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ジョアン王子は、遠く離れた南の国の第五王子なのだそうだ。
聞くところによると、子沢山の男系王族らしい。
上四人の兄王子達はとっくに妻帯しており、下にも幼い弟王子が二人いるとか。おかげで王位継承問題はほとんど無いし、海の近い温暖な気候のせいか豪快なお国柄。"可愛い子には旅をさせろ"精神で、国元離れて身分を隠し、王の小姓として職業体験中の身の上。
なんでも南の国の王ご自身も若い頃に中の国に留学経験があったそうで、お父様とはその頃に知り合われてご友人になられた仲だという。今でも定期的に文通しているというのだから驚きだ。
王子の素性を、お父様と宰相だけが最初から知っていた。
……私にも一言教えて下されば、年も近いし良い友人になれたかもしれないのに。
お父様ったらもう、知り合いの子供を預かって面倒をみていらしただなんて、全然気がつかなかったわ!
「王子と姫様がうっかり仲良くなって遠い所にお嫁に行かれるのがお嫌だったようですよ」
宰相が注釈を入れてくる。
……ああそうね、お父様ならそんな理由よね……。
ノックをして医務室に入ると、ジョアン王子は目を覚ましてベッドにいた。
「姫様、宰相殿」
私達に気がついて身を起こそうとするので、宰相が手助けをした。
こうやってお顔をまじまじと見るのは初めてだ。少し細身の、くりくりとした瞳の少年。13歳だと聞いたけど、もっと幼く見えるのは、ベッドにいるせいかしら。
そういえば常にお父様の後ろにこんな子がいたような気がする。初めて黄金弓を見せてくれた小姓がこの子だったかもしれない。ジョアン王子の第一声が思っていたより元気な声音をしていたので、私は少し安心した。
事前に医師が人払いをしてくれていたとみえて、室内に他の人影は無かった。私は枕元に置かれた椅子に腰を下ろして、ジョアン王子に話し掛けた。
「具合はどうですか? 王子」
「ええ、なんともありません。大事を取って安静にするよう医師に言われているだけで……大げさだとは思うんですが」
受け答えにもおかしいところはない。この様子だと本当に後遺症の心配はなさそうだわ。良かった。
身分を隠して単身で異国に来ているだけあって、しっかりした利発な子、という印象だ。
それでも、矢が降ってきた時は怖かっただろう。私は心を込めて謝罪した。
「……ごめんなさい、私の射た矢のせいで」
「いえ、僕に矢は掠ってもいませんし…。むしろ僕の方が当然避けるべきだったのに、黄金の矢の美しさに見入ってしまいました。素早い反応ができずに恥ずかしいです。己の未熟さを痛感しています。御心配をお掛けしてしまい、かえってすみませんでした、姫様」
頭を下げようとするジョアン王子を、宰相が狼狽して押しとどめる。
「申し訳ありませんジョアン様……何もかも私の不徳の致すところです」
不道徳だとは思うけど、結果的にジョアン王子を押し潰してしまった宰相が、無表情ながらアタフタしている様子が可笑しい。私は頬の内側を噛んで込み上げてくる笑いを押し殺した。
「あの……良かったらこの機会にもっと親しくして頂けると嬉しいです……僕は男兄弟ばかりなので……。ご迷惑でなければ姉のように思っても構いませんか?」
ジョアン王子の遠慮がちな申し出に、私は大きく肯いた。
「勿論よ、ジョアン王子。これから仲良くしましょうね」
「はい、シルヴィアナ姫様……!」
か、可愛い……!
「……それで、神託の儀式はどうなったのでしょうか。僕のせいで何か困った事態になってはいませんか」
ジョアン王子の心配を和らげてあげたくて、私は軽い嘘を織り交ぜた。
「ああ……大丈夫よ。一応、滞りなく終わったわ。黄金の矢の選んだ候補者の発表は後日改めて行うの」
「そうですか。おめでとうございます、姫様。……姫様の花嫁姿はお綺麗だろうなぁ。僕もお式を楽しみにしていますね」
頬を染めて祝福してくれるジョアン王子。
……言えない。新郎になるのがあなたかもしれないなんて。
私と宰相は無邪気な少年からそっと目を逸らした。
――儀式の時。
何も知らされていなかった神官長の方は、純粋な善意からだったのだろうけど。
宰相が必死に庇ったのは、この子が南の国の王子だったからだろうか。
私は背後に立つ宰相の顔をそっと窺った。
……いえ、きっと宰相は他の小姓でも同じようにしたのでしょうね。
そう確信できるくらい、私はこの人を知っている。その事を少しだけ誇らしく思った。
場を外してくれていた医師が戻ってきたのを潮時に、年若い王子と話の続きをするのはまた今度という事にして、私と宰相は医務室を出た。声が届かない場所まで歩くと、早速宰相が質問してくる。
「……ジョアン王子の事、どう思われましたか? 姫様」
「いい子だわ」
間髪入れずに私は答えた。
私は一人娘だけれど、もしも弟がいたらあんな感じなのかもしれない。可愛くてつい甘やかしてしまいそう。
私の受けた印象は宰相の気に入ったようだ。
「如何でしょう姫様。王子の事は王も大層可愛がっておられます。生国が遠方であることだけが問題なのですが、第五王子というお立場なら、婿養子の線で私が交渉を進めてみても……」
勢いづく宰相の弁を、私は慌てて遮った。
「無理よ。あの子はまだ子供じゃない。結婚相手としては見られないわ」
それを聞いて、鉄面皮の宰相が一瞬だけ、複雑な表情を浮かべた。
……そうか。きっと宰相の私に対する気持ちも同じなのね。
「ユーバート」
私の呼び掛けに、宰相が瞠目した。
「……覚えていらしたのですか。私の名を」
「思い出したのよ。昔、絵本を読んでくれたわよね?」
宰相が肯いて、目を細める。
「ええ……あれは私がまだ事務次官だった時ですね。当時の姫様の乳母は、腰痛持ちで。あなたは若いんだから体力があるでしょう年長者を敬いなさいと言われて、時折いいように押し付けられていたのです、子守りの雑用……いえ、天使の様に愛らしい姫様のお相手をする栄誉を」
「似合わないおべんちゃらはいいから」
私は顔を顰めて手を振った。
宰相にお世辞を言われるなんて、気持ち悪い。まるで、喉の渇きを潤そうと口にした飲み物が、どろりとした蜂蜜だった時のよう。
「なんで絵本だったの? 堅物宰相のイメージとあまりにもかけ離れていたから思い出すのに時間が掛かってしまったわ」
直球で尋ねてみると、宰相は微かに苦笑した。
「この私に、子供を扱う心得があるように見えますか? ……場が持ったのですよ、本さえ読んでいたら」
言われてみれば確かに、ユーバートに読み聞かせ以外の事をしてもらった覚えがない。成程、子供相手に時間を潰す、一番無難な手段だった訳ね。そんな手にころりと参ってしまうなんて、私も大概だわ。
……そう。多分、あの時から私は。
「ねえ、ユーバート」
再度、名を呼んだ。
「なんでしょう、姫様」
戻ってくる宰相の返事は10年以上前から変わらない。
私は思い切って聞いてみることにした。
「この前、神託の儀式の後……どうして怒っていたの?」
「怒っていた? ……姫様に私が、ですか?」
宰相は怪訝そうだ。
「ほら、中庭であなたの年齢を聞いた時」
私はおそるおそるヒントを出す。宰相はしばらく考え込んでから――、
「ああ」
とようやく思い至った様子だ。
「あれは、姫様が…………神託の相手ならば誰でもいい、年齢なんかどうでもいい、みたいにおっしゃるので」
宰相の答えに拍子抜けしてしまう。
「……どれだけ気にしてるのよ、あなたは」
「そうは申されても、世代間ギャップは結構重大なファクターで」
「……今は、誰でもいいとは思っていないわ。年齢はどうでもいいとは思っているけど」
「どうでもは良くないです姫様」
頑なな態度の宰相に、私はだんだんと立腹してきた。
「あのね、いいこと? 4年後には私は20歳よ。あなたは?」
「……34ですが」
「9年後には私が25、あなたが39。それから私が30であなたが44。私が50歳になったらあなたは64歳……」
「……何がおっしゃりたいのですか、姫様」
「その頃には私達の年齢差なんかたいした問題じゃないわよね、って事」
半分くらいの歳だから駄目だって言ったのだ、この男は。
「……数字だけが問題なのではなくてですね。あえて率直に申し上げますが、私は姫様が好きです。僭越ながらとても大事に、大切に思っております。しかしけして恋愛対象としてではないのですよ」
「分かってる。それはあなたが過去の子供だった私を見ているからだわ」
だって"そういう趣味"はあなたにはないのだものね。
「だからお願い、ユーバート。今の私を……これからの私を見て頂戴」
自分で言うのもなんだけど、私はお母様に似ていると言われる。だからきっと美人になるはずだ。色気だってそれなりに……もう少しくらいは出てくるはず。宰相の好みがどんな女性なのかまでは知らないけど、少なくともいつまでも子供扱いはさせないわ。
だから、せめて、もう少しだけ。
答えを出すのを待って欲しいの。
「強制はしない。あなたが私の事をちゃんと好きになってくれるまで、結婚するのは待つわ」
「……ならなかったら?」
「なるまで待つわ」
私の返答に、固い表情をしていた宰相が思わずのようにフッと吐息を漏らす。
「……それは強制とどう違うんですか」
「だってあなたが言ったのよ。私が好きになったら絶対に相手からも好きになってもらえる、大丈夫です保証しますって」
「……言いましたかね? そんな事……」
忘れたふりで誤魔化そうとしても、宰相自身の泳いだ視線が覚えている事を証明していた。真面目過ぎるほど真面目な性格の弊害だ。私は思わず噴き出した。
「笑わせないでよ、これから一世一代の告白をしようとしているんだから」
「姫様、お待ちくだ……」
止めようとした宰相を遮って私は高らかに宣言する。
「あなたが好きよ、ユーバート」
宰相の瞳に動揺の色が浮かんだ。
ああ、絵本を読んでもらっていた時には想像もしていなかったわ―――愛の言葉を告げて、相手に罪悪感を抱かせる日が来るなんて。
「姫様。……私は、あなたに幸せになっていただきたいのですよ」
ツキンと胸が痛んだけれど、私は微笑んで言葉を続けた。心にも無い微笑には慣れている。願わくば、宰相にだけは"引き攣った笑顔"に見えていませんように。
「私はあなたがいいの。―――あなたと、幸せになりたいの」
分かってる。
相手の気持ちを無視して無理矢理結婚したって幸せになんかなれっこないし、神託の結果を無視する事も叶わないだろう。宰相の気持ちがいつまで経っても変わらないようなら、私は結局他の二人から結婚相手を選ばなくてはならない。
けど、目の前のこの人こそが、幸せを諦めるなと私に言ったのだ。だから頑張る。王女であることも神託の乙女であることも言い訳になんかしない。好きな人に、自分を好きになって欲しい。だってそれが私の幸せだから。
……最良の結果を望んで努力するくらい、いいわよね?
「覚悟していてね、ユーバート?」
女神の神託の威を借るのではなく。黄金の弓矢を用いるのでもなく。
私自身の力で、いつかきちんとあなたの心を射止めてみせるのだから!
シルヴィアナ視点はここで終了。
次、後日談で完結です。