2 The Cousin.
この市は四方を山に囲まれており、北方に位置する盗ヶ岳は元々活火山だった。この地方の子供なら誰でも知っている基本事項を、橘風太は真っ先に教えるつもりでいた。だがどうだ。約束の時間、約束の「改札前広場」に来てみたはいいが、肝心のいとこの姿が見当たらない。
風太は茶色の頭髪をかき回しながら、駐車場に置いてきた車のことを思った。十六歳年下の小学生が乗るころに、中が暑くなっていなければ良いのだが。
十分後、そのいとこが改札口の駅係員と言い合いをしているのが見つかったので、慌てて仲裁に入った。駅員は既におかんむりだった。風太が謝ると、中年の男は唾を撒き散らしながらこう叫んだ。
「じゃあそいつに言っておけ! この駅、いやこの街には雑草の一本も生えていないってな!」
街単位だとさすがに一本くらい生えているのではと思いながら、風太はいとこを謝らせて駅中から連れ出した。今にも泣きそうな子供を駐車場前の日陰にあるベンチに座らせ、落ち着かせる。真っ赤な顔がゆっくりと元の色に戻っていく様子を確認し、すぐそばにある自販機に五百円玉を押し込む。そうして仁王立ちで悩んでいる青年をよそに、怒鳴られた本人はしょんぼりとした、それでいて諦念めいた目元をだぼだぼの袖で擦っていた。風太はちらりとそちらを見やった。
「……何か飲むか?」
「いらない」
風太はため息をついて、オレンジジュースのボタンを押した。ごとんと音を立てて出てきた橙色の缶を開け、すぐ隣にいる子供の目の前に差し出す。子供は目を見開き、それから何故か安心したように息を吐いて受け取った。よほど喉が渇いていたのだろう。両手で缶を包み込むように持ち、礼も言わずにごくごくと飲み始めたのを横目に、風太はアイスコーヒーのボタンを押した。釣り銭レバーを下ろして小銭を財布に入れ、隣に座る。
青い空の下で、蝉がみんみんと鳴いていた。別の方向からはじいじいと鳴く声が聞こえてくる。緑の街路樹がざわざわと踊る。影の中にいてもわかる、うだるような暑さ。
風太はコーヒーの缶を開けながら、いとこと同じ目線まで屈み込んだ。
「ハル、よく聞け」
ハルと呼ばれた子供は空き缶をいじりながら、しれっとした顔で目をそらした。聞け、と風太は眉間にしわを寄せ、続けた。
「お前が見ているものは現実じゃない。そういう病気なんだ。誰かに話しても食い違うだけだ。お前はここで、それを治さなくちゃいけない。でないと普通に暮らせない。だから、完治していないうちは不用意に口に出さないこと……と、何回言えばわかるんだ」
「……びょうきじゃないよ」
ハルは不満げに呟いた。小さな声の割にははっきりとした口調で、表情も真剣そのものだった。風太がため息をつくとハルは急き込んだ、だが冷静な声色で続けた。
「おとうさんとおかあさんも、ハルとおんなじふうにみえてるよ。へんじゃないよ」
「ハロルドおじさんと春香おばさん? やめてくれ。あいつらも気がおかしいん……」
「いまだって、植物がいっぱい生えてる」
ほら、とハルは目の前にある車を指差した。
風太は渋々と車に目を向けた。銀色の、真新しい軽自動車だ。道路を隔てた向こう側から、持ち主と思われる二十代の男がこちらにやってくる。曇り一つない輝きは、彼の努力によるものなのだう。これのどこに草が生えていると言えるのだろうかと風太は思った。すると、その思いを読み取ったかのようにハルが淡々と言った。
「あの車、ツタで縛られてる。たぶん開かないよ」
かちゃん、と車の鍵が解除された。男が遠方でスイッチでも操作したらしい。ぎぎぎ、とサイドミラーが嫌な音を立てて、動かなかった。まるで何かに押さえつけられているかのようだった。なぜか背筋に寒気を感じた。
「あのビルには、赤い花がいっぱい咲いてる。道路には、埋め尽くすくらいに草が生えているよ」
男の後ろ側には、灰色で少し錆びたビルが建っている。アスファルトで舗装された道路は、真ん中にオレンジ色の線が引かれている。赤い花も緑の草も見当たらない。風太は男をじっと見た。
「街の中に入ったときからずっとそうだったの。電車から見えたビルも、みんな緑色をしていたんだ。葉っぱがぶわーって壁を隠してたんだよ。こんなこと、今までなかった」
男が自分の車に近づいていく。やがて車の前までたどり着き、何気ない仕草でドアに手をかけ、引く。
嫌な音を立てて、ドアは開かない。
風太は小さく呻き声を上げた。ハルは指を下ろし、凪いだ瞳で風太を見上げた。
車はやがて去ってしまった。
風太は疲れたように息を吐いた。目をぎゅっと閉じコーヒーをあおる。喉が動く様を眺めて、ハルはため息とともに俯いた。
並木のざわめきがやけに大きく、二人の耳に届いた。
「……これもうやめよう。けんかになっちゃう」
しばらく経って、ハルはおもむろに言い出した。疲労の混じった、げんなりとした声だった。風太はちらりといとこを見た。ハルは、叱られた子犬よりも切なげな顔で膝の上の拳を見つめていた。にやけや嘘の残滓が残っていたらどんなに楽だっただろうかと、風太はこわばった表情のまま思った。
それを言う代わりに、彼はいかにも冷静といった表情を顔に貼り付けながらベンチを立った。
「俺には、お前の言った通りに見えないがな」
わかってるよ、とハルは言い訳のように声を荒げた。それから缶を捨てて立ち上がり、青年を追い越してつかつかと車に向かっていく。風太は空き缶をゴミ箱に投げ込んだ。そのとき、調べ学習をするハルのために用意しておいた情報を、すっかり言い損ねていたことに気がついた。
車の中は静かだった。誰も話さないので当たり前である。バックミラーを覗くと、無言で車に揺られながら外の景色を眺めるハルがいた。今はちょうど、大きな川を渡っているところだった。真上からの日光に水面がゆらゆらと反射する。ススキがぼうぼうに生えた中洲では、鷺が魚をついばんでいた。
帰ったら何食べたい?
風太は重たい空気を見かね、唐突に思いついた問いかけをぶつける。するとハルはすぐに、あんこあいすと答えた。「あんこあいす」とは小さく丸めたこしあんを冷凍庫で凍らせただけの、最早菓子とも呼べないような代物だった。歯が折れるほどに硬いそれを、なぜかハルはいたく気に入っているのである。風太はくくっと苦笑いして、嗚呼あれか、婆ちゃん今作ってたかねぇと意地悪に言った。えーないの? とハルは不満そうだ。風太は、晩飯の買い出しする時に電話してやるから待ってろ、と命じてからから笑う。はーいわかりましたー、などと答えるハルの声は棒のようだ。
途中でうどん屋に立ち寄り、そこで二人は昼飯を済ませた。風太はざるうどんを注文した。ハルは暖かいうどんに二、三枚のサツマイモの天ぷらと海鮮かき揚げを乗せた。それが災いし、天ぷらを食べたところでほぼ満腹になったようだった。が、頬杖をついて嫌味に笑う風太の目の前で、ハルは意地のように食い切った。その足で買い物を済ませ、大荷物で帰宅した頃には午後の二時をとうに過ぎていた。
「おばあちゃーん!」
家の前で車を止めた瞬間、ハルは真っ先に飛び降り、出迎えた祖母に抱きついた。老婆は皺くちゃの頬をさらに皺だらけにしながら、よくきた、よくきたと笑っている。
「すまないねえ本当に」
二人の一歩後ろあたりから、風太によく似た風貌の女が出てきた。後ろで一つに束ねた焦茶色の髪には、年齢のせいか何本かの白髪がまじっている。風太が仏頂面でビニール袋を差し出すと、まあなんて可愛げがないない息子と戯けた顔で茶化す。
「なくて結構」
眉間の皺をさらに深くさせながら風太は切り返した。すると女、風太の母親は少し目を見開き、しっかり休みなさいと言いながら玄関に戻っていった。
風太は溜息をついて上を見た。漆喰の壁と茶色の瓦屋根。引き戸の玄関と木目がつるつるになっている縁側。この地方でもこういった家は少なくなってしまった。感傷にふけりながら、風太は数ヶ月ぶりの実家を眺めていた。
この家では橘夫妻と、母方の祖母の三人が暮らしている。夫婦の間には二男一女、計三人の子供たちがいた。末っ子の少年はまだ十七歳だった。しかし、すでに全員家を出ていた。
長男の風太はこの町から遠く離れた大学に通っている。医療を学ぶ大学で、大都会に位置している。現在は休暇中で、ゆえに風太は帰省している。ほかの二人はまだ帰ってきていない。
土間をあがると、懐かしい匂いがむうんと漂ってきた。故郷の町のどこに行っても感じられる、線香の煙にも似た空気を深く吸い込む。そんな風太の横をすり抜けて、ハルは荷物を背負ったままとてとてと廊下を駆け抜けていく。しばらくして「おじいちゃんにこんにちはしてくるー!」と元気な声が仏壇の方へ飛んでいった。それを確認し、風太はよろよろとした動きで家に上がりこんだ。
台所近くのダイニングテーブルに着くと、隣に座っていた男が顔を上げた。風太の顔をにやにや笑いとともに眺めながら「どうだったか?」と尋ねる。中年を少し越したくらいの年齢で、やはりこちらも白髪交じりの茶色の髪をしていた。がっしりとした体格は似ても似つかないが、目元の鋭さが風太と重なるところがある。
風太はちらりと父親を見遣り、テーブルに突っ伏した。父親はげらげらと笑った。
「そうかそうか! ちびっ子の扱いは大変か! まあ、よく頑張ったぞ風太!」
父親の息からは酒の匂いがした。酒臭いことを正直に告げると、うるさいどう飲もうが男の自由だ! などと言いながら風太の背中をバシバシと叩く。風太は突っ伏したままでいた。
「あんたねえ、そんな毎日毎日お酒ばっかり飲んで」
台所でキャベツの葉を剥がしていた母親がくるりと二人の方を向き、呆れた顔で父親をにらんだ。父親は「なんだと!」とイントネーションのおかしな声で怒鳴る。
「盆の時くらいいいだろう! 自分は医者だ! 病気にはならん!」
「どうだか」
医者の不養生、と風太はわざとらしく呟いて見せる。口元に手を当て、クスクスと笑う母親。
父親はしばらく渋面で黙り込んでいたが、「そんなことはいいんだ」と急に真面目な顔になった。先ほどまでの横暴さは鳴りを潜め、仏壇に届かないくらいの小さな声で風太に尋ねる。
「ところで、ハルのあれは」
風太はゆっくりと顔を上げた。あれ、の一言が何を指すのか、すぐに理解できたのだ。彼はしばらく呼吸を止め、やがてゆるゆると首を横に振った。
「……たぶん、悪化している」
母親の手からキャベツが滑り落ちた。流しへ重たいものが転がる、ごとんという音がした。風太は話を続けた。
「前は時々だっんだ。変なところから出てきて、妙なことを言う。それだけだった。けど、今日はひどい。駅員に向かって何かデタラメを言ったらしい。慢性的に幻覚が見えていたみたいだ」
両親は見開いた目を風太に向けた。小さな驚愕が含まれた目だった。
電球の光る音が、部屋の中に満たされていく。ちりちり、ちりちりと音を立てて、フィラメントが燃え尽きていく。ぼうっと光る球体は、部屋の中に明るい薄暗さをもたらしている。
父親はふう、と息をつき、おぼつかない足取りで冷蔵庫へと向かった。がたっと扉を開けて缶ビールを取り出し、閉じないまま食器棚へと歩き出す。母親は諦めたような目で夫を見つめ、次に風太に向き直り、眉尻を下げながら笑ってみせた。そして、あら手が止まっちゃってたわと笑い声を上げながら、キャベツを拾い上げた。若草色の葉から雫が滴る。
「俺のところにでも入れた方が良いかねえ」
ガキュッと音をたてながら缶を開け、タンブラーに中身を注ぎながら父親はぼやいた。タンブラーからあふれた液体がテーブルを彩った。
「親父のとこじゃ、治るものも治らないんじゃないか?」
布巾を取りにいきながら、風太は冗談めかして笑った。笑いながら声を荒げる父親。作業の手を止めぬまま声を殺して笑う母親。
そのときだった。
「おばあちゃん、あんこあいすたべにいこうよ!」
とてとてと軽い足音が此方にやってくる。父親はあわててビールを飲み干し、こぼした跡を風太がさっと拭き取った。
直後、勢いよく台所の扉が開いた。
三人がはっとして目を向ける。
ドアの向こうには一人の老婆と、袖と裾がぶかぶかな白いパーカーを着た幼い子供がいて、めいめい不思議そうな顔で首を傾げていた。
***
少し前。覚えたての念仏をごにょごにょと唱えながら、ハルは仏壇の前で手を合わせていた。仏壇には、錆びた仏器に盛られたご飯が備えられており、水分を失いすっかり干からびていた。
あかあかと燃えるろうそくは、まるで上から鎖でつり下げられているように揺れることすらなかった。線香の煙もまっすぐに昇り、天井の梁をゆっくりと包み込んでいく。
ハルはちらりと祖母の方を見やった。老婆は皺の多い目をぎゅっと閉じ、両手をすりあわせるようにして念仏を唱えている。ぼそぼそとした声が、仏壇の奥へと吸い込まれているように聞こえた。
ハルも同じように目を閉じ、うろ覚えながらも心をこめて、念仏を唱え続けた。
祖母が手の風でろうそくをの炎を消し、ハルがお椀の形をした鐘を二回鳴らし、もう一度合掌した後、二人は仏壇を離れた。
ハルは祖父の顔を知らない。ハルが生まれるほんの少し前に、重たい病気で死んでしまったからだ。奇しくも祖父が死んだ病院は、ハルが生まれた病院でもあったそうだ。帰省の前、母親から涙ながらに教えられていたので知っている。喜んでいたのか悲しんでいたのか、そのときのハルにはよくわからない表情を浮かべながら。
「おばあちゃん、あんこあいすたべにいこうよ!」と祖母の手を引っ張りながら台所に駆け込むと、叔母と叔父、そして従兄の風太が妙な顔をしてこちらを見ていた。ハルは不思議に思って首を傾げた。台所からはビールのにおいがした、ハルは橘一家が大好きではなかった。祖母は別だが、この三人には時折よそよそしいところがある。
だが、ここで食べる「あんこあいす」は格別だった。木の実を齧る子リスのように前歯でアイス削りながら、ハルは祖母との話に花を咲かせていた。学校の話、父親と母親の話。それから、どうやってここまで来たかの話。ハルの奇妙な話を疑うこともせず、穏やかな笑顔で頷きながら聞いてくれる祖母に、ハルはとても懐いていた。
「駅前とかビルとかの町はね、ずーっと植物が生えていたの。でもここには変な植物生えてないの」
と、そこまで話してハルは一息ついた。叔父が席を立ち、おぼつかない足取りでどこかへ去っていったからだ。ハルは閉じられたドアを一瞥した。すると祖母が「どうしたの?」と、ハルの頭と笑みを消した頬を撫でた。ハルはなんでもないと言いながら微笑み、先程から頬杖をついてぼんやりとこちらを見つめていた風太の口に、最後の「あんこあいす」を押し込んだ。
あんこあいすを食べ終わった後、ハルは探検と称して一人で家の中をぐるぐると歩き回った。現在住んでいる人数の割に、この家はとても広かった。前も同じように探検をしたのだが、どこがどうなっていたのか、そもそも自分がどこにいたのかでさえわからなかった。そのくらい、この家は複雑な構造を持っていた。
ハルは余った袖を揺らしながら、裸足で板張りの廊下を歩いていた。歩くたびに木材が軋む音を立てる。ひやりとしたぬくもりが、足の裏から伝わる。
ハルの左側には黄ばんだ襖が並んでおり、右側は一面ガラス張りの窓だった。白いカーテンがかかっていて、薄物の布を透かして金色の光が降り注いでいた。窓の向こう側には、丸い岩を階段のように積み重ねた庭園が見えるはずだった。だがあふれる陽光が、外の景色を淡い黄昏色へと染め上げていた。
ふと思い立ってカーテンに手をかける。だが何かに気がつき、離した。そして、歩いている方向に目を向けた。
廊下の先にはただ暗闇が見えるばかりだった。先が見えない程の、深い深い闇。
ハルはごくりと唾を飲み込んだ。生暖かい液体が喉を下っていく。
あたりは静まり返っている。針が落ちた音でさえ、耳に届きそうなほどだ。冷たい空気が床をはい、幼子の素足を撫でる。
ハルは唇を噛み締め、ゆっくりと足を踏み出した。




