10 Rain and later sunny.
舌足らずに名前を呼ばれた。
風太は布団から這い出て顔を上げた。暗闇に二つの眼が光っている。
風也か、と問うと上下に揺れる。
十五歳少年の睡眠時間は長い。風太は無言で扉を指差した。同時に風也は布団を掴んだ。反射する線が頬をなぞる。雨の滴る音が満ちている。
何事かを尋ねる前に小声が叫ぶ。
にいちゃんの友達がいない。
停められた車で一人、風太は雨音を聴いていた。シートの上は湿っている。加えて空気も冷えている。
水滴が窓に線を引く。まるで檻だ。あの時も雨が降っていたと思い出す。
しばらくして、後部座席にハルが戻ってきた。バックミラーの中で濡れた髪が揺れた。
「怪我は?」
「へいき」
「本当に?」
それきり言葉は途切れた。
風太はフロントガラスから西洋館を見上げた。厳しい外見だ。だが壁は優しげに白い。あの緑の屋根の下に、まさか弟がいたとは思ってもみなかったのだ。そう考えてみると恨めしくもある。睨むように眉間に皺を寄せてみる。すると背後から微かな笑い声が上がった。
顔を上げて鏡の中を覗く。ハルは戯けた笑顔で、白い袖を口元に当てていた。そしてその時、後部座席のドアが開けられた。
風也は濡れ細った体を車に押し込み、ドアを閉じた。
「ふーやさん」
ハルが名前を呼ぶと、風也はそちらに微笑みかけてこう言った。
「怪我は見てもらえた?」
「みてもらえた!」
「よかった。じゃあ、本は借りれた?」
「ほん……あ!」
がたっと席を立った子供へ、風也はその場に転がっていたビニール傘を手渡した。恐る恐る握りしめた手を一撫でし、優しい声で促す。
「受付のお姉さんが本を預かってくれているはずだよ。貸し出しは本人がいないとできないから、一旦戻って借りておいで」
ああそれから、とポケットから10円玉をいくつか取り出してハルに手渡す。首を傾げながら指で摘まみ上げるハルへ、風也はとびきりの笑顔でこう言った。
「図書館に公衆電話があるから、お父さんとお母さんに電話してみたら?」
ハルはぱあっと顔を輝かせて素直に頷き、ドアの外に飛び出した。
バックミラー越しに、風太は弟の笑顔を伺っていた。彼にどんな意図があるのか、知りたいような知りたくないような気がしたのだ。風也はハルが見えなくなるまで手を振っていた。
その姿がドアの奥に消えた時、風也は初めて笑顔を消して顔を上げた。
鏡越しに目があった。
背が伸びたな、と風太は思った。最後に見たときはまだあどけなさのある顔だったはずなのに。いつのまにかその辺の高校生よりも精悍になっている。
「……近くに病院があってよかったね」
先に沈黙を破ったのは弟の方だった。病院なんてあったか、と聞けばこの間できたと無愛想な返事が来る。
「三針縫ったって。親父が相当慌ててたよ。あの手の治療って安くないから」
「……それはとんだ災難だこと」
「誰にとっての?」
「うるさ」
適当に返すと毒のようなくすくす笑いがあがった。風太は自棄を起こしたような、不愉快な気分で言葉を放った。
「どうして出てった」
案の定笑い声は消えた。風太は背もたれに身を押し付けて息を吐き出した。鏡の中で風也は目を泳がせている。胸がむかむかするような満足を覚えた。
風也はひとつため息をついた。
「……ハルの診察待ってる時にも聞かれたよ、それ」
やんなっちゃう、と誤魔化すように腕を組む。だが鏡越しに睨んで見せると顔を引きつらせ、渋々といった口調で語り始めた。
「兄ちゃんは知らないかもしれないけど」
「けど、何?」
「親父と進路で揉めた」
「……」
「だから出てった」
以上、と話を打ち切り窓を見やる。その目はひどく冷めている。だが、腕を組んで呆れ気味に目を細める風太を見ると、少し微笑んだ。
「萎えた?」
「……たしかに、高校以降は理系しか金は出さないって言われてたけど」
「それが嫌だったんだよ。まあ、こっちはこっちで上手いことやってるから心配しないで」
「それで図書館に?」
「居候させてもらってる。たまに仕事を手伝ってね。あそこで勉強して、大検取って。……今ここにいるのは図書館の人に言われたからだからね。一回くらい実家に行けってさ。あとはこっちの話だからほっといてよ」
これ以上聞くなと言わんばかりに、風也は鏡越しに風太を睨みつけた。
風太はその目をじっと見つめ、確認するように口を開いた。
「それで良いのか?」
「いい」
風也は迷わず即答した。風太は頭を掻きながら、そんなら一言くらい連絡よこせ、と面倒臭く笑った。そして、
「風也」
「何?」
首をひねって振り替えり、屈託無く笑ってみせる。
「お帰り」
風也はぽかんと口を開き、それを閉じて、ふて腐れたように目をそらした。
***
公衆電話にもう一枚10円玉を放り込み、受話器を耳に当てる。数回のコール音の後、二日ほど聞いていなかった声が向こう側で応えた。
「おかあさん!」
ハルは高く笑った。あらハルじゃない、と母親も嬉しそうに尋ねた。
『夏乃と秋吉さんは元気だった?』
「げんきみたい! きのうあんこあいすたべた!」
それは良かったねえとハルの母親は言った。そのまま楽しかったことの話をし、ついでに父親にも変わって先ほどとなんら変わらないことを喋った。そして気づけば10円玉は尽きていた。ハルがその旨を伝えると、父親はこう言って通話を終えた。
『それじゃあ、無事に帰っおいで』
その一瞬だけハルの表情から笑みが消えていた。
受話器を下ろしてハルは小さく息を吐いた。それからもう一度耳元まで持ち上げて、祈るように目を閉じた。
すると向こう側からがあがあとノイズが聞こえ始めた。ハルは目を見開き受話器を握りしめる。やがてノイズは収まり、性別のわからない声が話し始めた。
『ハルかい? どうしたの?』
「あなたにききたいことがたくさんあるの」
ハルは言葉を遮るように言った。声はうん、と相槌をうって促す。ハルは尋ねる。
「彗星が来る前、街はどうなるの? 人が居なくなっちゃうの?」
答えはなかった。ハルは粘り強く待った。
しばらくして感嘆の唸り声が向こうから聞こえた。
『……ハルは頭がいいね。子どもだってことが信じられないよ』
「じゃあ、風也さんがいなくなったのは……」
その通り、と声は言った。
『君や僕が見る世界や彗星は、人を欲しがる性質をしているんだ。現実の世界を幻想で塗り潰そうとしているのさ。この先どんどんおかしなことが起こるだろうね。彗星が落ちるっていうのは、そういうことなんだよ』
「……」
『君は風也を助けたんだ。彼に代わって礼を言わせてほしい。本当にありがとう』
ハルは口を開きかけたが、おもむろに閉じて黙り込んだ。
雨の音がするねと声は言った。ハルが頷くとすぐ止むから平気だよと予言する。すると急に、この人間の正体が聞きたくなった。変なの、とハルは思った。本当に知りたいことは別にあるというのに。
「ねえ、あなたは誰?」
声がふっと笑う気配があった。
『君はもう知っているんじゃないかな』
ハルは一人でゆっくりと首を傾げた。
声は静かに続けた。
『彗星が落ちるまで、あと四日だよ』
***
雨が少し弱まってきた。
しばらく経ってハルが車に戻ってきた。本を胸に抱えている。そのまま風也の太腿に頭を乗せて眠ってしまった。風也はおずおずとハルの頭を撫でる。ハルは唸ることもなく寝返りを打った。途端に風太の表情が緩み、手の甲が口元に当てられる。
「……かわいい……尊い」
「おい」
やだな変態じゃないよと風也はけらけら笑った。ならいいと返し、風太は尋ねた。
「ところで、どうして川にいたのか覚えてるか?」
「……それが全然で」
風也曰く、ハルと図書館の二階に行ったことまでは覚えているとのことだった。風也は自分の頭に手を当てて唸った。
「記憶がはっきりしないんだよな〜」
「……」
風太は鏡越しにハルを見た。まるで電池が切れたかのように眠っていた。そういえば、舌の怪我はどうしてあったのだろう。
「……まさか、な」
風太が小さな声で言った。と同時に助手席の扉が開いた。入ってきたのは橘家の大黒柱だ。
風也の父親は家出した息子と目を合わせ、その視線にたじろぎ目をそらした。
「あ、そうだ」
風也は気にせずに切り出した。
「風花姉さん、帰って来るみたいだよ」
前列にいる二人が一瞬硬直した。風也は狙いすましたかのように続けた。
「昨日メール貰ったんだ。明日の昼頃にはこっちにこれるだろうから、どこかで会おうかって」
今度は二人同時に振り返る。すると風也は得意げに笑う。まさか、と風太が口を動かした。その弟が意地悪に笑った。
「連絡なかったの?」
風太はぎりりと歯を噛み締めた。
その瞬間、ハルが大声をあげて跳ね起きた。
***
短い夢を見ていた。
森に雨が降っている。そのせいで道がぬかるんでいる。足を懸命に動かして進む。
やがて、山の頂上の開けたところへたどり着く。はあはあと何度か息を吐き、天を仰ぐ。
視界いっぱいに、大きな立方体がある。真っ白に輝いているそれは、くるくると回りながらこちらに近づいて来る。
手を伸ばして触れる。途端に超音波のような耳障りな音が放たれる。
全身に激痛が走り、ハルは大声で悲鳴を上げる。
「ちょ、どうしたの!? ハル!」
風也に名前を呼ばれて、ハルは我に帰った。慌てて車内を見回すと、運転席の風太と助手席の叔父が妙な目でハルを見ていた。なぜか引け目を感じ、ハルはシートに座りなおした。
同時に、窓の外の様子に気づいてドアに手をかける。制止を押し切って開けはなち、飛び出す。途端にきらきらとした陽光が車の中に差し込んだ。あちこちを潤している雫が、一斉に世界を照らし出したようだった。白い雲の混じった空は澄み渡っている。
風太も外に出た。靴が小さな水たまりに沈む。
「……晴れてる」
窓から顔を出して風也は呟いた。同時に、ハルは真上を指差して高らかに叫んだ。
「みて!」
その指先は、空に架けられた虹へと向けられていた。青色のキャンバスをバックに、七色が淡く輝いていた。
ほんとに晴れた、とハルは呟いた。それが何を意味するのか、これからどうなるのか。難しいことは全て忘れてしまいたいと思いながら、ハルは無邪気な笑顔を作って雨上がりの地面を駆け抜けた。




