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HALation  作者: 荻布空
1日目
1/11

1 Welcome to the Strange, Little Child.

 ふわりと体が浮いた。と思ったら、いつの間にか空を飛んでいた。どこかのアニメ映画のように、生身のまま、両手を広げて。はるか下を鷹のような鳥が旋回している。本当に空って飛べたんだ、と滑空を続けながら子供はそんなことを考えた。

 空の中は青かった。右も左も、果てがないくらいに青かった。空気はひどく冷たかった。「コウオンセイブツ」でさえ、凍てついてぱりぱりになって死んでしまうくらい。

 子供は空中に浮いたまま首をかしげた。

 突然、強い風が吹き付けた。びっくりして顔を覆う前に、次の突風が小さな体を軽々とひっくり返す。子供は万歳の体制でぐるんと下を向き、そこで初めて下の景色を見た。

 山々にぐるりと囲まれた田舎町だった。まるで衛星写真のように細かいところまでよく見えた。最初に大きな駅が目に付いた。そこから真っ黒な道路が東西に伸び、公民館や真っ白な総合病院などの大きな建物が見える。遅れてマンションやアパート、一軒家も立ち並ぶ。枝分かれした道路が川を越えたり、建物がまばらになったりしてからは若草色の畑や田んぼ、木製の家などがちらほらと見える。

 北の山の麓に、ぽっかりと開いたトンネルがある。その暗闇の向こうから、線路に導かれて一台の電車が姿を現した。銀色の車体を金管楽器のように反射させながら、深緑の布地を切り裂くように走っている。

 子供の両掌に囲われた中、子供の瞳の中で、銀色の光がチカチカと瞬いた。

 ぐん、と上向きの風圧が細い胴を叩きつけた。子供はわたわたと四肢をばたつかせ、慌てて周りを見回した。すると、北の空に妙なものを見つけた。

 さんさんと照り輝く太陽の下で、真昼の空でもわかるほどに白く光を放つ物体があったのだ。

 それはちょうど彗星のように尾を引きながら、子供と同じように落下していた。子供は思わず、そちらへ手を伸ばした。いっぱいに伸ばした。だが白い光は上へ上へと昇っていく。深緑の山の頂上のより高く、水色の空の中へとどんどん沈んでいく。

 ちがう、自分が落ちているのだ。と子供は思った。電車の方へ、吸い寄せられるように落っこちているんだ!

 次の瞬間、どーんと大きな音を立てて子供は電車の天井を突き破った。電車の天井は脆く、ばきばきっと音を立てて大きな穴が空いた。対して子供の体は傷一つなく、ぶつかった反動でくるりと宙返りし、足を下にして再び落ちた。

 ぽすん、と音を立てて、空いた席に子供の身体が収まった。


 子供は膝の上で手を揃えたまま、きょろきょろと辺りを見回した。

 電車の席はほとんど空いている。子供の座っている青いシートの両隣には誰もいない。向かい側の席には、白いセーラー服を着て黒髪をおさげにした少女がひとり、足を行儀よく揃えて本のページをめくっていた。向こうにはヘッドフォンをつけた金髪の青年がひとり、さらに向こうは新聞を読むサラリーマンがひとりというぐあいだった。奇妙なことに、誰ひとりとして子供の方を見てはいなかった。あれほど大きな音を立てて車内に突入してきたというのに。

 子供は天井を見上げて、目を丸くした。突き破った天井にできた筈の大きな穴が、なかった。 

 やがて電車が止まり、ドアが開いた。草ぼうぼうのプラットフォームからは、誰も入ってこなかった。ドアは閉じ、電車は再び走り出した。

 子供は後ろに身体を向けて、外の景色を見ようとした。が、背負っている大きなリュックサックが視界の中をどんと陣取った。リュックサックは黒檀色で、所々でこぼこしている。使い込まれており生地はよれよれだ。

 空を飛んでいた時はこんなもの背負っていなかった筈だ、と子供は考えた。だが、これのせいで落ちたのだと無理やり納得しておくことに決めた。子供は二、三回頷くと、リュックサックを腹の前に抱え込んで体をひねり、窓の外を覗き込んだ。

 電車はどうやら橋を渡っているようだ。時折黒い鉄骨が横切る大きな窓は、緑色の景観を枠の中に閉じ込めている。子供はパノラマでも覗き込むかのように、嬉々とした表情で車窓の外を見渡した。見える見える。匙か何かで抉られたかのような岩壁が見える。その手前をごうごうと轟く流れが見える。枝葉を伸ばして緑色に生い茂っている木々も見える。午前の日光がさんさんと木々に降り注ぎ、地面に濃い影を落としている。

 今、渓谷に架けられた真っ赤なつり橋が、ゆっくりと窓の中を横切っている。吊橋の先には轍が残っている。木の陰に覆われていてよく見えないが、おそらくかなり先まで続いている。

 子供は顔をぱあっと輝かせ、両足をぱたぱたと揺らした。だが我慢しなければならないとでも思い直し、頭をあたかも子犬のように振りながら背中を青いシートに押し付けた。リュックサックを胸に抱きかかえてチャックの上で指を組む。こうして大人しく座っていたが、それでも靴紐は微かな揺れを残していた。

 最後の鉄骨が幽霊のように過ぎた時だった。突然、轟音とともに窓の外が暗闇に閉じられた。子供の肩がびくっと跳ね上がった。そのとき、目の前にいるセーラー服の少女が顔を上げ、子供の怯えきった表情に気がついた。

 少女は優しい笑顔で何かを言った。轟音のせいで、なんといったのか聞き取れなかったが、唇は確かに「だいじょうぶだよ」と動いていた。子供がこくこくと頷くと、少女は再び笑って本の上に視線を戻した。

 子供はリュックサックに顔を埋め、少女の目をじっと見つめた。そして、その後ろに映る重たい暗闇を眺めた。すると中から湧き出すように、光の粒が見えはじめた。まるで宇宙が誕生するときのような光景だ。その中に、ひときわ大きく輝く何かを見つけた。

 それが何かを確かめる前に、窓からさあっと光が差し込み、子供の視界が真っ白に染まった。


     ***


 街に入り、景色はいつの間にか灰色のビルと四角い建物の群れに変わっていた。明るい光を頼りに、セーラー服の少女は目の前の子供をまじまじと観察した。短くて茶色い髪。まん丸な空色の目。肌はほんのり日に焼けている。どこの国から来たのか、そもそも男の子なのか女の子なのかすらも曖昧な、しかしながら子供らしく素直な顔つきだった。もともと小柄な少女と比べても背は小さく、身長は見た所大体百三十センチメートルほどだった。六歳位だろうか。だが着ている白いパーカーは明らかに子供用のそれではなく、あまった長い袖と裾がぶかぶかになっている。

 少女はしばらく考え、思い切って声をかけてみた。

「夏休み? 旅行しているの?」

 子供ははっとして少女を見た。だが恥ずかしいのか、顔をリュックサックに擦り付けるようにして頷いた。そして迷うような間があり、やがてくぐもった声が言った。

「……しらべがくしゅうで、ここに。おばあちゃんの、いえ」

「調べ学習……行った場所を調べるんだ」

 頷く。少女は「偉いね」と子供を褒めた。すると、目が見えるくらいにまで焦げ茶色の頭が上がった。空色の瞳は吸い込むような光を伴い、訝しげな目線で問いかけていた。

「ほら、だって」

 彼女は応えた。

「一人でこんな所にまで来るなんて大変だったでしょう? この辺は電車が少ないから」

 子供はすぐに「たいへんだった! でもね!」と答えながらぱっと顔を上げ、正面から少女の目を見た。キラキラとした瞳を見つめて、少女は優しげに首をかしげた。

「でも……」

 だが遠慮がちに俯き、チャックの上で人差し指と人差し指を絡めた。しばらく力を込めた後、頭を横に振ってゆっくりと離す。それから大きく息を吐き出してこう言った。

「うそだって、おもうかも」

「どうして?」

 少女は聞いたが、子供は答えずに話し始めた。

「空を飛んだの」

 少女はぱちりと瞬きをし、目を細めた。子供は息を吐き、次の言葉のために吸い込んだ。

「……いくとちゅう、でんしゃがとまってたの。ここにくるでんしゃ、ぜんぶうんきゅうだったの。すごくこまっていたら、いつの間にか空を飛んでいたの。上から町を見たの。それで、この電車を見つけて、引っ張られて落ちてきた」

「……本当?」

 目を細めたまま少女は尋ねた。子供は顔をあげず、「……うん」とだけいって黙り込んだ。浮かない顔をしていたが、嘘をついている様子はない。

 少女は窓の外の景色に目をやった。灰色のビル群を見下ろすような、澄んだ色の青空が見えた。美しい形の雲がいくつか宙を舞う。遥か上空を飛ぶ鳥の姿が、太陽にさらされて小さなシルエットになっていた。少女はしばらく見上げ続けていたが、鼻から細い息を吐き出すと手元の本を見下ろした。ぱたんと両手で挟み、はっきりとした声で告げる。

「私、信じるよ」

「えっ!?」

 子供がぱっと顔を上げると、少女は困ったようにはにかんだ。

「だって、あなたが嘘を言っているように見えないもの。それに……そうだね。私が本を読み始めた時、あなたはここにいなかったものね」

 子供はしばらく口を半開きにしたまま、少女を見つめていた。が、言葉の意味を噛み砕いて嚥下し、ようやく彼女の言っている意味を理解したようだ。その証拠に、靴のつま先とつま先をコツンとぶつけ、恥ずかしそうに指をこねくり回しながら、花が咲いたかのような笑顔を見せた。

「……ありがとう、おねえちゃん!」

 少女は「気にしないで」と笑いながら、何故か懐かしい気持ちになっていた。ずっと昔に、目の前の子供と似たような時期があったことを思い出す。同時に、この子は何者なのだろうかと考えた。考えただけで、答えは出なかった。


     ***


 その時、狙いすましたかのように合成音声が次の駅の名を読み上げた。電車のスピードが少しずつ落ちていく。子供はすとんと椅子からおり、リュックサックを背負って立ち上がった。

「ここで降りるの?」

 少女の問いに子供は頷いた。「もういかなくちゃ」

 それから自分が座っていた側のドアの前に立ち、少女の方を振り返った。少女が首をかしげると子供はドアに寄りかかり、まっすぐな瞳で少女を見据えながら口を開いた。

「またあえる?」

 電車は音を立てて減速し、動きを止めた。それからドアが開くまでのわずかな静寂に、白いセーラー服を着た少女がかすかに笑う声と、優しくも強い意志のこもった言葉が焼き付いた。

「会えるよ」

 後ろの窓から金色の光が差し込み、少女を只者ではないかのように見せた。

 がちょん、と音を立ててドアが開いた。まるで、少女の言葉が呪文か合言葉であったかのようだった。ドアに寄りかかっていた子供は重力に引っ張られ、コンクリートのプラットホームに尻餅をついた。ぽすっと軽い音がした。

 子供は立ち上がって前を見た。ドアの向こう側、光の中で、少女はゆっくりと微笑んでいた。

 銀色のドアが閉まった。

 ぷしゅー、と空気の漏れる音を合図に、銀色の電車はゆっくり動き始めた。

 子供は名残惜しげに、遠くなっていくドアを目で追っていた。だがそれが見えなくなってしまうと、リュックサックの裏側からぺしゃんこになったフードを引っ張り出し、ふわりとかぶって歩き出した。ぼうぼうに生えた草が蹴られ、白い花が鈴のような音を立てる。ホームの屋根をハート型の葉が鱗のように覆っている。支えている柱にはツタが絡みついている。駅ビルには極彩色の花々が傲慢に咲いている。何故か植物が多い駅ホームを、白い服の子供が歩いていく。

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