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無垢の翼  作者: おうか
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EP.3-4

「メールー坊? 起きてる?」


 時刻は午後9時。リュシアンは小声でそう話しかけながらベランダに降り立つ。


「メル坊?」


 返事がないので部屋を覗き込むと、正面からいきなり枕が飛んできた。


「ぶっ……」


 リュシアンの顔面にクリーンヒットしたそれは、ぼふんと音を立てて床に落ちる。


「お、怒ってる?」

「……ふん」


 メルはベッドの上に座ったまま、ぷいとそっぽを向いてしまった。


「いやー、女の子がなかなかおれんこと離してくれんでなー メル坊との約束は覚えててんけど」


 女の子とは昨日助けた女性のことだ。事情を聴きに家まで行ったはいいが、いざ終わって帰ろうとするとあれこれ理由をつけて引き止められ、ずるずると長居をしてしまった。


「もう……来てくれないのかと思った」


 俯き、今にも消え入りそうなか細い声でメルはそう呟く。


「……ごめんな、遅くなって」


 その様子を見て、リュシアンは罪悪感に苛まれた。メルにとってリュシアンとの約束がどれだけ大事だったのかを今さら理解し、そしてその約束を軽んじていたことを後悔した。

 リュシアンは枕を拾い、メルの側まで近づくと片膝をついた。


「ほんま、ごめん」


 頭を下げるリュシアンの服を、メルは何も言わずに引っ張る。


「メル坊?」


 リュシアンが顔を上げると、メルは両手をリュシアンの眼前へ広げた。


「…………だっこ」

「へ?」

「だっこしてくれたら、許す」


 慣れないことをねだったせいか、メルの耳が赤い。


「そんなことでよければ」


 リュシアンはくすりと笑うと立ち上がり軽々とメルを抱き上げた。

 初めてリュシアンに抱っこされた時は驚いたが、何度もされているうちに意外と落ち着くことに気づいた。いつもより高い目線は恐怖もあるが、それよりもずっと好奇心を刺激した。

 リュシアンがメルを抱いたままベランダに出ると、王都全域に点々と設置されているガス灯が目にとまった。


「メル坊の部屋って、結構見晴らしええよな」


 今まであまり意識したことはなかったが、貴族街の端に位置していて、尚且つ一段低い建物が並ぶ市民街の方角に窓があるおかげで、かなり遠くまで見渡せた。


「おれん家、あそこら辺かなー」

「お前、市民街に住んでるのか?」

「ああ。騎士団の寮には入りたなかったし、師匠ん家に居候ってのも悪くなかったけど、貴族街はどうもおれに合わんくて」

「でも、市民街って危ないんだろ?」

「はは、何それ。誰かの入れ知恵か?」

「勉強を教えてくれるせんせいが言ってた」

「確かに治安は悪いかもなー メル坊みたいな可愛子ちゃんが、一人でうろつくんはおすすめできん。でもま、住んでみたら割とええとこなんよ」

「……ほんとに?」


 メルが訝しげに問う。


「ほんまやって。機会あったら一回連れてったるよ」


 リュシアンがそう言うと、メルは嬉しそうに頷いた。

 その後も今日あった出来事などを話をしていると、メルの言葉が次第に少なくなっていく。


「メル坊、おねむ?」


 そう聞くと生返事が返ってきた。やがてリュシアンの肩に頬を乗せたまま、小さな寝息をたてはじめる。リュシアンはそんなメルをベッドに下ろし、布団を掛けた。


「おやすみ」


 これ以上長居してもしかたないので帰ろうかと、リュシアンはベランダに足を向ける。


「……このまま帰ったら、ここの鍵閉めれんよな」


 市民街ほどではないが、貴族街の治安も最近はあまりいいとは言えない。昨日の一件がいい例だ。塀の外からここまで登って来る人間なんて、それこそリュシアン自身しかいないだろうが、用心に越したことはない。


 正面から出るしかないかと、リュシアンは窓をの鍵を閉め、扉の持ち手を回す。


「きゃっ……」


 運の悪いことに、扉を開けた瞬間メイドと鉢合わせしてしまった。リュシアンは慌てて、そのメイドの口を左手で塞ぐ。


「驚かしてごめんなー でも声上げるんだけは勘弁したって」


 メイドが頷くのを確認して、リュシアンは手を離した。よくよく顔を見てみると、そのメイドにリュシアンは見覚えがあった。以前メルの部屋に案内してくれたメイドだ。名前は確か、エレインといっただろうか。


「り、リュシアン様……いらしてたんですか?」

「ついさっきな」


 エレインは突然現れたリュシアンに驚きが隠せないようで、落ち着きなく周囲を気にしている。


「ちょうどよかった。おれが出た後、窓の鍵閉めてくれん?」

「は、はい。それは、構いませんが……」


 メルの部屋に引き返すリュシアンの後を、エレインは慌ててついていく。


「あの、リュシアン様。いつもありがとうございます」

「おれ、きみに感謝されるようなことしたか?」

「メル様、リュシアン様がこちらに来て下さるようになってから、すごく嬉しそうで……今までメル様のあんな顔、見たことがなかったから」


 エレインはベッドで眠るメルを見て、嬉しそうに目を細める。


「メル坊の使っとる救急箱の中身、補充してんのきみやろ?」

「え、どうしてそれを……」

「この屋敷でメル坊のこと気にかけてるんって、きみくらいやん。他の使用人はメル坊と極力関わらんようにしてるみたいやし」


 この屋敷に通うようになってから、ただメルと遊んでいたわけではない。使用人の数をはじめ、屋敷内のことはほとんど把握済みだ。


「……私、ここに来てまだ日が浅くて。先輩方には奥様に睨まれる様なことはするなと、忠告頂いたのですがどうしても……放っておけなくて」

「長い物には巻かれてた方が楽やで、お嬢さん? なんて、おれが言っても説得力ないか」


 自嘲するように言うリュシアンに、エレインは苦笑する。


「最近、この辺も物騒になってきてるから、気いつけや」

「はい、戸締まりには細心の注意を払います」


 ベランダの手すりに足をかけたまま、リュシアンは振り返る。


「それも大事やけど、きみ自身もやで? 新人さんは使いっ走りにされることも多いやろうけど、人通りの少ない道はできるだけ避けて歩きや。後、暗くなってからの外出も控えること」

「はい、お気遣いありがとうございます。リュシアン様も、もう夜遅いのでどうかお気をつけて」

「ありがと。じゃあ、メル坊のことよろしくな」


 リュシアンはそう言い残すと手すりを蹴り、すっと夜闇に紛れた。

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