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残し草  作者: 蒼闇
1/1

吾が友

  一


 夏の終わりの涼やかな、秋風を感じる夕暮れに、彼女はひとり机に向かって何か書きつけていた。あたらしい安い万年筆をさらさらと滞ることなく動かし、彼女は何文かを一息に書き終えると便箋を千切って傍に在った封筒に丁寧に仕舞った。そしてそれを誰にも見られぬよう糊付けしてから、引き出しの奥へ奥へと押しやった。それから暫くそこを見つめていたが、ふと顔を上げて手帳を目の前の棚から引っ張り出すと復何か書き連ねた。

『今日も不断の生活を送って居りました』

其れは彼女の日記の様なもので、とりとめのない散文的な文章が、一日に数行ほどの頻度で書きとめられている。

 前の頁を幾度か繰ってみてから、彼女は手帳を棚に戻し、万年筆を丁寧な手つきで仕舞うと、敷いてあった蒲団に伏せった。別状身体に異変のあるわけじゃあない、唯々気分に憂鬱の影が差したのを堪えきれなかっただけである。暫くは、嗚呼なんと生き辛い世であるのか、と己惚れた考えに耽り、己惚れに気付いたちいさな謙虚な良心がそれをひどく折檻する、そんな心持が続くのだった。

 彼女が再び気がついて蒲団から出てみると、既に黄昏時を過ぎて暗がりに月光が映えていた。飯を食らうにも気力の出ないものだったが、腹が減るのには耐えかねたとみて、彼女は台所へ降りて行った。静かな宵の刻だった。虫の音がよく聴こえ、表通りには人の気配すら感じられない。心地よい程に響く調理の物音はその静寂に吸い込まれていった。

席につき小さく食事の挨拶を呟くと、麦飯に味噌汁、少しばかりの小鉢料理に魚の、簡素に整った食事を無機質にも平らげていった。彼女はこのような、朝にサラダ、昼にオムレツ、夜は魚の定食といった丁寧で単調な食事を、数日、いや一か月以上やもしれぬ、長く続けている。其れは若しかすると彼女の一種の予兆のようなものがそうさせていたのかもしれない。むかしから精神耗弱にて直ぐに心身に憂鬱が差すのが、昨今は顕著になってきていた。彼女にも如何してこんな体たらくなのか全く解らぬ、それを恥じるとも誇るともなしに持て余している。その所為で夜を恐れて、恐れて、こんな独りの生活を日々繰り返しているのだった。

 食事を終え、一通りの片づけも終って身の支度も済ませると、眠たくもない身体を復た蒲団に横たえた。


  ニ


 翌日、月曜の隅中の刻になって漸く彼女はのそのそと起きだしてきた。未だ休暇の者も多いのか、相変わらず表通りには人の気配を感じない。空には雲も掛かっていたが、その所為か不思議と刺すような日差しはなく、優しかった。ぼんやりとサラダを拵えて平らげると、丁寧に身支度をした。しかし其れが外へ出かけてゆくためのものでないのは箪笥の上に無造作に置かれた鞄を見てわかる。埃こそ掃われているが、まさにこの単調な生活になったころから使われていない様に見える。出掛けないからと云って何をするわけでもない、彼女は毎日のように机に向かい、勉学に励むわけでもなしに手帳等に何かを書きつけている。

『日々の生活は辛うじて送れておりますが、此れが長く続くものとも思えません』

彼女は前の日の様に無駄に頁を繰ったりせず、手帳に日記を書き終えると直ぐに其れを仕舞い、代わりに原稿用紙を数枚取り出してみたりなどした。如何にかしていないと、毎日起る己惚れと謙虚の狭間に押しつぶされて、昨日の様に臥せってしまうというのも其の行動の理由だろうが、今回ばかりは別段考えのないわけでも無い様だ。

 ここでひとつ、彼女について少しばかり明記せねばならないことがある。誰にとってもこの女は働きもせず、勉学に励みもしない享楽家のように感ぜられることだろう。独り寂しく暮して精神の耗弱なる彼女は世間に於いて確かにそんな風体に違いない。そして其れは間違いなどではないのである。然し其れは彼女が幼き折から誰と共に居ようとその身に空虚を有し孤独を否が応にも貫かざるを得ない性質をもっていたばかりに、こんな体たらくであるのだ。幾つかの拙い散文を縷々と世に出す以外に、彼女は世間との窓を持たない。創作と呼ぶに値するかどうか、まともなことは何一つないものの、わずかな善く似た性質の友が評価をしているような活動を続けている。

 さて彼女は万年筆の洋墨の残りを確認すると、改めて机に向かった。あたらしくぱりっとした原稿用紙が、彼女の気概を窺わせる様だ。

 それから数分、暫く考えあぐねていたが、何か判然としたものが浮んだのか勢いよく書きだした。斯うなっては最早彼女は誰にも負けぬ、原稿用紙には流れる川の様に紡がれた言の葉が、さらさらと連ねられていった。


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