EP.3-5
いつものように塀を乗り越え、裏庭の木をよじ登った所で、リュシアンはふと動きを止めた。バイオリンの音色が、メルの自室から聞こえる。たどたどしい音色に耳を傾けると、その曲はリュシアンのよく知るものだった。
(そういやおれ、昔この曲好きやったな)
昔、よく兄に頼んで弾いてもらっていたのを思い出す。
兄が奏でる美しい音色が心地好くて、大好きだった。曲名は確かーー……
「無垢の翼」
リュシアンがそう口にすると同時に、演奏が途切れた。代わりにメルの不機嫌そうな声音が響く。
「……何してるんだ、そんな所で?」
「バレてもたか」
リュシアンは残念そうにため息をつき、木の枝からベランダへと跳び移った。
「今日来るなんて、言ってなかっただろ」
「いやぁ、昨日みたいに来る言うた日に仕事入ることもあるからなあ。来れる時に来とこうと思って。そんなことよりメル坊、バイオリンなんて弾けたんなあ」
「……母上が、バイオリン好きだから」
「そか……って、もう片すん?」
メルはさっさとバイオリンをケースに仕舞う。
「もうちょい聴かせてや」
「……まだ、人に聴かせるほど上手くないから」
「じゃあ、おれが弾く」
「弾けるのか……?」
思いもよらない言葉に、メルは怪訝そうな顔をした。そんなメルを意に介することもなく、リュシアンは子供用の小さなバイオリンを手に取り、まじまじと眺める。
そして昔、兄がやっていたのと同じようにバイオリンを構え、弓を引いた。
「……あれ?」
「…………」
ギイッというとても音色とは言えない音が鳴り、リュシアンは不思議そうに首を傾げる。
「やっぱ演奏してんの見てただけじゃ弾けんかー」
予想通りの結果に、メルは呆れたような表情でバイオリンを受け取った。
「はは、メル坊はすごいなー ちゃんと音鳴りよるん」
「バイオリン、誰か弾いてたのか?」
「ああ、おれの兄様がな」
ベッドに腰掛けたリュシアンは懐かしいと笑った。
「お前、兄弟いたのか」
バイオリンを抱えたまま、リュシアンの隣に座ったメルは続けて問う。
「おったよー おれ、お兄ちゃんっ子やったからな。よお兄様のバイオリン弾く姿見とった」
「ふーん」
「メル坊がさっき弾いとった曲な、おれの好きな曲やったんよ」
メルは自分の腕の中にあるバイオリンを見つめる。
「好きな曲やった……でも今は誰も弾いてくれんからなー」
「リュシアンの兄上は王都にいないのか?」
「おれがメル坊くらい小ちゃかった頃に死んでもた。兄様も、両親もな」
「…………」
「……悪い、変なこと言って困らせたな。気にせんでくれ、懐かしい曲聴いて昔思い出しただけやから」
そう笑ったリュシアンはどこか寂しそうで、メルはバイオリンをぎゅっと握りしめるとリュシアンの正面に立った。
「メル坊?」
メルは何も言わずにバイオリンを構え、曲を奏ではじめる。リュシアンがやって来るまで弾いていた、無垢の翼だ。所々躓きながらも、最後まで演奏を続ける。
『にいさま、バイオリンひいて?』
『いいよ』
『いけません。リュシアン様はこれから剣術の稽古が控えております』
『えー、ししょーまだ来てないよ』
『申し訳ありません。ですがお兄様にはご自分の立場をわきまえて頂かなければなりませんので』
使用人の大半は自分が兄と仲良くすることを快く思っていなかったようで、事あるごとに邪魔をされた。当時は意地悪をされていると思っていたが、今なら分かる。あれは自分ではなく、兄を嫌っていたんだと。
『……つまんない』
『ごめんね。稽古が終わったら弾いてあげるから』
不貞腐れていると、兄は決まって頭を撫でてくれた。兄は自身に向けられている嫌悪の感情に気づいていたはずなのに、それでも自分に優しくしてくれていたのだ。
『ほんと!?』
『うん、約束』
今までずっと忘れていたような些細なやりとりも、この曲を聴いていると記憶の底から蘇ってきた。
そんなことを思い出しているうちに演奏が終わる。
「ありがと」
現実に引き戻されたリュシアンはぱちぱちと手を叩いた。
「もっと練習して、上手くなってまた弾くから。それまで待ってろ」
メルと視線がかち合って、リュシアンから笑顔が消える。まっすぐ見つめてくる瞳から逃れるように俯き、ぽつりと声をこぼした。
「……おれん為に、弾いてくれんの?」
リュシアンの僅かに震える声とは対照的に、メルは力強く頷いた。
「やくそく」
「約束……」
奇しくも思い出の中の兄と同じ言葉を使うメルに、リュシアンは複雑そうな笑みを浮かべる。
「そういうところ、似てるねんな」
兄とメルは瞳の色も同じだった。メルの顔を見ていると、ぼんやりと兄が重なる。
「……ダブって当然、か」
「リュシアン?」
「何でもない。バイオリン、楽しみにしてるよ」




