかっている。
ハルは中を覗き込んだ。そして、目を大きく見開いた。
かごの中には白い鳩がいた。白い羽が薄明かりで反射し、きらめいている。
鳩は足を鎖で繋がれ、羽に顔を埋めて眠っている。
「……」
格子の隙間から手を差し入れ、羽に触れる。生き物のぬくもりがある。
ハルは鳩の頭まで手を這わせ、そっと撫でた。
そのとき、鳩がぱっと顔を上げて、濡れ羽色の瞳でハルを見た。
「……!」
ハルはぴたりと手を止めて、鳩と目を合わせた。子供の驚いた表情を目の中に閉じ込め、鳩は首を傾げた。その姿を見て、ハルは思わず鳩に話しかけた。
「……と、閉じ込められているの?」
鳩はうなずいた。ハルは続けて問いかける。
「……ここから出たい?」
鳩の動きに迷いはなかった。すぐさまに立ち上がり、尾羽をあげてハルに自分の足を見せた。そこには鎖と、鎖と鳩の足をつなげている小さな南京錠があった。
ハルは南京錠を手に取り、その裏を確認した。Ⅰと彫られている。
鳩は続けてぴょんぴょんと扉に近づき、かけられた南京錠をくちばしでつついた。ハルはその裏面も見た。Ⅶと彫られている。
「……この番号の、鍵を」
ハルがそう言うと、鳩は嬉しそうにぴょんぴょんとはねながら回転した。だが鎖が足に絡まって転んだ。
悲しげな瞳がハルの目を見る。
ハルはこくんとうなずくと、まだそこにとどまっていたエレベーターに飛び乗り、よく通る声で言った。
「一番の鍵と、七番の鍵がある場所!」
チーン、とドアが閉まり、エレベーターが下降し始めた。
ハルが最初にやってきた場所も通り越し、歯車だけで支配された空間をいくつか通り過ぎた後、やっとエレベーターが止まった。
ドアが開いたとき、扉から入ってきたのはむせ返るほどに饐えたにおいだった。思わず袖で鼻と口を覆う。
そこは牢獄のような空間だった。一本道の廊下で、茶色の水がひたひたと床を満たしている。
側面には鉄格子があり、それが茶色の柱で区切られ延々と続いている。
鉄格子の中には、奇妙な形をした囚人達がいた。つるりとした球形の頭を持つ人間。触覚の代わりに足を生やした大きな蠅。手足のある鳥かご。触手だけで出来た奇妙な生物、など。
柱にはランプではなく蝋燭があり、茶色の光をだらだらと垂れ流している。天井の歯車がそれに照らされ、時折だらしなく光った。
廊下の先にはなぜか電話ボックスがある。
ハルはごくりとつばを飲んで、茶色の水に足を浸した。どうやら腐っているらしく、ぬるぬるとした感触が足を襲った。
囚人達は顔を上げて、珍しい客人を目に留めた。舐めるような視線がハルの体を撫でる。
ハルはフードをかぶり、できる限り囚人を見ないようにして廊下を進んだ。
たどりついた電話ボックスには小さな机があり、ダイヤル式の黒電話がおいてあった。周囲より床が高く、汚水が入り込んでいなかったので、ハルは扉を閉めて一息つくことができた。そして、
「……あ」
机の下には鍵束があった。一ダースほどの、古びた鍵が括り付けられている。ハルはそれを拾い上げた。
番号を確認する。七番の鍵と、一番の鍵があった。
「……」
こんなにもあっさりとしていていいのだろうか、とさすがのハルもいぶかしく思った。だが見つかるにこしたことはない。
ハルは鍵束をぎゅっと握りしめ、ドアを開けようと回れ右をした。そして、
「……っ!?」
後ずさりして、電話ボックスの後ろ壁に背中を押し付けた。
囚人達が、電話ボックスに群がっている。
鉄格子の扉はすべて開け放たれていた。そして数多くの異形たちが、押し合いへし合いして電話ボックスに手を伸ばそうとしている。
ハルのいる方へ。その鍵をくれと言わんばかりに。
ハルはハッとして服の中に鍵を隠し、フードをかぶってその場にうずくまった。
気味の悪い鳴き声が、おんおんと耳の中で回っている。
上目で外を見てみると、自分の身長をゆうに超える大きさの異形達が、揃いも揃ってハルを見下ろし、手を伸ばしてくる。
がんがんがん、と扉をたたく音がする。側面からも、執拗に壁がたたかれる。
ハルは思わず目をとじ、耳を塞いだ。
そのとき。黒電話から澄んだ呼び出し音が放たれ、ハルの目の前に受話器がぶら下がった。
リーンリーンとよく通る音が、怪物達のうなり声を切り裂くように響いている。




