迷惑な再会
雪乃は闇の中を走り続けた。
後ろから人が追いかけてくる気配はないが、まだ騒ぎが起きてから時は半時程も経ってはいない。まだまだ油断はできない時間帯だ。
住人の声からすれば、犯人は雪乃と決め付けていた感がある。待ち伏せていきなり現れるということも考えられないわけではない。
寺の敷地の竹藪から林に抜けた雪乃は、辺りに人がいないことを注意深く見極めながら、早く暦延寺から離れようとその脚を早めた。
しかしその時、木々の間から1本の腕がするりと伸びると雪乃の腕をつかんだ。驚いた雪乃はその手を振りほどこうともがいたが、その手の持ち主の力は強く、振りほどくことができない。
「離せ!」
雪乃は声を上げたが、腕の持ち主は少しも容赦する様子を見せず、そのまま彼女を林の中に引きずり込んでしまった。
腕の持ち主は男。
男は雪乃の口を押さえると、彼女が身動きできないように体を背後から抱きしめる。
「やめろ!!」
雪乃は暴れた。しかしその時、雪乃が思いもしない声が彼女の耳に届いた。
「静かにしろ、盗っ人女。」
意外にもその男は篁だった。唖然とした表情で皇を見る雪乃を見て、まずは落ち着いたと判断したのだろう。篁は手を離すと、雪乃にひそひそした声で話しかけた。
「おい、お前尼寺にいただろう?あそこで何があったんだ?」
最初は動揺していた雪乃だったが、少しは安心したのだろう。元々篁を信用しているというわけではないが、雪乃には今は頼れる人物はいないし、何より篁は追っ手とは違うということは確信できていて、雪乃はそこに座り込むと、尼寺で起きた惨劇をぽつりぽつりと話し始めた。
あんな出来事、話したところで信じてもらえるのかしら?
雪乃は見たままを皇に話したが、自分で言葉を紡ぐ度に、あれが本当に現実として起きたのか自分でもよく分からなくなっていた。
老人から伸びたあの爪は、どう考えても人間の理解を超えたものの存在である。普通の人間なら、雪乃の話は戯言にしか聞こえないだろう。
だが、篁はその話をすんなりと信じた。あの山道沿いで起きた水魔を退けた彼だ。当然と言えば当然かも知れない。
「もう『黒い海』の侍従が来てしまったのか・・・・。」
篁は頭を掻くとその場に座り込んだ。
「何さ。その『黒い海』って・・・・・。」
雪乃は篁の前では淑女を気取る必要はない。すっかり素に戻った雪乃は皇の話に聞き入った。
「うちの祖父が死ぬ前に言っていたことだ。いつかこの日の本だけでなく、世界中が黒い海に覆われる。その日のために『鳳凰の血脈』を築けと・・・・。」
篁の話はこういうことだった。
『黒い海』とは、何かしら空より舞い降りる凶兆のこと。その謎めいた名だけが知らされていて、本当の正体は誰にも分からず、預言者にして篁の祖父『寵』により、この世の終わりを表す存在と伝えられている。
黒い海を防ぐためには、それなりの結界を造らなければならない。
篁はその結界の拠点になる鳳凰の像を各地に配置し、『鳳凰の血脈』と呼ばれる陣を形成しているのだという。
「この地に黒い海が舞い降りた時、その犠牲者の数は大戦の比ではない。広島や長崎のピカ(原爆)ですら微と感じるほどだと祖父は言っていた。黒い海は侍従をよこして結界を妨害しようとしている。早く最後の鳳凰像を完成させないとイカンな。おそらくその老人は、黒い海の侍従なのだろう。」
なんか胡散臭いな・・・・。
雪乃は思った。
あの奇妙な老人の存在すら自分でも信じられないのに、篁の話は常軌を逸しすぎている。
第一、世界が終わる?そんなこととても信じられない・・・・。
早くこの場を逃げ出したいと思っていた雪乃は、適当にお茶を濁して煙に巻こうとした。
「そう。それじゃ頑張って鳳凰彫ってね。私はこれで・・・・。」
「待てい!」
逃げ出そうとした雪乃の腕を、篁が引っ張った。
「鳳凰を完成させるには時間も手間もかかる。俺が鳳凰を彫り上げるまでお前が俺の身の回りの世話をしろ。」
突然の篁の命令に雪乃は驚いて応えた。
「なんであたしが!?」
「お前にはもう手間賃は渡してあるはずだが?」
雪乃はぎくりとした。
篁が言っている手間賃とは、多分彼女が皇の財布から抜き取った銭のことを言っているのだ。
「それ、脅迫?」
「いいんだぜ?警察か駐留軍に駆け込んでも。だが、ずいぶん面倒くさいことになるだろうな・・・・・。」
しまった。物の怪よりたちの悪いのに捕まった・・・・・。
雪乃は目の前が真っ暗になったような気がした。
かくして雪乃は、しばらく篁の隠れ庵で彼と一緒に暮らすことになったのである。