雪乃
これは、まだ戦後間もない頃の話。
日本は、先の太平洋戦争を大敗という形で終戦を迎え、人々は混乱の中に新たな時代へ足を踏み入れようとしていた。
古き日本に残る因習やしきたり。それらが通用せぬ大国アメリカの支配の下、
まだその新しい時代の波を素直に受け入れることのできない人々は、一様に得体の知れない支配者の影に怯え、先の見えない自分たちの運命に大きな不安を抱いていた。
まさに、混沌とした心の闇が渦巻いていた時代だったのである。
この日、会津から関東方面に続く山中の街道を先を急ぐ1人の女性の姿があった。
彼女の名前は雪乃。齢は21。
戦時中の疎開先である会津で日本の敗戦を知った彼女は戦後もしばらくの間そこで過ごしていたのだが、生家である紅羽からの便りがすっかり途絶えてしまったのを心配し、ある日思い立ったかのように疎開先の親戚の家を出て、半ば着の身着のままのような状態で紅羽への旅路についたのである。
彼女が親戚の家を飛び出したのは、実はもう1つの理由があった。
戦後の日本といえば誰もがその日の食べる物にも困っていたような時代でもある。
親戚と言えど、彼女の存在はその家にとってある意味厄介者でしかない。
いくら家事手伝いをしていても、その食い扶ちの負担の大きさに親戚には疎んじられ、居るに居られず居たたまれなくなり飛び出してきたのだ。
もしかしたら彼女の家出とも言える旅立ちの理由は、むしろこちらのほうが大きかったのかも知れない。
街道沿いのほとんど整備されていない山道の途中。もうすでに時間は夕方から夜へと移り変わり、辺りはすっかり闇に覆われている。今で言うヒッチハイクと徒歩を繰り返してここまでは来たのだが、彼女はすっかり時間を読み違えてしまったのだ。
彼女の計算では、暗くなるまでは民家がある辺りまではたどり着けると考えていたのだが、暗い山道の中、人の気配どころか1つの灯すら見えない。
こんな山道では途中で車や馬車に出会えるような偶然すらも期待できず、場所が場所だけに、野犬や狼、はたまた熊に遭遇する危険性すらある。
すっかり進退窮まってしまった雪乃は、側にある大きな石の上に腰を下ろした。改めて自分の姿を見直してみるとその汚れ具合に自分で感心した。彼女の着ていた古い洋服はすっかり泥だらけ。ぶかぶかしたモンペは裾が切れていて、靴ももう寿命が近い様子だ。もし歩いて赤羽に向かうのであれば、とてもそこまではもたないだろう。
路銀はとうに底を突いていて、唐草の風呂敷に包まれたわずかな着替え以外には彼女の所持品はない。
いや、正確に言えばもう1つだけ彼女には所持品がある。それは、彼女の懐に隠された護身用の短刀。
雪乃の死んだ母親の形見の品で、どんなに貧しい時でも決して手放さなかった彼女の宝物である。
雪乃はもっとしっかりした準備をしてくればと心の底で後悔はしているが、全ては後の祭りだ。最後に食べた食事は今朝見知らぬ人にめぐんでもらった小さな柿が1つのみで、
腹も空いているし、何より喉が渇いている。
ふいに彼女の腹部に強い痛みが走った。これは彼女が会津を出てから、たまにその姿を見せる痛みである。いつもなら時間と共にその痛みは消えていくのだが、今日はその気配が全く無い。むしろ痛みはどんどん酷くなっていき、その激痛はまともに座っていられないほどに彼女の体を蝕んでいった。
その時だった。街道の先から、暗闇の中を誰かがこちらに歩いてくる気配を感じた。
雪乃が激痛に顔をしかめながらも目を凝らすと、誰かがふらふらと歩いてくる姿が見える。
どうやら物乞いか乞食のような様相で、大きな古い布を体に巻きつけている。
見たところ若い男性のようだが、髪の毛が不精にもすっかり伸びきっていて目線がはっきりしない。
物盗り?
雪乃は警戒して懐の短刀に手を伸ばしたが、すぐにその心配がないであろうことに気付いた。
男の足取りはいやに不安定である。病気か何かなのだろうか。押せばすぐに倒れてしまいそうな様子だ。
よく見ると、男は小さな瓢箪を持っている。時々その飲み口から液体を口に流し込んでいるが、その様子が実においしそうに見える。
雪乃は喉が渇ききっている。
飲み物の持つ魅力に勝てなかった彼女は、その得体の知れない男に自分から声をかけた。
「あの・・・・・、もし。」
しかし、男から返事はない。
業を煮やした雪乃はもう1度大きな声で男に声をかけた。
「あの・・・もし!」
雪乃の声に気付いた男が、びっくりしたように彼女のほうを振り向いた。
「おお?人がいたのか!気が付かなかった・・・。」
雪乃は、恥を偲んで男に懇願した。
「あの・・・・、実は私、今朝から何も食べておらず大変喉が渇いております。
それに先程から腹痛が酷く、難儀しております。
よろしかったらその飲み物、少しばかりめぐんでいただけないでしょうか?」
男は右手の瓢箪を上げて見せると、不思議そうに雪乃の顔を見た。
「これか?これが飲みたいのか?」
「はい・・・・。」
男は雪乃に瓢箪を手渡した。雪乃が瓢箪の中の飲み物を口に含む。
途端に彼女の口の中に、むせるような強い異臭が広がった。
「飲むのは構わないが、それは酒だぞ。」
ええ!?
熱い不思議な感覚が雪乃の喉を滑り落ちていった時、突き抜けるような強いめまいが彼女を襲った。空腹に強い度数の酒。これほど人間にアルコールの影響を与える組み合わせは無いだろう。ましてや彼女は酒というものをほとんど呑んだことがない。
雪乃は意識をはっきりさせるため、急いでそこから立ち上がろうとした。だが、平衡感覚に強い麻痺が加わり、足腰から下に力が入らない。
腹痛がめまいに拍車をかけ、雪乃はフラフラとその場でよろめくと倒れこみ、まるで気を失うかのようにその場で卒倒してしまった。