11 Flowered.
ハルが来てから今日で三日になる。
その日の朝は皆揃って忙しなかった。家出していた末の息子に加えて、留学していた娘まで帰って来るとなれば当然のことだろう。朝食の後、風太はもちろん、風也やハルでさえ夕飯の手伝いやら部屋の掃除やらに駆り出された。ハル曰く、昨日借りた本を読む暇もなかったそうだ。
午前十時、風太は寝る部屋に飛び込み、くたくたに疲れた体を片付けられていない布団に投げた。かの大きな時計は長い針をかちりと鳴らし、文字盤の下の扉から一羽の鳩を放った。厳しい鐘の音が後に続くが、打ち捨てられた黒いぼろ人形はぴくりともしない。開け放たれた襖から白い光が差し、布団から陽だまりの匂いが漂う。それに顔を埋め深呼吸を続ける年長者を前に、青年と子供は顔を見合わせて深く息を吐いたようだ。
鐘の音はやがて過ぎた。風太が重たい体を起こした時、風也は猫のように目を光らせながら時計を眺めていた。ひとしきり眺め回した後、つるつるとした木目に耳を当て、目を閉じ中に耳を傾ける。とてとてと近寄ったハルも風也を見上げ、その姿を真似た。風太は思わず声を立てて笑った。
やがて納得したのか、風也は時計から耳を離してこう言った。
「これ治ったんだ。おれが出て行く時にはもう壊れてたっけ?」
「元から壊れてなかったよ。うごいてなかっただけ」
ハルが横から口を挟んだ。風也は不思議そうにハルを見ていたが、やがて目を閉じ、大きな唸りを上げながら風太の隣に身を沈めた。布団から埃が舞い上がり、光をキラキラと反射する。
突然、無邪気な掛け声とともに、仰向けになった風也の上へハルが飛び乗った。風也はカエルのような呻きを上げて、ジタバタとするハルを抱きしめながら大声で笑った。
風太は不思議な気持ちで彼らを眺めていた。遠くから祖母の呼び声が聞こえる。煽られたのは懐古にも似た、穏やかな感情だった。あと一人いたらなあ、と風太は誰に言うでもなく呟いた。
前に成人済の男が二人、真ん中に未成年が二人、後ろに女と老女を一人ずつ乗せて車は走り出した。車はあっという間に山道を下り、田畑の間を超え、大きな橋を目前にした。
「お昼は駅で食べるんだっけ?」
運転席で信号を待ちながら、風太は母親に尋ねた。母は答えた。
「駅の回転寿司に行くって言ったじゃない」
そう言えばそうだったと思ったその時、信号が青になった。こうして車は橋に乗り、中洲のある大きな川を渡った。ふとバックミラーを見上げると、ハルは一心に外の風景を見ていた。が、橋を渡り終えた途端に顔を引きつらせながら目をそらした。首を傾げながら、風太は正面の窓に映る市街地へ視線を戻した。
程なくして駅の駐車場に着き、大人三人と風太と風也、そしてハルは車を降りた。
駅周りの歓楽街は賑やかだった。帰省時期のためか、老若男女問わずたくさんの人がいる。横に長い白壁の建物と、それに沿って点在する店の看板が、日の光に照らされて眩しい。
昨日雨が降ったせいか、空は真っ青に晴れていた。ぎらぎらと輝く太陽光が肌を刺す。平坦なアスファルトからも、湧き上がるような暑さがある。思わず目元へ手をかざしながら、風太はちらりとハルを見やった。ハルは白いパーカーの裾をひらひらとさせながら、右へ左へさまよっていた。さながらお化け屋敷に入った幼児だった。洒落た駅前の街に、その姿は不釣り合いだった。放っておけば面白い方向へ行ってしまいそうである。
「おいてくぞー」
大声で手招きをするとハルはびくっと肩を震わせ、風太の方を凝視した後、何かを飛び越えて行くような足取りで走り寄ってきた。変だとは思いながら、風太は何も言わずに手を繋いだ。ハルも何も言わなかった。三日も経てば、お互い慣れてくるものなのだろう。初日のことを思い出しながら、風太はぼんやりと考えた。
先頭を歩く風也はメモ用紙を取り出し、それに目を通した後こちらを振り返った。
「姉ちゃんもうすぐ着くよ」
「まあ、気がきく孫だこと」
ほのぼのとした祖母の微笑みが、その息子と義理の娘に伝播した。だが後ろの二人だけは表情を変えなかった。ハルは相変わらずきょろきょろと辺りを見回し、風太はただ手を引いていた。
風太はふと風也の前を見た。白いタイルが敷かれた通りの真ん中だ。そこには青い花が一つ、鮮やかに咲いている。細い茎の先端に、椿ほどの大きさの花弁がゆらゆらと揺れている。葉はまるでシダだ。ここは南国かと思ったその時、ハルが手をぎゅっと強張らせた。握る手が震えている。風太はハルを見下ろした。
「どうした?」
「……なんでもない」
ハルは首を横に振った。風太はもう一度前を見た。
花は消えていた。
***
おかしい、とハルは思った。
道路に青い花がある。大きな花だ。派手な色合いをしている。この辺りでは見かけない。風太に手を引かれるまま、ハルは近づいてくる花を凝視していた。スニーカーが葉の長い草を踏み、音を立てるのがハルの耳に届いた。
おかしい、とハルは再び心中で呟いた。それは、ハルが今見ている風景に対しても言えることだった。
街が植物に覆われているのである。
道路にはまるで熱帯雨林のように、たくさんの草が生えている。シダらしきものと長い葉のものがほとんどだ。ハルの背と同じくらいのものもある。建物は緑色の蔦で覆われている。蔓に生えているハート形の葉は、さやさやと音を立てながら辺りへ緑色の光を振りまいていた。
軒を連ねる看板には、看板が色褪せて見えるほど鮮やな、そして大きな花々が咲いている。星型の赤い花。朝顔のような黄色い花、紫の花。そして白い花。先ほど見た青い花も、時折ひょっこりと見かけられる。
そしてそれを気にすることなく、たくさんの人たちが普段通りに歩き、笑っている。
ハルは思わず風太の手を握りしめた。すると風太は不思議そうにハルを見下ろした。
「どうした?」
一瞬、話してしまおうかと思った。だが、帰省してきたその日に言われたことを思い出し、なんでもないと答えてうつむいた。若い女の人の声が聞こえてきたのはその時だった。
「姉ちゃんだ! おーい!」
声をあげた風也の前には、確かに彼と似た女の人がいた。赤い靴と赤いスカート、それから白い半袖のブラウスを着ている。赤いハンドバッグを肩にかけ、茶色のスーツケースをカタカタと引いている。括られた茶色の髪先は優雅に揺れていた。目元がきりりとして綺麗だった。
女の人は風也に向かって大きく手を振り、だが後ろの三人を見やってあからさまに妙な顔をした。しかし、さらに後ろからついて来ている青年と子供を目に留めて、呆れたように表情を緩めながら歩み寄り、足を止めた。
「風也はついに捕まったのね」
つい、と風也が苦笑いする。風太はハルの手を掴んだまま風也に近づき、その肩を叩いて彼女へ言った。
「おかげさまで。親子総出で悪かったな」
「本当。兄さんが帰ってくるって知ってたら、向こうから連絡入れたのに。……あ、ハルも帰って来たんだね。久し振り。また大きくなったね」
女の人はハルの目線まで少し腰を下ろし、髪を撫でる。指の長い手だ。
この人が風花さんか。ハルは考えながら、おひさしぶりです、と丁寧に頭を下げた。
回転寿司のお店が運良く空いていたので、せっかくだからと子供四人、大人三人に分かれて座った。これは風花と風也が提案した。大人たちはしばらく不平を言っていたが、風太がなんとか説得させた。その間中、ハルはずっと店の中を見回していた。店の中は外ほど大きな異変は見られなかったが、ときおり視界の端に現れる鮮やかな色は、ハルにとって恐怖の対象でしかなかった。
そうしてやっとのことでレールの周りのボックス席に身を沈め、備え付けの湯のみにお湯を注ぎながら風太は言った。
「子供に醜い争いを見せるなよ」
向かい合って座る風也と風花は互いに目を合わせ、口元に手を当てながらクスクスと笑う。風太は嫌そうに目を細めた。そして漆塗り風の箱から緑茶のパックを六つ摘まみ上げ、二つの湯呑みへぶち込む。ハルは海老煎餅をつまみながら、なんとなく、このお茶に手をつけるのを遠慮することにした。
寿司を食べながら――専ら鰯、〆鯖、サーモン、シーチキン、卵のループ、マグロは安い部位を風太が選り好みをしてレールから取っている――三人はよく話をし、ハルはそれをよく聞いていた。まずそれぞれの近況報告に始まり、ハルが来た日にあった地震について。次に風也の読んだ本について。風花が留学するまでの経緯と大学に入って勉強していることは、ハルにはよく理解ができなかった。
程なくして話題は過去のことに移った。風花は湯呑みを弄りながら言った。
「昔は四人でお祭りとか行ったよね。あれまだ残ってたっけ? 盗ヶ岳神社の花火大会」
「おれは去年、図書館の人たちと一緒に行ったよ。明日にもあるってさ。昔と比べて大分規模は小さくなっちゃったけど……。館長さんが、街から出て行く若者が多いせいで、祭りを運営して行く人が減ってるってさ」
「それって俺と風花のことか」
「その通り!」
風也が笑うと、風花は笑い混じりに不満の声を漏らした。その右目が少し腫れている。思わずふーかさん、と声をかけ、なあにとこちらを向いた顔に向かって自分の左目を指差して見せた。
「あれ? そういえば少し痛いな……」
指先で腫れた瞼を触りながら風花は首を傾げた。大丈夫? と風也は聞いた。きっと平気よ、と風花は微笑む。風太はそっと風花を見やり、次にハルを見下ろした。ハルは目をそらしてツナの軍艦巻きを食べようとした。その時。
「四人目」
誰かがポツリと呟いた。箸から軍艦巻きが滑り落ち、皿の上で潰れる。声は続けた。
「今頃どこにいるんだろ、あの人」
この席の空間だけ、音が消えてしまったような気がして、ハルはおずおずと顔を上げた。
三人とも笑っていなかった。風花は腫れた目の上をなぞり、風也は箸を持ったまま固まり、風太は湯呑みの水面をじっと見ている。
ハルは持ったままだった箸を皿の上へ揃えた。そのままそっと押し黙り、静かに答えを待った。
しばらく経った後。三人のうちの一人がため息をつき、淡々とした声で話し始めた。
「風太兄さんの、友達は、」
その後ろで、大きな赤い花が揺れていた。




