EP.2-9
キャロルにアイリーンを任せ、リュシアンはすぐにメルの元へ向かった。時間はすでに夕暮れ近い。屋敷の前まで来たリュシアンはふと足を止めた。
(正面から入ったら、メル坊のお母さんにバレるかもしれんなー)
昨日の今日なので、できることなら会いたくはない。
リュシアンは屋敷の塀沿いにぐるりと歩く。
(メル坊の部屋ってあそこやったな。窓も開いてるし、メル坊は部屋にいそうやな)
きょろきょろと視線を動かし、ベランダとその周りの様子を把握する。そして自分の背丈よりも高い塀の窪みに足をかけて軽々と塀を登った。そこから庭に植えてある喬木に飛び移り、そのまま幹や枝を足場にするするとたどっていくと、目的のベランダにすとんと着地した。
「よ。メル坊、元気か?」
「リュシアン!」
机に向かい読書をしていたメルは、ベランダから聞こえてきたリュシアンの声に驚倒し、本から手を離した。
「どうして窓から……ってそんなことより、怪我は!?」
血相を変えてメルはリュシアンの元へ駆け寄る。
「あー、治った」
「…………」
「なん、その疑いの眼差しは? ほんまやって! おれの地元に伝わる特殊な治癒術ってのがあるのー ほら、傷跡もないやろ?」
リュシアンはその場にしゃがむと傷口のあった箇所をメルに見せた。
「……ほんとだ」
「メル坊こそ、大丈夫か?」
心配そうにメルの顔を覗き込むが返事はない。メルは何か言いたそうに口を開くも、実際に言葉を紡ぐことはなく黙ったまま下唇を噛んだ。
「どした?」
「何しに……来たんだ」
「へ、別に用なんてないけど。ただ約束したから来ただけや」
「約束?」
「あれ、聞こえてへんかったか。明日また来るからーって昨日帰る時言うたんやけどな」
昨日ヒューイに担がれて帰る寸前に言った言葉は、メルには伝わっていなかったようだ。
「用ないと来たらあかんかったか?」
メルはそんなことはないという風に頭を振る。
「なら、ええやろ?」
「……昨日は、ごめんなさい」
「まだ言うか。昨日さんざん聞いた台詞やなー」
「だって、迷惑……かけたから」
心底申し訳なさそうにメルは俯いた。そしてメルは声を絞り出す。
「ごめんなさい。嫌いに、ならないでッ……!」
「嫌いやったら、今ここにはおらん」
リュシアンははっきりと強い口調で、メルの目を見て断言した。
「そもそも、昨日のはメル坊のせいとちゃうやろ」
しゃがみこんだまま、リュシアンはメルの手をとって微笑する。
「じゃあ、また明日も来てくれるの?」
「明日かー ここんとこ毎日メル坊の顔見てるな」
「……やっぱりいい」
「待て待て、誰もあかんなんて言うてへんやろ」
断られると思ったのか、メルの表情がまた暗くなった。
「しょげた顔しとらんと、にこーって笑ってくれるんやったら、明日も来るわ」
「…………」
急に笑えなんて言われても、メルにはどうすればいいのか分からなかった。
「そんなに笑うの嫌か?」
今まで意識して笑ったことなどなかった。上手く表情を作ることができなくて、メルはただ首を横に振る。
「うーん、こないだ笑った顔可愛かったから、また見たかったんやけどなぁ」
リュシアンの期待に沿えなかったことに、メルはさらに落ち込む。そんなメルの頭に手を置いて、リュシアンは立ち上がった。
「ま、ええわ。笑顔なんて、これから先いくらでも見る機会あるやろうし。ほな、また明日な」
「え?」
「なん、メル坊が明日も来てくれって言うたんやろー?」
意図しない言葉が降ってきて、メルは驚き顔を上げた。
「明日も来るから、今日はもう帰るわ。今日はもうじき日も暮れるしな」
「う、うん……」
リュシアンはベランダの手すりに足をかけると、来る際につたって来た木の枝を掴む。
「あの……!」
メルは頬を紅潮させてベランダの手すりに身を乗り出すと、あっという間に塀の上まで移動したリュシアンを呼び止める。
「来てくれてありがとう……! 明日も、待ってるからッ」
リュシアンが手を振って応えると、メルは自然と口元が緩んで嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「なんや、ちゃんとこないだみたいに笑えるやん」
メルの表情を見て満足げにそう呟くと、リュシアンは塀の外へと飛び降りた。




